九月の中頃、誰かが窓を開けた。教室にぬるい風が流れ込んできて、午後のけだるさをいや増してくれた。
 夏から秋へと切り替わってゆく季候の中途といった感触だが、微妙な暑さが残っている。
 授業開始を知らせるチャイムの音を背に、軽く手を叩きながら、委員長が教壇に立ってクラス内を見回した。
「はい皆さん、注目っ! 本日は高畑先生が出張のため自習です。先ほど配ったプリントをやっておいてもらいたいとのことです。ほらそこっ、風香さんとまき絵さんいきなり騒がないでください! 終わったプリントはあとで私が高畑先生の机に届けておきますので、教卓の上に重ねておいてくださいませ。よろしいですわね?」
 はーいっ! と返事だけは威勢が良かった。
「プリント埋め終わったら自由にして良いそうですが、他のクラスは普通に授業中ですので……何をするにしてもお静かに」

 いつも通りというか、高畑教諭の出す課題には極端に難しい問題は含まれていない。千雨の英語力でも、辞書を見ずにほとんど苦もなく訳せるものだった。
 最後の長文の和訳まで終わったので時計を見ると、まだ二十分も経っていない。随分と時間が余ってしまった。ぼんやりと周囲を見回してみれば、英語が特に苦手な数名を除いて、ほとんど終わっているらしかった。テストというわけでもないので、早々に超を頼っているクラスメイトの姿も見受けられる。
 さっさと課題を終わらせた同級生たちの姿は様々である。声を潜めておしゃべりに興ずる釘宮たち。教室内を歩き回って皆が真面目にやっているかを確認する委員長。何を思ったのか古相手に指相撲で挑戦する鳴滝姉妹。静かに騒がしい教室のなかで、ひとり黙々と文庫本を読み耽るのどか……などなど。
 右斜め後方では、エヴァンジェリンが片肘を突いて、つまらなそうに窓の外を見つめていた。


 微妙に時間が余ると、ろくなことを考えないのが人間というものである。
 言い出したのは柿崎美砂だった。
「朝倉、なんか暇ねー。ネタ寄越せって? ……じゃあ、暑気払いに怪談話でもやろっか!」
「いいけどさぁ。ねえ、柿崎、どーしてそんな満面の笑みでにじり寄ってくるの?」
「最近、風香も史伽も怖い話しようとするとすぐ逃げちゃうんだもん。くぎみーには話してもスルーされるし、桜子にいたってはそれ系のを話そうと思ったタイミングでいつもいないし。私だってたまには存分に語りたいわけよ」
「……で、私を選んだ理由は」
「だって朝倉の隣の席が」
「え?」
「……あ、ヤベっ」
「ちょっと、柿崎?」
「なんでもないよー。大丈夫だよー。だけど今からする話、朝倉は聞かないほうが良いと思うなぁ」
「聞かせる気満々の顔して何言ってんのよ。もしかして座らずの席のこと?」
「なんだ、知ってたんだ」
「そりゃ曰くありげだしねぇ。こちとら真実を追い求めるジャーナリスト希望よ。気になったら即調べるに決まってるじゃない」
「へぇ。それで何か分かったの」
「ま、本腰入れて調べたわけじゃないけどね。座らずの席。クラス名簿に名前だけ載ってる、相坂さよって子のための席でしょ? 出席番号一番だけど、欠番扱いになってるのは……まあ中一の最初から停学ってのも変な話だし、おそらくは学校に籍は置いてるけど来られない。病気か怪我か、その辺のやむにやまれぬ事情ってヤツで休学してんだろーね」
「……へえ?」
 にやにやと笑っている美砂であった。
「なに?」
「いや、朝倉でも、その子自身の情報は集められなかったんだ、って思ってさ」
「いくら私でも一度も登校してない子……いや、噂自体は前からあるんだし、複数年の留年かな。ってことは年上のお姉様? まあいいや。そのさよって子のプロフィールまでは聞き出せなかったわよ。高畑先生に聞いても、『うーん。僕も話に聞いただけだからね。たぶん、姿を見せない事情があるんじゃないかな……?』なんて曖昧な話しか聞けなかったし」
「あれ? 朝倉、学園長には突撃しなかったの?」
「したに決まってるじゃない! 生徒の事情は把握してるだろうって思って、わざわざアポとって学園長室で聞き込んできたわよ。だけどさ。学園長から、話を聞けなかった……んだよね」
「そりゃまたどうして」
 美砂の顔から笑顔が少しずつ消える。話の流れがどっちに向かっているのかが分かって、困っているようでもあった。
「だって、学園長、すげー哀愁ある目で『さよくんのことか……』なんて呟いて、しばらく黙っちゃったんだもん。あの学園長が! あの学園長が、だよ! 学園長の態度からして、相坂さよって子には、よっぽどの事情があるんだろうなーって分かっちゃうし、もう気軽に聞き出せる雰囲気じゃないって。こっちは興味本位で調べに行ってただけだからさ、その程度の理由で無理に吐かせようって気分には、ねぇ」
「……あー」
「ってわけだからさ、あの席については、あんまり触れないようにしてんの。調べたの入学直後だしね。他何人かに聞き込みもしたけど……彼女のことを知ってそうな反応のひとは『はにかんだ笑顔の可愛らしい、物静かで、清楚な娘さんじゃったよ……』とか『少しドジな子だったのう。よく何もないところで転んで、起き上がって、ひとり照れ笑いしとった……』みたいに、容姿とか性格とか色々話してくれたんだけど……その子が今どうなってるのかとか、なんで学校に来てないのかとか、その辺の事情を尋ねると、み〜んな黙り込んじゃうんだよね」
「んー、困った」
「何が」
「朝倉も、七不思議にはアンテナ張ってなかったんだって気づいちゃってさ」
「へ?」
「私、相坂さよって子の話は知らなかったんだけど……座らずの席の話は超有名なのよ」
「どういう意味で」
「A組教室、最前列の窓際にある席には座ってはならない。座ると寒気がして、取り憑かれる、ってね」
「ああ。だから座らずの席ね」
「でね、その席にはずっと幽霊が座ってるんだ、って話なんだけど。……これ、もう何十年も前から伝わってる怪談なんだよね。麻帆良の七不思議のなかでも、麻帆良祭の告白ネタと同じくらい鉄板だったりするんだ。一年二年なら留年とか休学だとか、ありえなくもないけど、十年以上そのまんまだとしたら……」
 日頃から察しの良い和美である。すでに何が言いたいのかは理解していたようだが、美砂の言葉の続きを待った。
「あんまり考えたくないけど……その相坂って子、もう……」
 美砂は、思い浮かんだ言葉の後半を口にしなかった。彼女は怖い話や噂話が好きなのであって、悲劇が好みなわけではないのだ。和美の方も学園長の態度やら何やらを考慮に入れると、どうしても否定しきれる根拠が思いつかない。
 近くで意図せず話に聞き耳を立てていた数名も、同じことを考えていたようだ。
 相坂さよは亡くなっている。そして、彼女の境遇に同情したか、死を悼んで彼女の席をそのままにしている。
 話の趨勢からすると、その結論がもっともらしいのは事実だった。
「……やっぱり、そうかな」
「もちろん、単なる偶然って線もあるけどね」
「ん。その方がいいね」
 どこか寂しげな口調で、和美が微笑んだ。
 おどろおどろしい怪談話をやる空気ではなくなってしまった。美砂がため息混じりに暇つぶしどーしよ、と呟く。
 和美がもう少し深い事情まで調査すべきか、それとも今の話を忘れて気にしないことにするかを迷っている。
「朝倉和美。……今の話、詳しく聞かせてもらおうか」
 そこに、エヴァンジェリンが、難しい顔をして近づいて来た。
 このクラスになってから、過去一度としてこの手の話に食いついたことがなかったエヴァである。というか特定の数名を除いて、自分から誰かに話しかけるという姿さえ見られることのなかった彼女である。
 妙に重苦しい雰囲気をまとっているエヴァの視線を受けて、美砂は咄嗟に反応できなかった。
 一方、和美は何度か目を瞬かせて、それから口元を緩めた。
「お、珍しー。エヴァちゃん、怪談話に興味があんの?」
「そっちではない。相坂さよについてだ」
「え、なんで?」
 心底不思議そうに和美が首をかしげた。傍目には、全く接点が無いであろうエヴァとさよである。
 ついでに周囲で様子を窺っていた数名が目を丸くしていたし、エヴァも和美もそのことには気づいていたと思われたが、他のクラスメイトの動向は捨て置くことにしたらしい。
「……理由などどうでもいいだろう。それより喋る気はあるのか、ないのか。どっちなんだ」
「おーおー、珍しく話しかけてきたと思ったら、エヴァちゃん、な〜んかけんか腰だね」
 和美が目を細めた。
 教室にいるときのエヴァは、常に内包する存在感であるとか威圧感であるとかを意図的に抑えている。
 見る者が見れば分かるかもしれないが、一応、あたかも普通の少女であるかのように振る舞っているのだ。多少の危険に首を突っ込む無謀さは持っているにせよ、本物の殺気を向けられたこともない和美では、エヴァが少し威圧する気になれば声も出せまい。
 とはいえ、ここは教室内であり、相手は一応まっとうな生き方をしているクラスメイトである。
 少し粋がっているだけの小娘に対して、わざわざ本気で害意を向けるほどエヴァは幼くない。
 しかし、荒事に慣れたクラスメイトたちはそうは思わなかったらしい。刹那はわずかに腰を浮かせてこのやり取りを見守っていた。真名は動かなかったが、かといって気にしていないわけではなかった。楓はすでに二人に近寄っていて、何かあれば割り込もうと身構えていた。
 古がおや、という顔をしている。エヴァの強さをかぎつけたというよりは、武闘系の同級生三名の動きに反応したようだった。これから何か起こるのかと期待するような目で教室中を見回している。
「朝倉和美。私は話を聞かせろと言ったんだ」
「お願いじゃなくて命令口調なんだねぇ。そんな不躾なハナシ、はいと素直に頷くいわれはないよ」
「なんだと?」
 困ったものである。
 二人のあいだに流れる一触即発の空気が、今にも爆発しそうな気配をかもし出していた。
 頬杖をつきつつ、別の方向を向いていた千雨は小さく嘆息した。
 この場合、どちらかというと、エヴァの方が問題である。和美については、真摯に頭を下げて頼めば、たぶんかなり深い部分まで教えてくれたであろうことが容易に推測できたからだ。
 相坂さよ。
 以前聞いたエヴァの現状からすれば、その名前の持つ意味の重さは余人が思うよりずっと重いはずである。夏休み中にもこの教室を訪れて何かしていたみたいだが、結果は芳しくなかったと茶々丸経由で聞いている。
 だから先ほどの会話を耳にして、つい逸って声をかけてしまったのだろう。
 が、相手は自称麻帆良のパパラッチである。和美にも面子があるのだ。曲がりなりにも自分で集めてきた情報である。
 加えて、和美の想定していなかった相坂さよ死亡説により、無自覚かもしれないが、若干動揺しているきらいがある。
 そんな折に、話を切り上げたところに割り込んできて、しかも頭を下げて教えてくれと頼まれるならともかく、教えろと高圧的に出られたら和美の性格上、まずは拒否せざるを得ない。
 これが親しい相手なら別だっただろうが、和美のみならず、クラスの誰とも疎遠であるエヴァンジェリンなのだ。
 下手に出ずとも、せめて普通に頼めば快く語ってくれたものを、わざわざ頑なにさせてどうする。
 和美の目に、今がエヴァがどう映っているか。
 困ったことに千雨には理解できた。出来てしまった。和美はパパラッチを自称しているくせに人情話に弱いことは周知である。さっきまでは情報上の存在でしかなかった『相坂さよ』という人物を、すでに守るべきクラスメイトの一人として認識してしまっていることだろう。
 和美の根底にあるのは善意であり、また、ある種の理不尽に抗するべきという正義感を持ち合わせてもいる。
 そして相坂さよは、出席番号的には欠番扱いながら、クラスメイトとして籍が残してあるのだ。
 学園長の粋な計らいで。
 だとすれば、たとえ本人が逝去しているとしても、無思慮な(と和美が思っている)エヴァの問いかけにより、詳細な事情などを見世物のごとく晒すわけにはいかないと考えるのは、情報を集めた和美当人にとってはもはや当然のことであろう。
 エヴァが不機嫌そうに眉をひそめていると、特に敵意であるとか殺気であるとかを発していなくとも、それなりにプレッシャーがある。見た目だけでも超のつく美少女なのだ。整った顔立ちであるからこそ、笑顔はより可憐に、怒り顔はより恐ろしく見えるものである。
 ともあれ、エヴァは和美が素直に言わなかったことに不機嫌なだけで、決して怒っているわけではないのだ。
 が、妙な雰囲気に釣られて二人のやり取りに目を向けてしまったまき絵が、丁々発止の空気に飲まれて、すでに泣きそうになっている。
 いや、そこまで大ごとじゃないだろ、と千雨などは思うのだが、異様な緊迫感が教室内に充満しているのだ。
 先ほどからエヴァと和美が二人とも無言なのも拍車を掛ける原因であろう。美砂が凄まじく困り果てた顔で口をぱくぱくさせている。助けを求めているらしい。二人に挟まれているのだから、当然この緊張感が針のむしろのごとく感じられていることだろう。
 ご愁傷様である。
 手を出すか、口喧嘩のひとつも始まっていれば、釘宮円が美砂救出のために飛び込むこともあるかもしれない。
 しかし、現状では二人のあいだに険悪な空気が漂っているだけである。無言でにらみ合っているために、みんな制止するタイミングをはかりかねている。
 まだ何も起きてなどいないのだ。
 せめて茶々丸を介していれば話は早かったのだが、もはや今更である。
 動きあぐねているのは千雨も同じだった。茶々丸もエヴァの背後に控えているだけで、動かない。
 どうしたものか。千雨は二度目の嘆息をする代わりに、小さく肩をすくめた。


 不意に、エヴァが眉をひそめた。
 雰囲気に呑まれていて、誰も声など発していないはずだった。一部雰囲気に影響されていない者もいたが、彼女たちは様子見に徹しているため、何か喋ったということもない。だが、エヴァは表情を動かした。わずかに千雨には見覚えのある表情だった。
 誰かに何かを言われて、どうするかを思慮するような感触、と表現するのが近いだろうか。
 千雨には聞こえなかった。しかしエヴァには何かが聞こえたのだろう。
 表情こそ和らいでいなかったが、わずかに険の取れた口調で和美にこう告げた。
「ふん。気が抜けた。ここは私が退いてやろう」
「はっ? 上から目線で何言ってんの?」
「あまり粋がるなよ、朝倉和美」
 一瞬だけ、エヴァは目に力を込めた。何か特殊なことをしたわけではない。ただ視線の温度を下げて、見方を切り替えただけである。
 聞き分けの悪いクラスメイトを見る目から、命知らずな間抜けを射貫く眼差しに。
 ぞわり、と背筋を走り抜けるものがあったのだろう。和美は小さく息を呑んで、しかし即座ににらみ返そうとした。
「な、なによ」
 気丈な反応だったが、それには答えず、エヴァはさっさと自分の席に戻った。
 そこかしこから安堵の吐息が聞こえてくる。一番ほっとしたのは美砂だったようで、よろめきながら釘宮円の胸に飛び込んでいった。
 堰を切って溢れかけていた緊張感は、少しずつ元の水量に戻りつつあったが、今だ平時のそれにはほど遠かった。
「ぷ、プリントを回収いたしますわ! 皆さん、ご協力お願いしますね!」
「あ……そうだね。手伝うよいいんちょ!」
「なら私が回収するアルよ! 名前を書き忘れてはいけないアル!」
 あやかが声を張り上げて、それに追従する声があった。
 教卓に置いてもらう予定だったはずだが、率先して動いた数人が手早く各自の机を回り、教室の雰囲気を戻そうと頑張っていた。
 和美はと言えば、気の抜けた表情でちらちらとエヴァに視線を投げかけている。
 他にも数名、色々な意味合いの視線がエヴァに降り注いでいる。
 エヴァは向けられたいくつかの視線をまったく意に介していないようで、なんでもなさそうに窓の外を眺めている。
 結局、授業の終わりを知らせるチャイムが鳴るまで、二人に声をかけられる者はいなかった。


 放課後になる頃には、教室の空気はすっかり普段通りの騒がしいものになっていた。
 クラスメイトからエヴァに対する扱いにも、さほど変化は見受けられない。
 少々シリアスなにらみ合いではあったが、より遠慮のない、あやか対明日菜の乱闘がけっこうな頻度で起きているのだ。それとはいささか毛色の違う諍いではあったが、手も出していない、口論と呼ぶほどの会話にすらなっていないのでは、そこまで深刻になる必要もあるまい。
 あの程度で腫れ物扱いになるほど1−Aの級友の神経は細くないようだった。
 むしろ心配なのは、女子中学生にあるまじき視線を受けた和美の様子である。害意も殺意も無かったが、エヴァの視線の中には、わずかな敵意が含まれていた。エヴァにとってみれば、ほんの軽い脅し程度のそれは、しかし何の力も持たない少女に恐怖を植え付けるには充分な意味があったように思われた。
 たとえは悪いが、いたいけな少女がヤクザの組長にじっと見つめられたらどんな気分がするか、それを想像するのが分かりやすい。
 あの瞬間、和美はそういう種類の恐ろしさを感じたはずである。千雨が帰り支度をしつつ和美の様子を横目で覗き見るが、とりあえずは大丈夫そうだった。
 ジャーナリスト志望らしく、多少の覚悟は持っていたらしい。根性あるなあ、と千雨は内心で賞賛していた。
 それでも和美は複雑そうな表情で、ちらちらエヴァを盗み見ているが、今話しかけるまでは、さすがに出来ないようだった。
「千雨さん」
「……絡繰か。どうした?」
「マスターがお話したいとのことでして。これから何かご予定は」
「一応無いな。また家まで来いってか?」
 なんとなく要件に見当が付いてしまって、渋い顔で聞き返した。
「いえ。お時間があるようでしたら、茶道部の部室に来ていただけないでしょうか」
「……作法は知らないぜ」
「問題ありません」
「じゃあ、邪魔させてもらおうか。いつ頃行けばいい?」
「今日は部の活動自体はお休みですので、いつでもかまいません」
「……いいのか?」
「部室の予備の鍵はマスターが持っておりますし、他の部員がいないときには好きに使って良いとの許可もいただいてあります」
「へえ」
「では、マスターのこと、よろしくお願いします」
「ん? 絡繰は?」
「これから工学部でメンテナンスがありますので、ハカセと一緒に研究室に行く予定となっております」
 挨拶を交わして、茶々丸は一礼して去っていった。
 いつの間に教室から出て行ったのか、すでにエヴァの姿はどこにも見当たらなかった。


 茶道部の部室に向かうと、茶室があり、中を覗くとエヴァは制服姿であった。
 性格はさておき、金髪の外国人美少女という容姿だというのに、茶室の雰囲気からまったく浮いていない。
 さすがに着物に着替えているわけではなかったが、きちんと居住まいを正しており、背筋もピンと張っていて、見た者にどこか清冽な印象を与える。客は千雨一人だった。エヴァの所作は日頃の怠惰な様子から想像が付かないほど綺麗な動きである。
 千雨のことを招き入れた際も、客をもてなす主人としての態度で迎え入れた。
 エヴァが襖の前に座り、まず少し開けて、もう片方の手で開ききる。その間、身体がまったくぶれなかった。
 困った。どうすればいいのか分からない。
 まず戸の開け方、次にどちらの足から入るだとか、何か話さないといけないのか、座り方はこれでいいのか、それと道具やら何やら必要なのではないか。
 色々と知識が足りない自覚はあったので、茶室に入る前に外から声を掛けて尋ねたところ、
「作法は気にするな。いや、ちゃんとやりたいというなら教えるに吝かではないが……」
 エヴァからは穏やかな声での返答があった。
「あ、ああ。とりあえずはいいや。じゃあ、入るが。……いいのか?」
「構わん」
「えっと、お邪魔します?」
 戸惑いながら足を踏み入れる。
 入ってくる千雨を見て、エヴァはかるく微笑んだ。


 窓の障子紙越しに夕陽が入り込み、エヴァの長い髪は砂金を散らしたかのように黄金色に煌めいている。
 二人きりの茶室に、穏やかな空気が流れている。
 会話は少ない。まずは茶を振る舞ってくれるつもりらしく、千雨が呼ばれた本題については後になりそうである。
 決められた手順通りなのだろうと、見ていて分かる。動きに迷いが一切無いのだ。
 エヴァの所作がいちいち様になっている。道具の清め方ひとつにも流派というものがあるのだろう。
 千雨はそれをぼけっと眺めつつ、差し出された菓子鉢を見遣った。エヴァは畳の上に置いてから、千雨の側に正面が来るように鉢を回した。
 饅頭である。どうしたらいいのか分からず、エヴァの顔を見ると、特にバカにしたような素振りもなく、口を開いた。
「菓子をどうぞ」
「いただきます」
 手で取るものらしい。いつの間にか用意されていた懐紙を広げて、その上に置く。
 以前こんな場面をドラマで見たような、とうろんな記憶を辿る。
 顔色を読むようにエヴァに目を向けるが、特に何も言われなかった。
 こういう場合、食べて良いのかを尋ねることが正しいのかどうかさえ、いまいち判然としない。饅頭もすぐ食べて良いのか不安になる。
「千雨。……あのな、正解かどうか、いちいちこっちの顔色を窺わなくて良い。いきなり呼んだのはこっちだし、お前が茶道の知識に疎いことも分かっている。自分でもマナーが悪いと思うような真似をしなければ、私はとやかく言わん。あんまり気を遣いながらだと、菓子も茶も味が分からんだろうが」
「ん。じゃ、お言葉に甘えて」
 饅頭を食べた。甘さが控えめで、非常に上品な味がした。
「美味いな」
「そこの饅頭は最近のお気に入りでな。時折取り寄せているんだ」
「こういうのって、道具とかも褒めるもんなのか」
「中等部の茶道部にしては割と良いものが揃ってるぞ。とはいえ、知ったかぶるなよ? 分かるからな」
「だよな」
 少しして、エヴァが茶を点てた。茶碗に入れた抹茶の量は茶杓で三杯分である。先ほど沸騰したお湯を少しずつ入れて、それから茶筅を回し始めた。
 これが濃茶というものだろう。名前の通りに濃いお茶のようで、エヴァが手ずから練っている。少しお湯が足りなかったのか、わずかに継ぎ足して、また茶筅を回す。
 そのうちに出来上がったらしく、エヴァが千雨の前に置きに来た。この時もエヴァの座り方、置いたあとの下がり方が綺麗だった。
 ちゃんとやらないといけない気になっているのは、エヴァが真剣にやっているからだ、と気がついた。
 何も分かっていない千雨相手に、あのエヴァが手抜きしていないのだ。これで気楽にやれと言われても非常に難しいのである。
 こうだったかな、とおそるおそる茶碗を回して、千雨が喫した。
 一口で飲むようなものではない。あまりお茶を楽しむ、という感じでもなかったが、香りは甘やかで良いものだった。
 味も苦くて、抹茶を飲んでいる、という気分に浸るには充分だった。飲み慣れていないので評価が難しいが、美味しいように思われた。
「服加減はどうだ?」
「ええっと、それはどういう意味で?」
「熱さとか、濃さだな。慣れてないのは分かっているし、あまり飲みにくいようなら調整するが」
「結構なお点前で……でいいのか?」
 エヴァは頷いた。
 何度かに分けて飲み干して、懐紙で口をつけた部分を拭ってから、斜め前あたりに茶碗を置いた。
「美味かったよ。その……招いてもらってよかった。ありがとう」
「そうか。なら、どういたしまして、だな」
 やはりエヴァでも褒められるのは嬉しいものなのか、表情はそのままだったが、雰囲気に喜色が混じっているように感じられた。
 純和風な空間で礼儀作法その他について、自分よりエヴァの方がよっぽど詳しいという現実に気づいてはいたが、千雨は気にしないことにした。
 道具の片付け方やらお辞儀やら、その後も非常に流麗な動きを見せつけられたが、まったく気にしないことにしたのである。
 エヴァの動きをずっと目で追って、お辞儀のときは両手が八の字になっているとか、立ち上がるときは両手を膝に乗せて腰を浮かせて身体を揺らさないようにするだとか、立つときも座るときも綺麗に両足が揃っているだとか、そういう細かい部分を目に焼き付けていたりはするが、全然これっぽっちも気にしてないのである。


「楽にしていいぞ」
 正座がさほど苦というわけでもないのだが、慣れていないことには変わりない。言葉に甘えて足を崩した。
 エヴァが珍しく言い淀んでおり、おおよその話の見当はつけてきたので、千雨から水を向けた。
「私を呼んだのは……朝倉のことだよな」
「その通りだ。話が早くて助かる」
「で、何をして欲しいんだ?」
「教室で聞こえていただろう。あの通りだよ。相坂さよの情報が欲しかった。それだけだ」
「そこが良く分かんねーんだけどさ、絡繰のヤツに聞き込みさせれば良かったんじゃないのか」
 朝倉和美が麻帆良のパパラッチを自称しているが、その名に恥じない情報収集能力を持っていることは事実である。
 とはいえ茶々丸も人当たりはそれなりだし、察しが悪いわけでもない。和美ほど迅速且つ上手に話を聞き出せるわけではないだろうが、単純に情報を集めるという行為が不得手とも思えなかった。裏の事情に関連することや、学内のデータベースに入り込む手段など、少なくとも公になっていない情報を調査するに当たっては、むしろ茶々丸の方が適任であろう。
 それを指摘すると、エヴァは苦い顔をした。
「そんなことは分かっている。夏休みのあいだにおおよそのところは調べたんだよ。相坂さよが死んだのは約六十年前だ。享年十五歳だな。茶々丸に調べさせて当時の新聞の訃報欄に顔写真付きで載っていたことまでは突き止めた。……だが、死因が一向に分からん。しかも戦争が始まった時期に被っている。麻帆良の内外でも、その頃の資料が散逸しているんだ」
 茶々丸が調べられるのは記録であって、ひとの記憶については専門外である。もう少し他者の感情であるとか心の機微であるとかを理解すれば任せられるのだろうが……。
 愚痴ではなく、子の成長を願う親のような口調で、エヴァは小さくそう続けた。
「……学園長に聞けばいいんじゃないか? 朝倉の話だと、まず知ってると見て間違いないと思うんだが」
「あのじじぃが素直に話すと思うか?」
「いや、知らねぇけど」
 どういう関係なのか知らないので、千雨としてはそう言うしかない。話を聞く限り、そこまで悪い関係とは思えないのだが、互いに色々と複雑な立場があるのだろう。
「あれは飄々としているが結構な狸でな。本国……魔法世界の政治家連中からの要求も、のらりくらりと躱すやり手爺だ。少々悪ふざけが過ぎて墓穴を掘る嫌いがあるが、決して無能ではないし、お人好し一辺倒な人格でもない。下手に借りを作ると後になって妙な頼み事をされかねん」
「相坂のことを聞くことが、借りになるのか?」
「正確に言えば……私が呪いを解こうとしていることを、じじぃは黙認しているといったところか。呪いをかけたバカが言った約束の期間はとうに過ぎているんだ。だが、じじぃは関東魔法協会の理事という立場上、私が登校地獄を解くことに協力しないし、できない。心情的には私よりの中立だろうがな。だから相坂さよを成仏させるなり、昇天させることが呪いを緩めることに繋がると知れば、じじぃは内心はどうあれ沈黙を守るだろうさ」
「そこをぼやかして聞けば済む話だろ」
「私が相坂さよについて調べる理由、他にあると思うのか?」
「幽霊になってて可哀想に思ったから、じゃダメなのか」
「前に説明しただろう。私がどう見られているか。闇の福音。不死の魔法使い。童姿の闇の魔王だぞ。じじぃ本人はともかく、回りがそれで納得するわけがない。千雨、飼育員がいくら安全だと訴えたところで、人をかみ殺したことのある猛獣を檻から解き放つ行為を容認できるか?」
 そう言われてしまうとお手上げである。
 だが、話していて違和感があった。何に起因するものかがいまいち分からず、首をかしげる。
「なんだ、千雨」
「エヴァは……その、相坂ってやつの姿、見えてるんだよな」
「ああ」
「……本人に聞けば良いんじゃないのか? 声も聞こえてるんだろ?」
 エヴァは驚きを隠さなかった。かすかに目を見開いて、即座に視線を鋭くした。
「どういうことだ、千雨。前に聞いたときは知らないと言っていたはずだが、あいつのことが見えていたのか?」
「いや。単なる推測だって」
「推測にしても、どこから……ん、まさか朝倉和美とのやり取りか」
 納得したようにエヴァはうなずいたが、そのまま動きを止め、不愉快そうに舌打ちをした。
「おい、千雨。それは観察力か? それとも考察か。どちらにせよ貴様は必要以上に見抜きすぎる。……ふん、平穏無事が聞いて笑わせるわ。本心から厄介ごとに巻き込まれたくないなら目を閉じて耳を塞いでおけ、それが出来ないならせめて気づいても口を閉じろ。馬鹿者が」
 辛辣な口調だった。エヴァの目は感心とも呆れともつかない色に揺れていた。
 口元は笑みの形に歪んでいる。千雨は少しため息混じりに肩を落とした。
「だよなぁ。気をつける。桜咲にも似たようなことを言われたしな」
「はっ。桜咲刹那ごときに心配されて忠告されるとは、この間抜けめ」
 嘲笑混じりにそう口にしたエヴァは、しかし言い終えてから怪訝そうに眉をひそめた。
「……待て。千雨、どうしてこの流れで刹那の名前が出て来る」
「夏休み中にちょっと色々あってな。近衛との仲直り? に巻き込まれたというか、見てらんなかったんでちょっと煽ったというか」
「ここのところ様子がおかしいと思ったら、そういう理由か。まあ、切れても鞘が無い刀よりは、なまくらの方がまだマシだが……」
 エヴァは苦笑している。
「納得が行った。さて、何の話だったか……ああ、相坂さよについてか。姿も見えるし、声も聞こえる。話も出来るだろうさ」
「出来るのに、しないってことか」
「そうなる」
「理由は?」
「……聞いてどうする」
「言いたくないのか」
 視線が合う。笑みが消えている。茶室の静けさが、どこか寒々としたものに感じられた。
 顔を背けたのはエヴァだった。千雨の視線に負けたわけではなく、感傷に浸っているような目の伏せ方だった。障子紙越しで薄められた赤光に視線を落とし、それから窓に目を向ける。窓の外には何も見えない。遠くからは運動部の叫声も、秋の入り口にありがちな虫の声も聞こえてない。
 ただ風ひとつ動かない部屋のなか、静かでやわらかな時間が流れてゆく。
「女子供は殺さない。これは私のルールだ」
 エヴァが涼やかな声で告げた。
「この身を真祖の吸血鬼と変えられてから、私を殺そうと狙ってくる者は大勢いた。いつの時代も化け物を殺したがる連中には事欠かなかったからな。だが、私は大人しく殺されてやるつもりはなかった。生き延びるためには他人を殺すことを辞さない。そう決めた私が、それでも自分であり続けるために、私自身で決めたルールだ」
「……それが?」
「相坂さよは当時の姿のままだ。幽霊といえど、あいつには意思がある」
 つまりエヴァの目には、相坂さよという少女がちゃんと女子中学生として見えているのだろう。
 言葉を発するだけの明晰な意識が残っている。
「悪いが、何を言いたいのかがいまいち分からん」
「相坂さよを、私は、私の都合で消そうとしている。少女の幽霊を消すことと、生きている少女を殺すこと。このふたつに、果たしてどれほどの違いがある?」
 千雨は何も言わなかった。
「人あらざる身であれば、殺しても消してもかまわない。そう言えれば楽だがな」
 エヴァの声は静かだった。穏やかだった。いっそ優しくすらあった。
「自ら望んだものではないにせよ、私には抗えるだけの力があった。誰かに殺されそうになったときには、そいつを殺すことで抗い続けることができた。だが、そいつには何もできない。誰にも知られず、誰にも見つからず、ただ一人教室で震えるだけの小娘に過ぎない。一度死んだだけの、どこにでもいるような……ただのドジな少女だ。自ら命を絶ったわけでも、自分から幽霊になりたがったわけでもないだろう」
 ようやく、千雨は先ほど得た違和感の正体に気がついた。
 相坂さよが、模範的な生徒であるという考え方。
 エヴァよりも長く学園に留まり続け、毎日のようにあの教室で授業を受けているはずの彼女。
 登校地獄の精霊がどのような判断をしているのか。千雨の思いつきが正しいかどうか、実際のところは分からない。
 だが、簡単に確かめることはできる。
 千雨にも容易に思いついたのだ。エヴァが気づかないはずがない。
 そこに存在しており、幽霊であっても麻帆良女子中等部の生徒として居続けるからこそ、精霊から模範的として捉えられている。
 ならば、存在そのものを消してしまえばいい。
 幽霊がどんな存在であるにせよ、エヴァであれば、おそらくは力尽くで消し飛ばすことが出来るのだ。封印されていても六百年の齢を重ねた吸血鬼である。以前、満月の夜には多少の魔力が戻るとも聞かされた。魔法薬という魔力の触媒を使っても構わない。手段など山ほどあるに違いないし、機会だっていくらでもあったはずなのだ。
 出来るけど、しない。
 理由は今聞いた通りだ。消すことと、殺すこと。言い方を変えたところで、意味するところは同じであろう。
 エヴァは悪を自認する。
 だが、性根の部分では案外優しいのだ。言葉とは裏腹に情け深くもある。口にする言葉ではなく、結果によって、エヴァの本心が垣間見えることがある。
 しばし考えて、千雨は眼を細めた。
 そろそろと息を吐き出したエヴァは、つまらなそうに話を続けた。
「あの教室に縛られているのは、相坂さよに何らかの未練が残っているからだ」
「死因を調べろってことか。朝倉は相坂が亡くなってることにも気づいてなかったみたいだが」
「それでも朝倉和美は、当時のことを知っている人間に辿り着いていた。そいつらの名前さえ聞き出せれば、そこから相坂さよの死因を調べることは難しくない。あの性格だ、もしかしたらすでに再調査を始めているかもしれんがな」
「つーか絶対してるだろ。……もしかして、あれ、煽ったのか?」
 美砂との会話を契機に、おそらく再調査自体はそのうちにしていただろうが、エヴァを意識して即座に動いている目算が高い。
 わずかに批難の意図を込めて尋ねると、エヴァは口の端を小さく上げた。
「いや、最初そのつもりはなかった。さすがに素人相手だからな……少々大人げなかったか」
「気が急いたのか?」
「ふん……あの二人の目の前で、相坂さよが話を聞いていただけだ」
 つまらなそうにエヴァは答えた。


「……エヴァ、ひとついいか」
「なんだ」
「その未練を解消できたとして、相坂ってヤツは成仏するのか?」
「普通の幽霊なら、するだろうが……」
 そこで言い淀んだ。
「正直なところ、分からん。あれほど明確に意識を保った幽霊は初めて見たからな。本来、幽霊というのは死者が肉体を失って、残った魂――いや、生前の意識が残存魔力に映り込んだものに過ぎんのだ。あくまで影のようなものだから、人工精霊のように自動的に動くとはいえ、指向性のあるエネルギー体以上のものではない……はずなんだが」
「違うのか」
「違う、と思う。……幽霊の仕組みなんぞ専門外だからな。説明が難しいんだが……」
「そういや言葉も話すって言ってたな。記憶もあるのか? 脳みそとかどうなってんだ?」
「ふむ……本来の幽霊は、そうだな。実体を持たない……過去の記憶が映写されているようなものだ。どんなに本人そのものに見えたとしても、所詮は影に過ぎない。生身の歌手とレコード盤のような関係だと考えてみろ。生前のこと……特に死んだ瞬間や、死ぬ直前に考えていたこと、感じたもの、そういったものが死の直後に残った魔力に刻み込まれて、かたちが凹凸として残る。それが特定の状況下という針によってなぞられて、音や映像、さらにはポルターガイストとして、余波やノイズ混じりに繰り返し繰り返し再生される。周囲を含めてその記録が存続するに足る魔力が尽きるか、すり減って凸凹が消滅するまでそれは続く」
 どれほど生きているように上手に振る舞っても、見せかけだけだとエヴァは言う。
 新しいことは記憶できない。返事や態度も、生前の行動に即して反応しているだけであると。
 千雨の理解が及ぶのを確認してから、エヴァは言葉に説明を付け加えてくれた。千雨は自分なりにエヴァの解説をかみ砕いて把握しようとした。
 生ある者には魂があり、肉体があり、その二つは重なり合っていると。魂に形はないが、年を経るごとに肉体のかたちに形成されてゆく。
 生き物が持ちうる抽象的な感覚、あるいは物理的でないもの。すなわち心であるとか、意識であるとか、感情であるとか、記憶であるとか。
 肉体や脳は、他者との交流、外界や環境の変化によって影響を受け、変化してゆく。
 何かを知る。何かを覚える。何かを好きになる。
 自分というハードウェアが得た、そういった形ないものすべてを、OSやソフトウェアとしての自分が理解するための機能。
 心と体とを繋ぐもの。自分の身体が発生させた何もかもが、間違いなく『自分』のものであると自覚するために必要な同一性。
 それが魂だと。


 エヴァの話は続く。
「魔力が脳……いや、口とか手とか、身体全体の代わりになってるってことか」
「レコード盤は自分の意思で語らないし、違う歌にも変わらない。だろう?」
 エヴァの皮肉そうな言い方に、千雨は頷く。
「そもそも死者が幽霊として残る事例は珍しくてな。会話出来るほど明瞭な意識を保った幽霊というのは滅多にお目にかかれない」
「相坂がそうだと?」
「それ以上だ。あそこまで死人らしくないのは聞いたことがない。麻帆良という土地に縛られていること、そして肉体を持っていないこと。これは幽霊だったら当然だな。だというのに……生前とほぼ同等の思考能力を保っている風だ。ついでにA組の同級生の名前も覚えていたから、死後に見聞きしたことまで新しく記憶しているのも確定だ」
「さっきの話と矛盾するじゃねーか」
「ああ。だから、分からんのだ。通常の幽霊であれば、未練の解消は成仏のトリガーだ。その名のごとくこの世に心残りがあるから、魔力をくびきとして意思だけを――心を残すことになる。達成できなかったこと。やり残したこと。生前の無念を晴らすことによって……つまり魂を光源と考え、その光を遮るものを無くすことで、そこに残った影もまた消えることになる。何も無い平坦な場所に影は出来ん。未練とは、魂と現世――此処とのあいだに置かれた遮蔽物のことを言う」
 だが、とエヴァは難しい顔をした。
「もし自分という存在が肉体を失っても、幽霊と形を変えて生前と何ら変質無く存続し続けるとしたら……それはもはや不死と変わらん」
 クラスにいるという相坂さよは、生前の相坂さよの影でしかないのだろうか。
 いや、もしエヴァがそう考えているとしたら、腕の一振りで消し飛ばしていることだろう。
 だとすれば、彼女は記憶の影ではなく、六十年前に死せる本人だとエヴァは認識しているのだ。
 生きている人間であれば、身体が主体であり、魂には補助的な役割しかない。完全な肉体の死とともに魂は消滅するものだ。
「もちろん幽体を構成する魔力が尽きるまでという制限はあるが、これを寿命と考えるなら……必要な魔力さえ補充できれば不老と等しい。やはり永遠に生き続けることになるだろう。いや、初めに死んでいるから、死にながら在り続けると言うべきか」
「誰かさんと同じってか?」
「かもしれん。全盛期の私とて、復活するための魔力が尽きれば滅びただろうさ。吸血鬼の真祖たる私は、ある種の不老不死だ。魂の形を弄られたせいだろうが……。身体が害されたとき、自動的に溜め込んだ魔力を消費して肉体のかたちを修復しようとする。魂が記憶しているかたちそのままにな。これは推測だが、私の脳はその当時から変わっていないはずだ。頭を潰されても魔力さえ残っていれば私は死なないし、脳に変化が無いにも関わらず私は当たり前に六百年間の出来事を覚えている。とすれば真祖になってからの記憶や経験は身体ではなく、すべて魂の方に蓄積されていると考えても良かろう。普通の人間と逆で、もはや私という存在は魂が主体であり、肉体は副次的なものになっている。このせいで十歳当時の身体から一切成長も出来ないわけだが」
 十歳? 納得すると同時に、千雨はやるせなさを感じた。同情されたくはないだろうから、顔には出さなかったが。
 気づいたのかどうか。肩をすくめて、エヴァは言う。
「話をまとめるぞ。……相坂さよは、おそらく魂だけで永らえている存在だ。分かりやすく幽霊と呼称してはいるがな」
「状況は分かったけどよ。それで、どうするんだ」
「その前に……千雨。今の話に、よくもまあ当たり前のように付いてこられるな。顔を見る限りは本当に理解しているようだが、その理解度は何に起因している?」
「漫画とか、ラノベとか、ゲームとか……フィクションでならそれっぽい話はいっぱいあるし。そこまで理解しがたい話でもないぜ」
 これは本心だった。日頃からその手の理屈に慣れ親しんでいる千雨にとっては、割合に受け入れやすい話である。千雨の感覚では、魔法はあくまでファンタジーであって、おどろおどろしいオカルトではないのだ。
 自分が使える魔法と、この世界の魔法は、少し、いやだいぶ毛色が違うからかもしれない。
 同じように魔力と呼ばれるものを用いながら、まったく別のプロセスを経て、望む結果を発生させている感覚がする。
「……ふむ」
「なんだよ」
「納得してしまった自分にちょっとな。昔は創作ですら秘されていた神秘も、確かに今ではありふれた知識でしかない。時代は変わったと言うべきなのだろうな。殺し殺されるしかなかった化け物も、今やか弱き女子中学生か……はっ、たしかにありがちな設定だな」
 呟く口調こそ面白がってはいたが、そこに自嘲の響きはなかった。
 エヴァはかすかに笑った。なんとも言えない寂しさと、切なさに満ちた表情だった。
 瞳に千雨の顔を映しこんで、エヴァは問う。
「千雨。貴様にとって吸血鬼とはなんだ?」
「一般的なイメージの話か? それともエヴァに対してどう思ってるかについて?」
「それは……ああ、後者だけでいい」
「じゃあ、『that which we call a rose by any other name would smell as sweet.』……だったか」
 ロミオとジュリエット。シェイクスピアの有名な作品から台詞を引用してみた。
 さすがに出典に気づかないわけもなく、意図を汲んだエヴァからはきつく睨まれた。
「おい。いくらなんでもキザすぎるだろう」
「あ、一応言っておくが……私に百合の気はないからな。あくまで台詞の意味だけだぜ」
「アホか貴様。そもそも誤解されたくないなら、いちいちそんな場面を引き合いに出すんじゃないッ!! まったく……このアホめ。格好つけてないで、せめて日本語で言え! 日本語で!」
「ヤなこった」
「想像は付くが、理由は?」
 エヴァは呆れたように千雨を見つめ、詰問するような厳しい口調を作った。
「正面からそれっぽい言葉を言うと恥ずかしいし」
「有名な台詞なら恥ずかしくないとでも? バカめ、そんな言い回しする方がよっぽど恥ずかしいわ!」
 一呼吸分の間が空いた。
 言われてみれば、その通りではあった。
 友人相手の会話に、まじめくさった顔でジュリエットの台詞を引用する。返す返すも赤面ものである。
 何かのキャラになりきったわけでもなく、単なる素でやらかしたのだ。
 千雨は小さく何事かうめいて頭を抱えたくなった。むしろその場でのたうち回りそうだった。いっそ、ごろごろと転がって部屋の隅でうつぶせのまま寝入りたかった。
 茶室だから諦めたが、これが自室やエヴァのログハウス内だったらそうしていたかもしれない。
 エヴァは苦笑した。静かな声で、このバカが……、と呪文のように唱えた。
「千雨、礼は言わんぞ。そんなことは……当たり前のことだからな」
 やがて、ようやく落ち着いた千雨は肩をすくめた。今更何をいわんや、そんな表情を付け加えて。
「はいはい」
「なんだその顔は」
「別にー」
 仏頂面のエヴァは、ひとつ大きくため息を吐いて、それから満足げに目を細めた。  


 
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