明日菜と刹那がしかつめらしい顔をして課題のプリントやらノートやらとにらみ合っている。
 腕が動いていない。
「……千雨ちゃん、わかんない。どうしてこれがこうなるの? あれ、こっち? え?」
「長谷川さん、すみません。ここ、教えていただけるとありがたいんですが……」
「朝倉、そっち頼んだ」
「はいはい。私がアスナ担当だね。で、どこが分からないって? アスナ……そもそも見てるページが違うんだけど」
「え? ウソ!? こっちだったの!? じゃあここまで書き終わった部分全部書き直し!?」
「アスナっち、あんた凄すぎ。もちろん悪い意味でだけど」
「桜咲。……何が分からないんだ?」
「その。お恥ずかしながら、今何が分かってないのかがまず分からないというか。いえ、私は何を分かるべきなのでしょうか」
「お前は何を言ってるんだ。つーかそういう哲学的な話は綾瀬としろ。で、どこだ」
「はい? 呼びましたか」
「なんでもない。気にすんな」
「はぁ」
「えっと、ここです。このノートの書き方だと、どうしても意味が取れないんですが……これはいったい」
「……おーい神楽坂ー。こっちに仲間がいたぞー」
「ウフフフフ。歓迎するわ刹那さん、バカレンジャーの世界へようこそ……」
「え!? ま、まだです! 私はまだそこまで落ちてませんっ!」
 まだであることを強調しているあたり、崖っぷちにいることは理解しているようだった。
「でもさー、桜咲さんってバカレン予備軍だよねぇ。こないだのテストの順位、たしかエヴァちゃんと同じくらいだし。もう少し落ちると、バカレンジャーのメンバー入れ替えになると思うんだけど」
 周囲の喧噪何処吹く風と言わんばかりに、夕映は静かにファミコン版ウィザードリィを遊んでいる。
 ちらりと見ると、キャラ作って、一階に降りて、真っ先に出逢った敵の名称がみすぼらしい男だった。
 ご愁傷様である。
 名前を見て雑魚だと思ったのだろう。当たり前のように戦った途端、凄い勢いでパーティが壊滅していった。正体はブッシュワーカー。最初期において、一階で出くわす敵のなかでは飛び抜けて危険な相手である。
 あ、と呆然と口を半開きにして画面を見つめている夕映の姿があった。
 逃げたので一人だけ生き残ったが、ここから立て直すのは厳しい。キャラ作成からやり直した方が早いだろう。
「……迷宮で冒険するというのは、こんなに難易度の高いものでしたか」
 夕映がぽつりとこぼした。
「まあ、ウィザードリィは……慣れるまでは辛いかもな。慣れてもあっさり全滅するが」
「油断すると全滅する。ふむ、奥が深いです」 
「ちなみに宝箱のトラップ解除に失敗するとひどい目に遭う。序盤で毒食らったら大抵死ぬ。麻痺食らってもけっこう死ぬ。で、調子に乗って進んで引き際を誤ると死ぬ。レベルが低いときに強い敵と戦うと死ぬ。敵が大量にいても死ぬ。敵に忍者がいると首を刎ねられて死ぬ。魔法が飛んできても死ぬ。ブレス食らっても死ぬ。遠出して回復手段が尽きても死ぬ。まあほとんど死んで覚えるゲームだ。頑張れ」
「なるほど」
 ふむ、と深く頷いて続きを遊ぶ夕映だった。


 ようやく手が掛からなくなった。
 というか、千雨たちの手を離れて、明日菜と刹那の二人が静かに宿題に集中し始めたのだ。
 夕映は都合三回目のキャラメイク中である。ボーナスポイント欲しさに、適当な名前でキャラを作り始めている。侍もロードも忍者も最序盤だと作る意味があんまりないのだが、とりあえず見てみたいとのことなので、その作業を止める理由もない。
 そんな中、和美がそっと近づいてきた。
「ちうちゃん、ちょっといいかな」
 やはり、小声である。千雨が一応それを隠している、ということは認識しているようだった。
 知られてしまうこと自体は避けがたいことであるとは思っていた。エヴァを始めとして、コスプレイヤーちうの存在は、すでに数人には知られていることだ。必死になって隠していたわけではないが、積極的に千雨=ちうという事実を知られたいとも思ってはいなかった。
 そして、こうして和美にかぎつけられることも想定はしていた。
 ただ、それによってクラス中に、さらには麻帆良中に広まってしまうのは流石に勘弁して欲しかった。
 さりげなく他の面子に声が聞こえないくらいの距離まで離れると、和美はいやー悪いねーと言いつつ色々と話し始めた。


「で、コスプレイヤーちうの正体とか銘打って記事にすんのか」
「しないしない。それも考えなかったわけじゃないけど、それやっちゃうと、これから千雨ちゃんが困るでしょ。『ちう』って名前、結構有名になっちゃってるんだよねえ。さすがに今後の生活に差し障りありそうだもん。そこはちゃんと黙っておくって!」
「いいのか?」
 和美の持つ麻帆良のパパラッチという異名は伊達ではない。すでにして色々と暴き立てているからこその呼び名なのだ。
 パパラッチ呼ばわりを普通に受け入れている以上、相手のことなどおかまいなしだと思っていたのだが、抱いていたイメージと本人とのあいだに多少の差異があったようである。
 深く付き合ったことが無かったから当然なのだが、なるほど、当人は社会の悪を探り当てるジャーナリスト希望らしい。
「いやほら、私も友達なんでしょ? ちうちゃんの正体がスクープなのは確かだけど、そのために友達を売るほど腐ってないし」
「朝倉。悪かった。お前のこと、ちょっと誤解してた」
「見直した?」
「だいぶ」
「そりゃ良かった! あ、千雨ちゃんが自分からネタ提供してくれるなら拒まないわよ。何かない? あ、正体隠したままでいいから、インタビューはさせてくれると嬉しいな。『コスプレイヤーちうの独占インタビュー』みたいなヤツ」
「は? 単なる一オタのインタビューに需要あんのか」
 そう聞くと逆にひどく驚いた顔をされた。
「あれ? ……大手のニュースサイト見てないの? 結構前にランキングの一件があったじゃない。あのときはまだ知る人ぞ知るくらい知名度だったのに、ここんとこ一般層にまで広まってるんだよね。やっぱりこの間のコミケが切っ掛けっていうか、ひっそりやるにはマズかったんじゃないかなぁ。あれでネット上のアレな連中が、謎のコスプレイヤーちうの正体を追え! みたいなノリになってるよ」
「なん……だと……!」
 カウンタを付けているわけではないが、そういえばデータの転送量が増えていたことを思い出した。
「ネタに走れるなら、まだ余裕っぽいね」
「いや。わりと焦ってる。けど、そんな状況だとインタビューも避けた方が良さそうだな」
「まあ、確かに身バレの危険性があるかー。麻帆良には私以外にも目ざといのいるしね……。んー、あのサイト自体には結構前から目は付けてたんだけど、ちうちゃん、ネトアみたいに単に目立ちたいってわけじゃないよね。単にコスプレしてるとこ見せたいだけ?」
「コスプレもなぁ……ぶっちゃけ良い出来だから見てくれってだけで、今は他のことにあんまり興味ねぇしな。ただ麻帆良の中学生ってバレたら面倒過ぎる。元々無理してやるもんでもないし……騒ぎになってるなら、いっそ、しばらくサイトも休止にしとくか。……というか、この会話自体がインタビューっぽくなってねえか? おい」
「チッ、気づかれたかっ!」
「おいおい」
「あはは。冗談だって」
「にしても、ネタねえ。なんかあったかな。……これ使うか?」
「七不思議? いやー、うちの報道部も、私が記者やってるまほら新聞も色々取り扱うけどさ、さすがにこっち方面はサークルの専門誌があるからねえ。特集組んでもあんまり大したネタにはならないし、気持ちだけ受け取っとくわ」
「ふうん。そんなもんか」
「そんなもんよ。ま、無駄足じゃなかったから気にしないで」
「無駄足じゃなかったって、どういう意味で?」
「ちうちゃんの、っていうか千雨ちゃんの考え方が分かっただけでも収穫よ。記者としては、今後に繋がるなら完全な無駄じゃないってこと。取材対象と仲良くなっておいて損はないしねぇ」
「じゃあ、もう用は無いんだな。そろそろ帰るか?」
「アスナたちが終わるまで待ってるつもり」
「そうですか。では私は先に部屋に戻りますね」
「……ゆえっち、どこから聞いてたの?」
「ほぼ最初からです」
「千雨ちゃん、ごめん。これって私のせい、だよね」
 深刻そうに頭を下げる和美に、千雨は一瞬何を言っているのかと首をかしげ、すぐに気づいた。
「……? ああ、私がコスプレの趣味があるってことなら、綾瀬は前から知ってるぜ」
「は?」
「ええ。知ってますが、それが何か」
「え? あれ? どういうこと? これって公然の秘密だった?」
「そんなことはないが……実は、そっちの二人も知ってる」
 さりげなく耳をそばだてていた明日菜と刹那も愛想笑いをしていた。
「え? アスナと桜咲さんまで……えええ? 情報通を自負してる私が一番情報が遅かったの!?」
「ちょっと色々あってな。近衛経由でサイトに載っけてた写真がアスナに渡ってバレたんだよ」
「その。申し訳ありません。お嬢様に代わって謝罪させていただきます……」
「責める気は無いから気にすんな」
「というか、アスナたち宿題やってたんじゃ……?」
「えっと」
 顔を見合わせる二人。
「私と同じことを考えていたようですね」
「つまり?」
「朝倉さんが何か良からぬことを考えていそうだったので」
 夕映が直截な表現で告げた。
「あ、あれー? 私ってそんな信用なかったっけ?」
「はい」
「ゆえっち即答ってヒドクない!?」
「朝倉さん。……少しは日頃の行いを思い返すが良いです」
「ゆえっち口調キツイよ!? っていうか、もしかして用もないのにわざわざ付いてきたの私の監視のため!?」
「朝倉さんのことは、一般的な事象についてはそれなりに信用していますが、スクープ絡みではかなりの無茶もいとわない。多少危険だと思っても現場に飛び込んで調べようとする。そう捉えてますが、間違ってるでしょうか」
「そりゃ、間違っちゃいないけどさ」
「性格を深く知っているわけではない以上、行動の表層にあるもので判断するしかないです」
「つまり日頃の行いってこと、ね。でもさ、ゆえっちに睨まれるようなこと、私なんかしたっけ?」
「身体測定のあとに1−Aバストサイズ速報とか作ったの、忘れてませんから」
「あ、あはは。そんなこともあったかなー」
「順位表にして、しかもエヴァンジェリンさんだけ除外してましたよね、あれ」
「いやー、だってエヴァちゃんなんか怖いし」
「そんなことで真実を追い求めるジャーナリストを名乗ろうだなんて烏滸がましいにも程があるです!」
 ぐさり。結構痛い指摘だったらしい。
 和美はよろけた。
「私は風香さん史伽さんより上でしたが、ほぼ最下位でした。そして順位表では、千鶴さんや委員長さんに続いて、朝倉さんは上位に位置していました。朝倉さん……あなたは持たざるものの気持ちを考えたことがありますか!?」
「えーと。その。ごめんなさい」
「真実だからといって知らしめて良いことと悪いことがあるのです! 胸の大きさなんてその最たるもの! 違いますか!!」
「ははー。仰るとおりで」
 和美は平伏している。なんだかよく分からないが夕映の迫力に当てられたらしかった。


「ともあれ私のことを心配してくれたのは分かった。三人とも……その、ありがとよ。でもな」
「はいはい、分かってるって。刹那さん。さっさと宿題に戻るわよ!」
「は、はい!」
 何か言われる前にさっと机に向かう二人だった。
「……で、朝倉」
「なにかなー」
 床にへばりついたまま動こうとしない姿はそこはかとなく寂しげだった。
「まあ頑張れ」
 全く心のこもっていない声援を受けて、和美はゆったりと身体を起こした。
 夕映は遊んでいたファミコンを少し名残惜しそうに片付けてから、立ち上がった。
「では、そろそろ部屋に帰るです。用件は済みましたし」
「んじゃ、私も帰るよ。……ちうちゃん、インタビューされる気になったらいつでも連絡してちょうだい」
「分かった。つっても当分はその気にはならないと思うが」
「いいのいいの。さっきも言ったでしょ。繋がりが出来れば充分よ。切っ掛けひとつでけっこう違うんだから」
「そんなもんかね」
「そんなもんだって! じゃ、また学校でね」
「ああ。またな」



 それから数十分後、ついに明日菜が歓喜の声を挙げた。
「終わったあっ! 終わった、終わったわよ千雨ちゃん!」
「そりゃ良かったな。コップ出せ、麦茶入れるから」
 テーブルの上に置いてあったコップを受け取って、なみなみと注いでやった。
「ありがとー! ……あー美味しい。労働のあとの一杯。なんて素晴らしいのかしら!?」
「オッサンくさい発言するなよ……」
「う゛」
「あと桜咲がまだ終わってないんだから、隣であんまり騒いでやるなよ」
「あ、ごめんね!」
「いえ。もう終わるところですから大丈夫ですよ」
「麦茶飲むか?」
「すみません。お願いします」
 同じように目一杯入れてやった。
 麦茶で満杯のコップを脇に置いて、刹那は手早く文字を埋めていく。一分経たずに書き上がった。
「はい。終わりました」
「良かったな」
 長い一日だった。
 八月の終わりそのものに愛着はないが、夏休みの最後という言葉にはどこか寂寥の響きがある。友人の宿題を手伝って過ごすというのはありがちではあるが、平和であるとも言えた。
 すでに外は暗く、鳴滝姉妹あたりはとうに寝入っている時刻であろう。
 休日と呼ぶにはなんだか慌ただしく忙しかった気はするが、終わってみれば悪くない一日だった。
 刹那は穏やかな表情をして、コップを手に取った。一口、大きく傾けて喉を潤して、深く息を吐き出した。
「ええ。これもひとえに……ん?」
 何か聞こえた。
 耳を澄ますまでもない。近づいてくるのは足音である。
 あまり聞き慣れない足音に、千雨が眉をひそめた。目的地はこの部屋らしかった。あとに遅れて二人分の足音が聞こえてきた。
 あとに続いたのは軽い音――夕映の足音だった。もう一つは、おそらくのどかだろう。
 まったりし始めた空間に、妙な緊張感が走った。
「……嫌な予感が」
 ドアの向こうから声が聞こえた。軽いノックのあと、
「千雨ちゃん、起きてるよね?」
 早乙女ハルナの声である。
「いや、寝てるぜ」
「そっかー。そりゃ仕方ないねー……って漫才のネタかっ」
「なんとなく想像が付くのがすげー嫌なんだが……一応聞くぞ。早乙女、こんな時間に何の用だ?」
「ふっふっふ。水くさいなあ、言ってくれれば良かったのに」
「何の話だか分かんねぇが」
「千雨ちゃん、一日目と二日目の会場にいたんだって?」
 刹那と明日菜が顔を見合わせている。意味が分からなかったようである。
 千雨にはばっちり理解出来ていた。
 なぜその発言が出て来るかの理由に付いてまで思い至っていた。
「というわけで千雨ちゃん、ドア開けてくれないかなー。同好の士として話を聞きたいと思って」
「健全な薄い本を買う程度のオタなのは認めるが。……で?」
「ラフィールって呼んで良い?」
 舌打ちこそしなかったが、無言でドアを開けた。
 夕映が申し訳なさそうに佇み、その脇では、のどかが重苦しい雰囲気を纏って俯いていた。
 さっきの今で、これである。
 真正面では、ハルナがにんまりと笑顔を見せていた。


 結論から言ってしまえば、ハルナにバレたのは完全に事故だったのだという。
 のどかに喋らせるのは酷だろうと、一部始終を目撃して止められなかった夕映が説明を始めた。
「その、のどかが読んでいた小説がたまたまアレでして」
「日本人作家のスペオペね。銀英伝でも読んでたのかと思ったら……星界の紋章だったか」
「……いえ、戦旗の三巻ですー……」
 あ、そこの訂正はちゃんとするんだ、とおそらく全員の心がひとつになった。
「最後まで読み終えたところ、ちょうどハルナが小休止を入れたタイミングでした」
「さすがにアニメになった小説だからねー。私も見てたし。で、普段はのどかと私って読んでる本の方向性がまったく違うもんだからさ、こういうパターンで盛り上がったことがなくてねぇ。アニメではこんな風になってるって画像を見せようと思ったのよ。ネット使って」
「……お恥ずかしながら、二人のしている話題に私が気づいたときには、すでに遅かったです」
「だってさ『ラフィールと呼ぶがよい!』実写版とか書かれてたら千雨ちゃんだって気になって見るでしょ!」
 反論出来なかった。
 良い悪いは別にして、怖いモノ見たさもあってまず、間違いなく画像に飛べるリンクも反射的に踏む。
「で、実写版って……これコスプレ写真じゃん、とか思ってたら案外出来が良くて、私は今年の会場のコスプレのレベル高っかーとか思ってたわけよ。そしたらのどかが『あれ? ……これって、もしかして千雨さんじゃー……え?』って口走ったんだよね。いやー目を疑ったよ。ホントにラフィールまんまなんだもん。で、写真についてた解説文を見たら、ちうってコスプレイヤーらしいと。サイトもあると。サイトを覗いても一瞬ではわかんなかったけど、言われれば確かに千雨ちゃんだと。でね、ふと気づけば、そこに至るまでさりげなく話題を変えようとしていたゆえ吉クンがいたわけだ」
 その瞬間から矛先がそっちに向かったということだ。ちうのことを知っていると思しき夕映に。
「……悪かったな、綾瀬」
「いえ。どうにもできなかったので、謝っていただくのは」
「宮崎もすまん。気を遣わせたか」
「そのー……」
「で、早乙女。何が望みだ」
「いや大したことじゃないよ。別に言いふらしたりする気もないしね」
 のどかと夕映が露骨に驚いた顔をした。隣で聞いていた明日菜も似たような表情である。
「ハルナ。……体調大丈夫ですか?」
「ゆえ。どういう意味かなー」
「そのままの意味ですが。本物ですか?」
「ほーう。偽物に見えるって?」
「ハルナがこれを知れば、間違いなく言いふらすと思っていたので。ほら、のどかもそう思ってるです」
「う、うん。まだ大声で叫んでないのが不思議なくらいだよー」
 こくこくと小刻みに首を縦に振るのどかだった。
「えー。二人とも……ひとをなんだと思ってるのよ」
「噂を聞いたらとりあえず広めずにはいられない性格ですよね?」
「自分のでも他人のでも、修羅場だったらなんでも大好きだって……ハルナ、前に自分でいってたよー……」
「あちゃー。間違ってないわそれ。友達にこんなに理解されてて、お姉さん嬉しいやら悲しいやら」
「友情を確認し合うのは結構なことだけどよ、結局どうすんだ」
「メンゴメンゴ。つってもホントに大したことじゃないよ。私さ、ちょっと生の『ちうちゃん』が見たいだけだよ」
「……あん?」
「自分のスペースで売り子やっててね、しばらくして落ち着いたから、友達に任せてちょっと会場見回ろうと思ったのよ。で、サークルの挨拶回りと新刊探しをそこそこで切り上げてコスプレ広場に足を運んでみたわけよ。前日、前々日にちうが来てたってんで、すごい話題になってたからね。いやー、すごかったよコスプレ広場の空気。どこぞのサイトで取り上げられたのを見て興味本位で来たのもいたらしくて、量としては去年の三倍くらいいたかな。下手するともっといたかも」
 そんな影響があるとは完全に想定外であった。千雨は急に仕事が増えたであろうスタッフに対して、非常に申し訳ない気分になった。列整理その他で余計な手間を増やしたらしい。
「三倍もいたら動きづらいのなんのって。で、見つからない。混雑してるし来てるのかどうかも分からない。じゃあ本物に見えたらそれが『ちう』だ! みたいな感じで、カメコ連中だけじゃなく、自分でコスプレしてる子たちまで必死に探し回ってるんだもん。大半はコスプレの出来をじっくり見てもらえるから妙に盛り上がってたけど、ちうちゃん目当てだった連中の落胆ぷりったら……まあ、すごかったよ」
「そりゃ悪いことをした」
 まさかハルナがいそうだから三日目の来場を回避した、と告げるわけにもいかず、微妙な表情で頷いた。
「そんなわけだからさ、私の無念を晴らしてもらおうかなぁって思ってね。大丈夫、強制はしないわよ」
「……ふうん。やらなかったら誰かにバラすのかと思ったが」
「しないしない。つーかさ、いくら私でも、やっていいことと悪いことの区別くらいつくって!」
「ハルナ……悪いものでも食べたんですか!?」
「ねぇハルナ……ほんとうに大丈夫ー……? 熱ないー? 宿題終わってないなら手伝うからー……」
「なんだろう、この、当たり前のことを喋ったはずなのに心配される日頃の私の評価って」
「展開が朝倉のときとすげー似てるんだが」
「え、これって朝倉も知ってるネタだったんだ? なーんだ、けっこうあちこちでバレてるねー。残念、これでちうちゃんに恩を売れたと思ったのになぁ……っ!」
「あ、いつものハルナです」
「良かったぁー」
「あれれ? 私ってどういう扱い!?」
「そういう扱いだ」
「……話はまとまったようですので、私はこれで部屋へと戻らせていただきます。お世話になりました、長谷川さん」
「ああ。また学校で」
「大丈夫そうだし、私も帰るね。おやすみなさい、千雨ちゃん」
「ああ。おやすみ」
「おーい、ちうちゃんのコスプレ、見てかないの?」
「待て、早乙女。まさか今ここでやれと?」
「せっかく観客もいるんだしさ。いいでしょ。あ、衣装用意するのに時間かかるとか?」
「……いや、衣装抜きでやってやるよ」
「へ?」
 ドアへと向かっていた二人が足を止めた。


 呼吸を落ち着ける。なりきりの対象を明確に思い浮かべる。
 あるいは概念的なものでも出来なくはないが、やはり具体性があるに越したことはない。
 知人や友人であれば深くなりきることができるが、それなりに理解が及ぶ相手であれば、漫画や小説、アニメや映画といったフィクションのなかの登場人物であっても構わない。
 千雨が他者の技、魔法、何らかのスキルをなりきることによって再現するのは、ストラゴスの用いたラーニングの一種である。すなわち自分の目で見る必要があり、またそれを相応のレベルで理解しなければならない。
 フィクションの作中で見ることのできるものは、書物による記述を読み取るのとさほど変わりない。すなわち、それだけでは完全に再現することはできないのである。
 だが、技や魔法、特殊な技術はともかく、その在り方、人格、口調や考え方、ふとした瞬間に浮かべる表情など、十分に推し量れるものであるのなら、それは千雨にとって「なりきり」の対象になり得る。
 カードキャプターさくらにおける『木之本桜』『大道寺知世』や、星界の紋章における『ラフィール』のように。
 これもまた、師匠たるゴゴの「ものまね」ではなく、千雨の「なりきり」だからこそ出来ることなのだ。
 真似しつつ、しかし完全に同じではありえないからこそ、現実には存在し得ない相手へと『なりきる』ことが出来る。
 なるほど。確かにこれはコスプレの延長線上にある行為だ。
 ゴゴのものまねは完璧だ。「繰り返す」ことに意味があり、そこに「ものまね」の神髄がある。
 千雨のなりきりは不完全だ。なりきってしまえば「繰り返す」だけでは足りないのだ。やらねばならぬことが増えるということは、純粋な真似ではなくなるということでもある。
 やはり自分はなりきり師だ。今後も、ものまね師はついぞ名乗れそうにない。
 衣装もなく、シチュエーションもそぐわない。あまりやり過ぎても今度は別の問題に発展しそうだ。
 諸々の事情を勘案し、一番分かりやすい一言だけを発するに留めることにした。
 これならよかろう。いや、これしかあるまい。
 内心では多少の苦笑を浮かべつつ、千雨――いや、ラフィールが目を見開いた。


「え? ちさめ、さん……?」
 訝しげなのどかの声だった。そこにいるのが本当に長谷川千雨なのかに確信が持てない。そんな声だった。
 明日菜も、夕映も、似たような表情を浮かべていた。
 ハルナは一瞬驚いた顔をしたが、興味津々といった風に千雨の顔を覗き込んでくる。
 刹那は、動揺を顔にこそ出さなかったが、しかし千雨の雰囲気が変化したことには明らかに気づいている。
 単なる女子中学生に過ぎなかったはずの千雨から、平凡とはかけ離れた気配が発せられれば身構えるのも分からなくはない。帝国の王女らしい尊大さ、もっと分かりやすく偉そうという表現で表しても構わない。
 決して他者を見下しているわけではない。ただ、上に立つ者特有の空気を纏っているのだ。
「長谷川さん……いや、あなたは誰です?」
 ほんの少し剣呑な響きを以て、刹那が問う。
「ちょっとちょっと! 刹那さん! なんで千雨ちゃんをそんなにらんで……千雨ちゃん、よね?」
 自信なさげに明日菜が首をかしげた。
「いや、いやいやいや! これってラフィール殿下でしょ?」
「それって、こないだの写真の!? ラフィールって……誰だっけ。ちょっと聞いたような気はするんだけど」
「ラフィールさんは、星界の紋章という小説のヒロインです……すっごく可愛らしくて、とっても素敵な女の子なんですー……尊大で傲慢で、素直で優しい女の子でしてー……」
「尊大とか傲慢って言葉と、素直やら優しいって言葉って一緒に使うものだったかしら……」
「そもそも、女の子って言っても二十歳くらいじゃなかった? 設定だと」
 明日菜が混乱している横で、ハルナが余計な茶々を入れた途端、のどかがさっと言い返した。
「それは続編の方で……。最初は十六歳、そんなラフィールさんは格好良くて綺麗で可愛くて素敵な女の子ですー」
「千雨ちゃんのコスプレって言ってたっけ。コスプレってすごいのね。丸きり他人になりきっちゃうなんて」
「あ、いえ、コスプレはコスチュームプレイの略なので、衣装などを使って漫画やアニメのキャラクターに扮する行為を差します。いまの千雨さんは衣装抜きなので、こういうのもコスプレというのかという根本的な疑問が……」
「いいじゃない、すごいんだから」
「そうざっくり切り捨てられると説明した者としては虚しさが残るのですが」
「えーと、つまり」
「刹那さんがそんな身構える必要ってないんじゃない?」
「そういうものなのでしょうか……」
 圧倒されていたのもつかの間、あっという間に千雨を中心に全員が好き勝手にしゃべり出した。
 うむ、と満足げに千雨は頷いた。
 さて、星界の紋章という小説は、主人公であるジントとラフィールの物語である。
 ラフィールは、アーヴという帝国においては皇帝の孫である。
 彼女は生まれながらの王女であり、自らの顔と名はアーヴにあっては知らぬ者がいない。王女であり、皇孫女である。生まれたときから殿下という敬称を以て呼ばれる立場である。
 それゆえに名を問われるような機会は存在しなかった。
 しかし自らを知らぬジントに対し、ラフィールが告げた言葉は、あまりにも有名であった。
 彼女はたまさかに訪れた出会いに、確かな喜びを以て名乗るのだ。
「それで、きみのことは何と呼べばいいかな?」
 物語の作中におけるジントの行動にあやかって、そんな問いが投げかけられる。
 もはや無知と幸運のなせるわざではありえないそれであっても、千雨は答えるに吝かではなかった。
 相手が、状況が違うからこそ。
 ほんの少し違う表情で、大きく違う心境で、けれど笑みをこぼしてこう口にする。
 勝利を高らかに謳うように。
「ラフィールと呼ぶがよい!」


 なりきりは一声だけ。そう決めていた。
「……とまあ、こんな感じでどうだ」
 本物と会話を交わしたこともなければ、完全に理解しきっているというわけでもない。
 実在しない人物になりきることは、千雨にとって、あくまでコスプレの範疇を出ないのだ。
 まず、千雨の行う『なりきり』は、あくまで対象の人物のように振る舞うだけで、そこには千雨の抱いた印象であるとか、解釈であるとかが無視し得ないほどに混入している。その人物ならばこう考えるだろう。その人物ならばこうするだろう。その人物ならばこれが出来るだろう。そういった千雨の理解によって、なりきった相手の在り方が形作られる。
 だからこそ、本人が知っていて、千雨が知らないことは、当然であるが知り得ないのだ。
 たとえばラフィールはアーヴという種族であるが、この種族には『アーヴの地獄』という、アーヴに不当な危害を加えた者に対し復讐するための、死より恐ろしい苦痛を与えるための施設が存在している。
 だが、その具体的な内容を説明しろと、なりきっている最中の千雨に言われても困るのだ。
 知るはずのない知識がどこからともなく降りてくるわけではない。
 同様に、再現しえない技術が勝手に湧いてくるわけでもない。
 どれほどなりきった相手が凄まじくとも、現実に行うにはやはり限界がある。当たり前のことだが、あの世界において魔石の力を用いて大きく鍛えられたにせよ、千雨のキャパテシィには限りがあるのだ。鳥山明の漫画のキャラクター、アラレちゃんになりきったところでパンチ一発で地球を割ることは出来ないし、もちろん、平気で首の取り外しが出来るようにもならないのである。
 千雨の『なりきり』は、ある意味では技術の一種である。
 身体の動かし方、ものの考え方、言動、そういった情報を山ほど集積した結果として、対象になりきるからだ。理解しきれない部分が増えれば増えるほど精度は落ちる。盛大に間違えることもあれば、本人であれば失敗するしかないことを成功させうることもある。
 そしてこれは逆のことも言える。本人が知らず、しかし千雨が知っていることは、無論なりきっていても知っているままである。なりきっているからといって、千雨であることを忘れたりはしない。千雨自身が普段から出来ることが、突然出来なくなったりもしない。
 但し、深くなりきれば余計な技術や知識であるとして、自分の能力に無意識的に制限を掛けることもある。だが、それでも千雨という人格の上で行われるエミュレートであることには違いない。
 本人を深く知悉すればするだけ千雨自身と対象との齟齬は解消されていくが、それでもやはり、完全ではあり得ないのだ。
 ちなみに、深く考えると非常に恐ろしいことなのだが、師匠のゴゴならば、ものまねした瞬間に、相手しか知らないことを当たり前に語り出しかねない。
 おそらく対象のものまねを止めた瞬間にその内容はさっぱり忘れるのだろうが。
 ものまね師というのが単なる職業ではないことは知っていたが、あれはもうそういう存在だと割り切るしかない。
 それとして振る舞うだけの自分と、それそのものになる師匠。
 まだまだだな、と千雨は軽く笑った。
 全員一瞬呆けていたが、真っ先に我を取り戻したのはハルナだった。
「堪能させてもらったよ。マジでラフィールだったわ。なんか青い髪に見えたし、千雨ちゃんが宇宙レベルの超美人に見えたし、ついでに声が川澄っぽかったし。いやー、ちうちゃんすごいわ。こりゃ話題になるだけあるね!」
「そりゃありがとよ」
 明日菜と夕映、のどかも口々に感嘆の声をあげたのだが、ただひとり刹那の表情は硬かった。
 これはマズッたかな、と千雨は肩をすくめる。
 余計な疑念を呼び起こしたかもしれない。千雨としてはコスプレ抜きで小説上の人物になりきっただけである。気であるとか、魔力であるとかは一切関係のないレベルでの話だ。
 しかし刹那からすれば、千雨は、わずかな集中で自らのまとう雰囲気を変えられる人物として受け取りかねない。こんなことのできる女子中学生が一般人のわけがないと言われてしまえば、千雨には強く否定する術がないのだった。
 詰め寄られたら、せいぜい雰囲気に当てられただとか、見間違い、感じ方の違いという言葉で誤魔化すしかない。
「ちうちゃんちうちゃん、もうちょっと長くやってくれてもいいんだよ?」
「遠慮しとく」
「それは残念」
「ほら、満足したならもう帰れ。良い子は寝る時間だ」
「ああ。もうこんな時間ですか。のどか、帰るですよ」
「う、うん。ハルナもそろそろー……ね、千雨さんに迷惑かけてるから……帰ろう?」
「こんな時間まで。本当にすみません。お邪魔しました」
「ああ。早乙女以外は気にすんな」
「千雨ちゃんが私にだけ厳しいんだけど」
「自業自得です。だから地下探索もハルナと噛み合わないようにしてたんですが……」
「え、あれ? 協力してくれてたクラスメイトって千雨ちゃんだったんだ。このパル様としたことが気づかなかったわ!」
「ハルナには気づかれないように気を遣ってましたし」
「えー。知ってたら、お礼にちうちゃんをモデルに長編漫画一本描いたのに」
「そういうことをするから教えられなかったんです! ハルナはもう少し行動にブレーキをつけるべきです」
「……のどかー。ゆえが私のことをいぢめるよー」
「あははー……」
 笑って受け流した。ひどい。
「え、のどかがスルーした? あれ? もしかして私、味方がいない?」
「おやすみなさいー」
 のどかの声に、あとの二人が続いた。千雨も同じように返した。
「……じゃあ、刹那さん。私たちも部屋に帰ろっか」
「いえ、アスナさんは先にどうぞ。私には少々用事が出来てしまいましたので」
「そう? じゃ、おやすみ千雨ちゃん!」
「おう。おやすみ」
 刹那が最後まで部屋に残った。用件は、聞かずとも分かっていた。


「……聞くべきかどうか迷っていたのですが、どうしても聞かせていただきたいのです」
「何をだ」
「あなたは、何を考えているんです?」
 千雨が答える前に、刹那は唇をかみしめるような素振りを見せた。手がかすかに宙をさまよった。寮のなかを動くのに真剣入りの竹刀袋を持ち歩くほど非常識ではなかったようだが、刀があれば握りしめていたであろう仕草だった。
「このかお嬢様とあの頃のように会話出来るようになったのは……多少の偶然もあったにせよ、間違いなくあなたのおかげです。それには感謝しています。遅くなりましたが、いま言わせてもらいます。長谷川さん、先日はありがとうございました」
「で?」
 刹那は申し訳なさと困惑との綯い交ぜになった微妙な顔を見せた。
「あなたの立場が、分かりません」
「……怪しいってことか?」
「ええ。あのエヴァンジェリンさんと親しげに会話し、先日の図書館島地下での一件……そして先ほどの長谷川さんの様子。日頃の様子からお嬢様に害があるようには見えませんが、だからといって捨て置くわけにもいきません。ただ」
 言い訳のように付け加えられた。
「しばらく観察させていただきましたが、どうしても悪いひとには見えないので、どうしたものかと。ひとつお教えいただきたいのですが」
 意を決した様子で刹那は言った。
「私は……どうすればいいんでしょうか。あなたを信用すべきなのか、それとも……」
「いや、それを本人に尋ねるなよ」
「で、ですよねっ。でも私、頭を使うことは苦手でして……どうしても分からないんです」
 あんまり頭が良くないことは自覚していたらしかった。発言の内容がかなり切ない。
「だいぶ前にエヴァにも言ったんだけどな。平穏無事が今の私のスローガンなんだよ。厄介ごとにはあんまり関わりたくないし、危険なことに巻き込まれたくもない。私も、お前も、近衛のやつも、ふつーの中学生でいいじゃねぇか。何事も平和が一番だ」
「その割には……」
 語尾を濁したが、地下での一件に言及したかったのだろう。あれは事故のようなものなのだが、それを言っても始まらない。誘われたからほいほいついていった結果がクウネルとの邂逅なのだ。麻帆良においては日常の延長線上にある地下の冒険も、他から見れば得難い非日常の入り口ではある。千雨にしてみれば、なりゆきでそうなったに過ぎないとはいえ、客観的な視点からだと、確かに平穏無事を目指しているという言動からはほど遠い行動に見えるのは事実だった。
「そこは……まあ。なんていうか、あいつらはクラスメイトっていうか、……友達だし。な」
 たったこれだけの言葉を吐き出すのに千雨は照れていた。
 恥ずかしい台詞だと、少し耳が赤くなっているのを自覚した。
「放っておけなかったから、そうなったと」
「そういうことに、なるな」
「……分かりました。ひとつ、聞いてもよろしいですか」
「なんだ?」
「長谷川さんは、エヴァンジェリンさんと、……その……友達……なんですか」
 非常に聞きづらそうにされて、千雨は訝しんだ。難しい問いというわけでもないだろうに。
「たぶんな。あっちがどう思ってるかは知らねぇけど、こっちはそのつもり」
「そう、ですか」
 不安か、あるいは羨望か。刹那の表情に出ている感情の正体がいささか不鮮明だった。
 少し考えて、刹那が何を気にしているかに思い当たった。
「そういうことか。あいつが吸血鬼だってことなら結構前から知ってる」
「……っ!?」
 それを聞いた瞬間、刹那から発せられたのは驚愕の気配と、それに勝る強烈な眼差しだった。
「本人から聞かされたんだよ。ま、色々あってな」
「平気、なんですか」
「流石に襲ってくるなら困るけどな。そうじゃないから、別に気にしてない」
 息を呑んで、今度こそ刹那は凍り付いた。
 そろそろと息を吐き出して、何かをかみしめるように、まぶたを閉じ、静かに考えを巡らせている。
「お節介だとは思うんだが、ひとつ言わせろ」
「は、はい」
「近衛のこと、信じられないのか?」
 千雨が何のことを言っているのか。ほとんど予想が付いているのだろう。
 表情を無くした刹那が、固い口調で言い返してくる。
「そのことをどういう形で知ったか分かりませんが……長谷川さん。こちらからも言わせてください」
「なんだ」
 刹那の声には棘はなかった。ただ当然の事実を語るように、淡々とこう告げられた。
「あなたには、平穏無事なんて、今までも、今後も、おそらく無理な話です」
「……かもな」


 平穏無事な生活なんて、できっこない。
 口だけのつもりはなかったのだが、そうかもしれないと千雨は肩をすくめる。
 何もかも切り捨ててそれを求めていれば、今こうして刹那と対峙することもなかっただろう。夕映の誘いに応じなければ。クウネルが現れたときに一人でさっさと逃げていれば。
 この何ヶ月のあいだ。
 あるいはこの世界に帰ることが出来てから。
 いくつもの場面で、何度となく平穏無事なんて言葉とは裏腹の行動を取ってきた。
 確かに、何もしなければきっと何事もなく、いつまでも、これからも平和な日々を過ごせただろう。
 けれど、千雨はひとと関わるということを知ってしまった。
 自分だけの平穏に何の意味があるのか。
 周りが不幸そうに俯いているなかで、自分だけ笑顔でいられるほど千雨は図太くない。
 ただそれだけのことなのだ。
 以前の自分に比べて随分とワガママになったものだと、千雨は心境の変化を素直に受け入れている。
 それが出来るかどうかではなく、それがしたいかどうかでものを考えるようになった。それをするにあたって、どうすれば出来るようになるのかを考えるようになった。
 自分に出来ることがあるのなら、最後まで諦めないのなら、きっと上手く行くと、そう信じられるようになった。
 自分を信じること。そして、ひとを信じること。
 それは、あの世界で得たもののなかで、きっと何よりも大きなものだった。

「非常に不愉快です。色々なことを見抜かれることも、分かったように口を出されることも」
 刹那は厳しい口調で、吐き捨てるように声にする。
 何も言わない千雨をにらみつけるように、かすかに眼を細めて、語気を強くする。
「あなたに……あなたに、私の何が分かるんですかッ!」
 刹那が小さく叫んだ。
 俯いて、肩を震わせた。
 痛々しい沈黙が部屋を満たした。
「……そうだな。私は何も分かってないんだろう。さっき言ったことは忘れてくれ」
「いえ、そういうわけにはいきません」
 ため息混じりに返された。
「なんで……」
 千雨が刹那の顔を覗き込もうとすると、
「って、桜咲?」
 あっさりと面を上げた刹那は、軽く苦笑していた。激怒しているわけでも、泣いているわけでもなかった。
 先ほどまでの語調とはかけ離れて、さりげなく優しい声だった。
「お返しです。色々言ってくれましたからね。このくらいの反撃は許されるんじゃないかと思いまして。さすがについ先日似たようなやり取りをしたばかりですから。自分の気持ちを分かってほしかったら、ちゃんと言え。このあいだ、長谷川さんはそう言いましたね」
「……そうだな」
 やられた。
 目の前にいるのは、数週間前の、色々と切羽詰まっていた刹那ではない。
 木乃香と話して、平静の余裕を取り戻した刹那だった。
 これは手強い。そもそも何の用件なのかが不明瞭になってしまった。
 あの日に有耶無耶になった千雨の危険度を測りに来たのかとも考えたが、そういう素振りは見当たらない。
「それと、ご心配には及びません。私の身体のことについては……あの日より散々悩みましたが……すでにこのかお嬢様に伝える覚悟はできています。ただ、長――お嬢様の父君の方針や、麻帆良の事情その他との兼ね合いがありますので、私の一存でお教えするわけにはいかない内容なのです。なので、今は語れないというだけです」
 夏休み前とはまるで違う、穏やかな微笑みを浮かべた。
「様々な隠し事について、お嬢様は言えないことなら言わなくても構わないと仰ってくれましたが……いつか、この身に秘めているものを告白したいと伝えてあります」
「……その表現はまずくないか」
「え?」
「いや、気づいてないならいいんだ」
 千雨は慌てて話を逸らした。
 きっとおそらくたぶん間違いなく健全な意味だろう。そう思っておく。その言葉を告げられた木乃香の様子というか、表情について尋ねたいような、怖いから聞きたくないような、そんな気分ではあったが。
「父親の方針で、そこらへんの事情と関わらせないってことか」
「ええ。ただ、近衛は旧摂家の流れを汲む名家ですから。表の事情だけでも護衛として私がお嬢様の側につく理由には事欠きません。麻帆良の外や図書館島の地下などに出向く場合は、必ず私が一緒に行動することをお嬢様本人から了解いただきました」
「良かったな。裏でコソコソする必要がなくなって」
「そう、ですね」
「ところで、やっぱり嫌なもんだよな。横から口を出されるのって」
「……先ほどの私の発言ですか」
「ああ」
「すみません。正確には……不愉快でした、と言い換えるべきでした」
 刹那は目を細めた。
「真意が分からなかったので、そうとしか受け取れなかったというのもあります。今なら少しは違う受け取り方もできますが。……お嬢様のことと、私のこと、両方とも心配してくれた。違いますか」
 千雨は黙っていた。
「お嬢様にも言われましたからね。身体だけじゃなく、心も守ってえな、と。傷つくことを怖がっていたから、私が……このちゃんのことを傷つけていた。それに気づかせていただいたのは、長谷川さんのおかげです」
 ですが、と刹那は続けた。寂しげに、目を伏せて。
「長谷川さん。ひとは、そんなに強くはいられないんです。必死に隠していることを見抜かれることは、いくら事実であっても……言葉にして突きつけられることは、とても苦しいことなんです。誰だって、苦しいことは、嫌なんです。たとえ、そのひとのためであっても、それを笑顔のままで受けいれるなんて、そんなことが出来るひとは一握りです」
「……だろうな」
「恨まれるかもしれない。憎まれるかもしれない。……私だって、このちゃんとの関係が昔みたいに戻らなかったら、そういう風に思っていたかもしれない。いいえ、思っていたはずです。あなたのせいだ。そう思ったほうが楽ですから」
 刹那の言いたいことは分かった。
「勝算はあったでしょう。しかし失敗する危険性だって少なくなかった。私とこのちゃんは仲直りなんて出来ず、より疎遠になったかもしれなかった。私だけじゃなく、お嬢様から嫌われることだってあり得た。あるいは、そうなった場合ですら『長谷川さんのせい』って言葉で私とお嬢様に逃げ道を作ってくれた。……長谷川さん。あなたはそこまできちんと認識していたはずです」
 無言で、次の言葉を待った。
「どうして、あんなことを?」
 刹那もまた、千雨の言葉を待った。
「自分に出来ることだったから、だな」
「ですが、あれは私たちの問題であって、長谷川さんには何も――」
「関係ない、とか言うなよ。こうして今、こんだけ長々と二人きりで喋ってる相手が無関係のわけないだろ」
「それは地下での出来事があったからじゃないですか!」
「そもそも、私は自分のために口を出したんだ。他人のためだけに動けるほどお人好しじゃないんでな。仲良く出来るはずの二人が、目の前ですれ違ったままなのが嫌だった。私が嫌だったんだ。だから頼まれてもいないのに横からしゃしゃり出た。それだけだ」
「……長谷川さん」
「なんだよ」
 刹那の目が笑っていた。
「耳、赤くなってますよ」
「……っ!」
 顔には出していないつもりだった。咄嗟に何か言おうとして、図られたことに気がついた。
 微笑ましいものを見たと言いたげだった。
「ずいぶんと長居をしました。もう皆寝静まっている頃合いですか。夜分遅くまでお邪魔しました」
「待て。その笑みはなんだ。おい」
「長谷川さん。他人のために自分の出来ることをする。他人のために自分がリスクを負う。これがお人好し以外の何だっていうんですか」
 反論の言葉を考える前に、
「ようやく長谷川さんのことが少し分かった気がします。では……おやすみなさい」
 と、ここまで言うだけ言って、刹那は軽く一礼し、鮮やかな動きで開け放ったドアから出て行ってしまった。
 千雨の腕も声も届かないうちに、ドアが静かに閉められた。
 刹那の見せた仕草に、木乃香たちに捕まっていた彼女を放置したことを思い出した。
「ったく……このあいだの意趣返しかよ」
 足音はすでに遠く、答える声はどこにも無かった。

 ようやく一人きりになって、窓の外を眺めた。すでにあたりは真っ暗で、動くものは何ひとつ見当たらない。鳥の声も消え失せて、かすかに虫がざわめくばかりだ。その合間、時折訪れる静寂のなかに、八月の夜に巡る風の音にそっと耳を澄ませた。
 部屋を見回す。騒がしい友人たちが去ったあとの部屋には、祭りのあとのような寂しさがそこかしこに残っている。
 だが、悪くない気分だった。
 千雨はわずかに口元をほころばせ、この長くて短い夏休みにあった様々な出来事を、ひとり静かに思い返していた。


 
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