「さて、随分と話が逸れたが……本題に戻るぞ」
 エヴァが表情を切り替えて、真顔になった。
 静かな茶室の和やかな空気が一転し、張り詰めたものに引き締められる。
「相坂さよを成仏させる。このために、力を貸して欲しい」
 エヴァが深々と頭を下げた。
 千雨としては、内容は予想していた通りだった。
 しかし、ここまでしっかりと頭を下げて頼まれるとは思っていなかった。瞠目するも、続きを待った。
「さっきまでの話は相坂さよの前提だ。千雨、お前は相手が何なのかが分からずに動くのは嫌いだろう? ……とはいえ、状況や相手がよく分からんままでも、自分で必要だと思えば動くことを躊躇わないのは知っているしな」
 エヴァの口調は軽いものだったが、どうやら褒められているらしい。
「ま、幽霊だとか、魂だとか、そこの区別が千雨に付くとは思っていない。いや、もしかしたら見分けが付くのかもしれんが……相坂さよのことが見えていないのだろう? 声も聞こえていない。そうだな?」
「ああ」
 肯定する。視認性が皆無であっても、そこにいるかどうかは案外分かるつもりだった。透明な敵と戦ったこともある。しかし存在感そのものが希薄すぎて、以前エヴァに言われるまでさよの存在には気づかなかった。
 今であれば、エヴァの視線の動きを追うことで、あるいは時折見せる反応から、『いる』ことは分かる。いると知って注意深く教室を観察している現状ですら、千雨であってもほとんど認識できないのだから、これはもはや見える見えないといった問題ではない。
 そういう目を持っているか、何らかの特殊な条件を満たさない限り、知覚できないと考えるべきだ。
 意識誘導であるとか、認識阻害であるとかに対し、千雨は惑わされない。だが、それだけである。
 曖昧な誘導に誤魔化されないだけで、元より見えないはずのものが、鮮明に見えるわけではないのだ。
 話を聞く限り、魂とは本来目に見えないものである。
 透明なもの。形のないもの。
 教室のなかで相坂さよを見つけるのは、水の中で曇りひとつない硝子を見いだすように困難を極める。それ専用の目があれば、あるいは手探りで触れる手段があれば、なんとかなるのかもしれない。
 話を聞く限り、こちらの声は聞こえるし、姿も認識しているようなので、一方的に語りかけることはできるのだろう。
「なあエヴァ」
「なんだ」
「成仏させる相手だから、自分が消すことになるから、そいつに話しかけないのか?」
 エヴァがそれを言い訳にするとは思えなかったのだが、一応尋ねた。エヴァは表情を変えなかった。
「いや、少し違う」
「じゃあ」
「……だいたい五ヶ月だ」
「何が」
「教室であいつを見つけて、ひとりぼっちは寂しいなんて言葉を聞きながら、それでも私が相坂さよを放置した期間だよ。まあ、この界隈で見かけたことはもっと前からあったがな。そのときは自動的に往来しているだけの単なる幽霊に過ぎないと思っていた」
 エヴァは温度のない言葉を紡ぐ。
 つまらなそうに。
「今年の入学式のあと、この教室に入り間近で目にして、ようやく自我を保っていることに気がついた。名簿を見て何十年ものあいだ席が残っていることにも、未だに祓われていないのも、じじぃの仕業だと気がついた。だが、それだけだ。それからも私は無視し続けた。私は何もしなかった。言葉も視線も返さなかった。つまり、出来るのに、しなかったわけだ」
 独白は続く。
「相坂さよを成仏させるのはすべて私の都合だ。力尽くで消し去るのを良しとしないのも含めて、な……。あいつは六十年間孤独に晒されてきたヤツだぞ。下手に話しかけて、まかり間違って感謝されたら……好かれでもしたらどうする」
「嫌なのか?」
「無論、たまらなくイヤだな。見た感じ、あいつは六十年の孤独を経てすら生来の純朴さを失っていない。多少気が弱い風ではあるが、誰かが自分のために尽力していると思えば――それがたとえ勘違いでも――それを為したものに懐くだろう。それではまるで……」
 そこで声が詰まった。千雨の視線を気にするような仕草をして、エヴァは言葉を断ち切った。
「くだらないことを言った。忘れろ」
「悪いことじゃないだろ」
「十分悪いさ。それに、私は対価もなく他人に手を差し伸べたりはしない」
 千雨が眉をひそめると、エヴァは吐息を漏らした。
「悪人とは、そういうものだ。いい人ぶって誰かを助けたり、救ったり……もう、そんな偽善には耐えられんよ。今になって博愛主義に鞍替えするなんてまっぴらご免だ」
「……そういう理屈は、分からなくもないけどよ」
「分かってもらおうなぞ思ってはおらん。今更生き方を変えられないというだけだ」
 視線を外し、エヴァは淡々と口にした。取り繕うことも、自分を誤魔化すことも、苦手なのだろう。
 紡がれた言葉に嘘の響きはない。だが、それだけが真実というわけでもない。千雨はしばらく無言で考え込んだ。千雨の様子を眺めたエヴァもまた何も言わなかった。
 窓の外には、強い風が吹いているようだった。音を遮断しているのか、聞こえるべきざわめきはどこにも存在しなかった。
 外界の空気とは切り離されて、どうしようもないくらいに穏やかな時間が、ゆっくりと過ぎ去ってゆく。


 いつまででも耐えられそうな沈黙を遠くに聞きながら、千雨は大きく嘆息した。
 千雨の動きに反応して、エヴァがまっすぐに向き直る。
 その透明な視線、煌めくような鋭い眼差しを見返して、千雨は口調に気をつけてこう告げた。
「……で、韜晦はそんくらいでいいか?」
「何が言いたい?」
 睨まれた。しかし、エヴァの言葉に棘は感じられない。
「だってさ、説教なんて私の役割じゃねぇし。正直気にくわないだろ? 私から指摘されるのって」
「まあ、な」
 それ以上の言葉は必要なかった。エヴァにも思うところは色々あったようだが、自分の中で決着をつけたようだ。最初からエヴァ自身が一番分かっていることなのだ。
 ただ、ふんぎりをつけるために千雨に告げたに過ぎない。どんな会話になるかも、すでにして分かりきっていた。
 奇しくもエヴァが吐露したように、何もかも今更な話であり、所詮は今更な話でしかない。
 二人は過去の話をしているのではない。今の話を、あるいはこれから先の話をしているのだ。
 千雨が促すと、すっきりした表情でエヴァが頷いた。それからにやりと笑った。
 儚さなど微塵も感じさせない、力強い笑みだった。
「っていうか自分の心情に整理つけるために私を巻き込むなよ。頼られたと思えば悪い気はしねぇけど」
「知らなかったのか? 年を取ると、だんだんとずるくなるんだよ」
「さすが六百年生きてると言葉の重みが違うな」
 ロリババアという単語が脳裏を過ぎった。さすがに口に出しはしなかったが。エヴァが片方の眉を上げた。
「殴るぞ貴様」
「おーこわいこわい」
 千雨の軽口に、エヴァもふざけて腕を振り上げたが、目が笑っている。
「付き合わせて悪かったな。それはそれとして……朝倉和美の件、やはり必要になるかもしれん。頼めるか?」
「いいぜ。つーか、元からそのつもりだったしさ」
「すまんな」
「すまないって全く思ってないだろ。もっと悪びれろよ!」
「私は私。だろう?」
 にやにやと笑みを抑えずにエヴァが言う。千雨は口を尖らせた。
「そこで薔薇のアレを引き合いに出すなよ……あーもう」
 転がりたくなるから本当に止めて欲しかった。千雨の渋面を見て、エヴァはさらに満足そうに微笑んだ。
 サドっ気があるのは間違いないようである。
 それからさよの現況の再確認と、どうすべきかの指針についていくらか議論を交わした。どう転ぶかは分からないが、起こりうる未来を想定するのは当然の備えだからだ。
 今は単なる噂の幽霊に過ぎないさよだが、エヴァが表立って動くことで、良くも悪くも注目を浴びることになる可能性が高い。
 千雨にとって目の前にいるのはエヴァという人物でしかないが、闇の福音という呼称がどれだけ重いのかは以前事細かに説明された。
 今がどうであるかなど関係無いのだ。過去は消えないし、消せない。今更変えることもできない。


 話している途中、千雨はセリスのことを思い出していた。
 帝国の将軍であったセリス。帝国を裏切ってロックたちと共に歩むようになったとはいえ、常勝将軍とすら謳われていたと聞く。
 数多の戦場を駆けたはずである。いくつもの街に攻め込み、帝国に従うよう強制したとも聞いた。
 だから彼女の顔を知っている者は各地にいた。セリスが指揮する戦闘において、家族の命を奪われた者もいただろう。罵声を飛ばされたことは多々あった。ときには町中で石を投げられたこともあった。セリスはそれを当然のものとして受け止めていた。
 他者から見た自分。本当の自分。そんなもの、他人が容易く理解しきれるものではない。
 見えないものだから、正確なことなぞ誰にも分からない。
 エヴァ本人にさえ、完全に自分のことを理解し切れているとは到底思えない。
 たとえば闇の福音という呼び名は、エヴァのすべてではない。
 しかし、それは一面ではある。
 生きるために他者を殺した。奪った。どれほど正当化しようと、それが悪でないはずがない。
 エヴァにはそれが分かっている。痛いほどに分かっているから、それを誤魔化そうとはしない。
 ひとの世界において、罪と罰を定めるのは法である。
 法を守る者は、それゆえに法によって守られる。法によって守られる者は、やはり法を守る必要がある。
 そして法による罰は、法によって規定された罪にしか及ばない。
 だが、法によって守られなかった過去の自分は、同じ法によって罰せられる必要など無いと知っている。
 法無き日々にあったのは、ひたすらに生存のための闘争に過ぎなかった。獣が生きるために他の獣を殺したとして、それを悪と呼べるだろうか。殺されないために殺す。食らうために殺す。そこに善悪なぞ存在しない。
 善を称え、悪を憎むのは、結局のところ人間の尺度である。
 エヴァが自らを悪と定めるのは、それでも棄てなかった良心ゆえのことであろう。他者の定めた法に背いたからではなく、他者を押しのけてでも生きようとする自分を、唾棄すべき外道へと貶めないための最後の一線である。
 過去は過去でしかない。決して現在ではない。だが、心だけでは贖いきれないものがある。
「なんだかんだで結構時間も経ったな……。誰も残ってないだろうし、そろそろ教室に行こうぜ」
「そうするか」
 千雨に倣うようにして、エヴァはすっと立ち上がった。その所作のどこにも気負いは見あたらなかった。


 連れ立って教室に戻ってくると、エヴァが教室の片隅、窓際の最前列に近づいていった。
 相坂さよの席。
 座らずの席。
 エヴァの視線がぴたりと誰かを捉えている。今もそこにいるのだ。
「少し待ってろ。あいつと話してくる」
「聞こえない場所で待ってたほうがいいか?」
「いや、知られて困る話をするわけじゃないからな。気にしなくていい」
「ん。じゃ、なんつーか。がんばれ」
「この私が、まさか女子中学生に励まされる日が来るとはな。……行ってくる」
 話によれば、さよは暗くなるとコンビニなどの他の場所に移るようだが、朝早くから夕方までは、始終その席でペンを回したりして一人で遊んでいるという。
 机の上に、その椅子に、気配は微塵も窺えない。
 座ると寒気がすると言われているにもかかわらず、そこにいると知っているにもかかわらず、まったく存在が感じられない。エヴァのした話からすれば、肉体もなく魂が保持されるためには魔力が相応に使われているはずなのだが、それすら認識できないのである。
 エヴァの顔に笑みはない。空っぽの場所に向けて、そっと口を開く。
「相坂さよ。……少し、いいか」
 返事が聞こえた、のだろう。少しの間。それからエヴァが頷いた。
「ああ。見えているし、聞こえている。分かった。分かったから落ち着け」
 まるで出来の良いパントマイムを見ているみたいに、エヴァの反応からさよの行動が垣間見えてくる。
 あ。
 泣き付かれた。というか、縋り付かれたのが分かった。そこまで勢い良く抱きつかれるとは思っていなかったらしく、エヴァが若干うろたえていて、少し面白かった。
 と、視線があった。千雨がくすりと笑ったのが見えたらしい。殺気混じりの視線が飛んできた。くわばらくわばら。
「だから待てというに! 相坂さよ! 千雨にはお前のことは見えていない。って、分かったからいい加減離れろ!」
 無理矢理引きはがそうとしているが、エヴァでも普通の状態では触ることは出来ないらしい。
 さよ自身も触れているわけではないようなので、おそらく纏わり付いているという表現が一番近いのだろう。鬱陶しそうにエヴァが振り払おうと苦心している。あ、さよがこけた。
 エヴァの視線の動きで、よくもまあそこまで分かるもんだ、と千雨は驚いた。
 呆れた視線が教室の床にへたり込んでいるさよを射貫いている。
「はしゃぐ気持ちは分からんでもないが、とりあえず落ち着け! おい、子犬みたいに泣きそうな顔をするんじゃない!」
 大変そうだった。
「……千雨、他人事みたいに見てないで手伝え!」
「どうやって?」
「む」
 そこまでは考えていなかったらしい。舌打ちひとつして、エヴァは自分の発言を無かったことにした。
「いいかげんに泣き止まんか! は? これは悲しいからじゃなくて、嬉し泣きだと? そういう話をしてるんじゃないっ!」
 何も無い場所に怒鳴りつけるエヴァだが、相坂さよがしゅんとなっている様子が光景が目に見えるようだった。
 がたん。
 音がした。
「ん?」
「へ?」
「お、お邪魔しましたー」
 上から順番に、エヴァ、千雨、朝倉和美の声であった。中途半端に開いた教室のドアの前で、困ったように微妙な笑みを浮かべている。
 和美が、あはは……と乾いた笑い声を漏らしつつ、ゆっくりゆっくり少しずつ後ずさってゆく。
「朝倉!?」
「……ッ!」
 三歩進んだところで、思い切り良く背を向けて、廊下を駆け出そうとする和美だった。エヴァが即座に教室の外へと飛び出した。千雨も追いかけようとするが、すでに和美は、日頃体育の授業などでは見られない本気の速度で走り出している。
 そういえばA組の教室に戻ってきたとき、エヴァが人払いを仕掛けている様子はなかったと、千雨は今更に気がついた。
 放課後になってから結構な時間が経っているのだ。教室に来るまでの途中、残っている生徒の姿はどこにも見えなかった。
 油断だった。さよとのやり取りに夢中になっていたために、二人して、周囲には注意を払っていなかったのである。何の用だったのかは分からないが、和美がたまたま教室に戻ってきたら、千雨とエヴァの二人がいて何かやっている。それを見て、反射的にドアの影に身を潜めたのだと思われる。
 さすがは麻帆良のパパラッチ。自称といえど、言うだけはある。
 今のエヴァの身体能力では追いつけないようだ。このタイミングで見失うと、非常に面倒なことになる。千雨はどうしたものかと一瞬悩んだ。


 和美が階段に差し掛かった瞬間、エヴァは動きを変えた。強く腕を振って、何かを投げた。
 一歩、二歩と前に踏み出して、そこで和美は唐突に足を滑らせた。
「ウソっ、なんで!?」
 糸だ。
 和美の前方に投擲したようだった。身体を絡め取るのではなく、足の裏が床を踏む瞬間に合わせて引っ張ったようである。和美には何が起きたのか分からなかったはずだ。違和感があったとしても足下が急にずれたようにしか感じられなかったに違いない。
 その場に呆気なく倒れ込んだ和美は、聞こえてくる足音に気づき、顔を強ばらせて振り返った。エヴァがゆっくりと近づいていく。
 単調且つ硬質な足音を立てて、少し先で腰砕けになっている和美を見下ろしながら、廊下をゆったりと歩いているエヴァ。
 千雨には後ろ姿しか見えないが、きっと見た者が恐がりそうな含みのある笑顔を浮かべていることだろう。想像は容易だった。
「え、エヴァちゃん?」
「朝倉和美。貴様にエヴァちゃんなどと呼ばれる筋合いはない」
 ばっさり切り捨てた。
「一応聞くが。さっきのやり取り、見ていたな?」
「……え、えーと」
「はいかイエスで答えろ」
「同じじゃん!?」
「ふん、貴様が覗き見ていたことは知っている。それとも……見てないとでも言い張るつもりか?」
「いや、それは」
 和美に目撃されたのは、偶然が悪い方に働いたに過ぎない。千雨がそう考えるように、エヴァにも分かっているはずだった。A組の教室というのは、言ってみれば公の場所である。さらに言えば何の対策もせず、そこでさよとの対話を行ったのはエヴァ自身だった。本当は一言二言さよと話して、茶室などの然るべき場所に一緒に移動する予定だったとはいえ。
 分かっている。分かってはいるのだが、それでエヴァが納得するかと言えば、そんなわけがない。
 原因が自分たちにもあるとはいえ、和美が隠れて見ていたのは事実なのだ。
 追いついた千雨が、横からそっとエヴァの表情を窺う。
 微笑んでいる。
 なんというか、まさしく怖い笑顔である。
 確かに、エヴァにとっては他人に見られて嬉しい場面ではなかった。逆恨みというよりは、むしろ八つ当たりだろう。
 大人げないエヴァの対応に、普段であれば千雨も止めようとする状況なのだが、和美がこっそり見ていたという一点が問題だ。それが無ければ庇ってやるに吝かではなかったのだが、その一点が無ければそもそも逃げ出す必要も、エヴァがこんな行動に出る理由もなかったので、まあおおむね自業自得であると結論づけた。
 本人はそんなつもりはなくとも、知るべきではない情報というのは存在しているのだ。
 ここで身の危険を感じて、和美がひとの秘密を調べることの危険性を知り、相応の慎重さを持ってくれれば御の字である。
 理論武装終了。
 千雨は見守る姿勢を見せた。すがるような瞳で、和美は視線による救援要請を必死に訴えているが、千雨は声に出さず口を動かしてこう応えた。
 あきらめろ。
 それを見て、和美は肩を落とした。逃げられないと悟ったらしかった。
 廊下に正座した和美を、ほんの少し高い位置から見下ろして、エヴァは厳かな口調で語り出した。
「ピーピング・トムの話を知っているか?」
 口を尖らせて、和美が見上げて、湖面のように静まりかえったエヴァの瞳を、きっ、とにらみ返した。
「私が出歯亀だって言いたいの?」
「ほう、何か違うのか?」
「……さっきのは、ちょっと否定できないけど」
「まあ、貴様の性癖が何であろうとどうでもいいことだが」
「性癖って」
「貴様は、ひとの秘め事を覗き見て興奮するんだろう?」
 嫌らしい言い回しである。多少は知識もありそうな和美が、耳まで真っ赤にして目を逸らした。
 にやり。余裕ぶって、エヴァが笑う。嘲るような視線。
「ま、それは置いておこう。私が言っているのは語源となった話の方だ。そもそもピーピング・トムは俗語だしな」
「語源?」
「イギリスでは有名な話だ。ゴダイヴァ夫人という名前を聞いたことはないか?」
 和美は首をかしげた。千雨も聞き覚えがないが、おそらくは本当に有名な話なのだろう。エヴァが淡々と続けた。
「コヴェントリーの領民には重税が課されていた。苦しんでいる領民を気の毒に思った夫人は、圧政を敷く領主、つまりは夫をことあるごとに諫めようとした。この領主は、夫人が慎み深い女性であることを知っていた。何度も諌言を繰り返す夫人に対し、領主は『裸で馬に乗り、城下を巡回するのであれば言い分を認めよう』と、こう告げた」
「は!? なにそれ!?」
 確かに、こういう説明では、ろくでもない夫という印象しか持てないだろう。
「まあ、領主としてはそれで諦めると思ったんだろう。しかし、思惑は外れて、夫人はそれに頷いた。さすがに自分の裸身を見られたくはなかったらしく、『当日は外出せず戸や窓を閉めよ』といった内容の布告を出したそうだが……」
「それで?」
 話の先を促す和美だったが、すでに展開は読めているのだろう。
 この話を持ち出したのは、ピーピング・トムの語源だからなのだ。
「領民のために、ゴダイヴァ夫人は本当にそれをやった。自分たちのためだと理解して、心を打たれたコヴェントリーの町民は、みな戸や窓を閉めきり、決して彼女の覚悟を辱めないように家の中に閉じこもった。領民のために裸を晒したゴダイヴァ夫人の、気高くもあられもない姿なんぞ誰一人として見てはいない。それが終わったあと、そして夫である領主はきちんと約束を守り、夫人の言い分を認め、領内における苛政を改めた。……どうだ、現代にまで残るに相応しい良い話だろう?」
 和美が目を伏せた。エヴァが楽しげに笑みを浮かべている。
 そこには、あるべき人物の話だけが存在しなかった。
「……ごめんなさい」
「おいおい朝倉和美、何を謝っている? 貴様は麻帆良のパパラッチだろう。ひとが隠していることを暴くのが趣味なんじゃなかったのか?」
「私は……そういうのがやりたいわけじゃないよ」
「はっ。何を言っている。秘密を探るというのは、こういうことだ」
 エヴァの声が笑っている。目も笑っている。だが、言葉は辛辣だ。
「貴様、巨悪を暴く正義のジャーナリストにでもなりたかったのか?」
「そうだけど、悪い?」
「悪くはない。誰であっても、夢を見るのは自由だ。……だが、無自覚なのはどうかと思うがな」
「何の自覚が無いって言いたいのよ」
「もちろん、知るということの恐ろしさだ。人間の記憶は案外不便なもので、ひとたび記憶してしまったものを忘れるのは割合大変だったりする。知らなければ良かったということも、自由に忘れることはできない」
 他人に忘れさせることは出来るがな。エヴァが声に出さずそう呟いたのを、横で見ていた千雨は読み取った。
「さっきの話は堪えたか?」
「だいぶね……」
 結局、トムという男だけは覗いたのだろう。他の町民が目を瞑り、ゴダイヴァ夫人の決断の尊さを守ろうとしている横で、一人覗き見た男。
 だからこそ許し難い存在として、恥ずべき名前として残された、ピーピング・トムの逸話。
 和美にとって、そんなのと同一視されるのは耐え難いことであるに違いない。
「ベルギーのチョコレートメーカーにゴディバというのがあるだろう?」
「え? まあ、美味しいし、時々買って食べるけど、いきなり何の話?」
「ゴディバは、ゴダイヴァ夫人の名前に由来している。シンボルマークも覚えているか」
「確か、馬に女の人が……あ」
「さて、朝倉和美。貴様はこれから、ゴディバのチョコレートを見るたび今の話を思い出すわけだ」
 話の流れと一緒に強く印象づけておいて、こんな説明までされて、容易く忘れられるわけがない。
 なんで長々とこんな話をされたのか、和美も気づいたらしかった。
 エヴァは眼を細めた。ここまでやってようやく気が済んだらしかった。
「……えげつねぇ」
「私なりに千雨のやり方を真似たつもりだったんだがな」
「はぁ!?」
 和美がうろんな表情で千雨を見上げてきた。首を横にぶんぶんと振って否定するが、エヴァが続けた。
「うちのクラスには秘密を抱えている連中がやたらと多い。秘密の何たるかも弁えていないこの小娘が不用意に踏み込んでみろ。どんなことになるか分かったもんじゃない」
 隠された真実というのは、たいていの場合重くて痛い。第三者が知るべきではないものが大半だ。知った側が傷つくこともある。知られた側がより傷つくこともある。世の中には和美の想像も付かないようなことが存在している。
 それを知らないままでいると、踏み込んではいけないラインを越えかねない。
 和美の調査能力を千雨は高く評価している。情報入手の速さ、アンテナの感度には目を見張るものがある。
 おそらく、エヴァも同じだろう。さよの一件では、相当昔の学校関係者からいくつもの証言を集めてきたはずだ。
 エヴァは好き嫌いと能力の評価とをきっちり切り分けている。ならば一介の中学生に過ぎないはずの和美が、あれだけの情報収集能力を持っている点について、むしろ絶賛していてもおかしくない。
 だが、和美の調査能力、行動力の高さが仇になることもある。
 知ってしまってから口を閉ざし、胸に納めるのでは遅いこともあるのだ。
 秘密の存在を嗅ぎつけてしまったら、あえて知り得ないように動くべき事項が確かにあるのだ。
 場数を踏めば、もう少し機微が分かるようになるのかもしれない。人情話に弱く、多少の正義感を持っている程度では、今の和美が自由に振る舞うのは控えたほうが良い。それは千雨も思ったことだった。
 千雨にとって。あるいはエヴァにとって。
 秘密とは、不意に知ってしまうものである。知りたくもないのに、結果として気づいてしまうものである。
 隠すべきだから、知られたくないからこその秘密なのだ。決して声高に暴き立てるようなものではない。他の誰かならともかく、和美は将来的にはジャーナリストとして身を立てようとしている。
 だからこその、遠回しな忠告だった。
 とぼけた声で千雨は言った。
「あ、エヴァなりの優しさだったのか。今の」
「さあ、どうだろうな。……というか、私をなんだと思っているんだ?」
「エヴァちゃんは、素直になれない、いじめっ子」
「ムカつくから五七五で言うな。張り倒すぞ。あと、千雨にちゃん付けで呼ばれると背筋に怖気が走る。気持ち悪いから止めろ」
「えー」
「いっそ様付けにしたらどうだ。それなら構わんぞ」
「エヴァちゃん様」
「バカにしてるだろ貴様!」
「ところで、朝倉相手にこんな話をしたのって、ちょっとは八つ当たりも混じってたか?」
「多少はな」
 固まっている和美に、千雨は励ますように言った。
「だってよ。ま、あんまり気にすんな」
「そんなこと言われても。っていうか、千雨ちゃんて……」
 エヴァとの寸劇のようなやり取りを目にして、和美は目を丸くしている。教室ではここまで軽口のたたき合いみたいな会話はしていなかった。クラスメイトの大半が風船のごとく空に飛んで行ってしまいそうなレベルで気安いので、下手に一度気を許すとスッポンみたいに食いついて離れないと予測しているらしい。
 余人から馴れ馴れしくされるのを嫌ったエヴァの意思を、千雨が汲み取った結果である。とはいえ、千雨の見立てでは、エヴァは変に勘違いされるのが嫌なだけである。その証拠に、四葉五月あたりとは普通に友人づきあいしているのだ。
 まずは自分の足で立っていることと、相手を色眼鏡で見ないこと。
 この二つが出来れば、エヴァと仲良くなるのは案外難しくないのではなかろうか。
 そもそも友達になるというのはそういうことではないのか、と思わなくもないが。


「あのー、エヴァちゃん?」
「あん?」
 じろり。というか、ぎろり。そんな感じだ。
 とりあえず廊下で話を続けるのも微妙過ぎるので、A組の教室に戻ってきた。エヴァが歩く後ろを、和美は素直に付いてきた。逃げられないかなと何度か機会を窺ったようだが、動かなかった。後のことを考えるとまずいかなーと考えているのが顔にそのまま出ている。
 和美が引きつった笑みで声をかけると、千雨に向けるのと随分と温度差のある視線が容赦なく貫いた。
「エヴァ……さん」
 鷹揚に頷くエヴァだった。普段クラスで見せる我関せずの様子とは異なり、あからさまに尊大である。
 和美が引いているのが分かった。そりゃそうだ、と千雨は頷いた。見た目的には十歳の金髪美少女である。雰囲気的にはとんでもない存在だというのはここまでの流れで重々理解したようだが、エヴァのような傍目には可憐で静謐な印象を受ける外国人の美少女から、常時上から目線で応答されるなんてのは、和美の人生にとって間違いなく初の経験であろう。
 先ほどまでと違って、和美はちゃんと立っている。
 身長差があるため、エヴァからは、見上げられる位置に胸と顔がある。
 なのに見下ろされている感覚になっているようだった。精神的に優位に立てる要素が皆無だからと推測される。
 横から見ていると、お伺いを立てているようにしか見えない。それが現状の和美とエヴァの状況だった。
「まあいいだろう。なんだ」
「私が何かを目撃しちゃった、ってのは分かったんだけど……そろそろ何を見ちゃったのか、教えてもらってもいいかな?」
 どうやら状況を理解しての逃亡ではなかったようだ。
 当然の質問だと千雨は思ったが、エヴァは不愉快そうに眉を動かした。和美は縮こまった。
「見ていたんだろう?」
「えーと、何を」
「さっきの私と相坂さよとのやり取りだ!」
 早口気味にエヴァが告げると、
「え?」
「あ!」
「……ん?」
 上から和美、千雨、エヴァの順番である。
 おや、と千雨は思った。もしかして今、凄い勢いでエヴァが墓穴を掘っているのではないだろうか。
 和美の目が爛々と輝いた。頭の中で何かをくみ上げているのが見て取れた。材料は足りているのだ。シャーロックホームズ曰く『不可能を消去して、最後に残ったものが如何に奇妙なことであっても、それが真実となる』。
 非現実的であるという一線を踏み越えてしまえば、和美が答えに辿り着くのは難しいことではない。
 千雨が軌道修正をかけようと、何かかけるべき言葉に迷っている隙に、今度はもう一人が動いたようだった。
「そもそも……ん? あ、いや待て。別に無視したわけじゃなくてな。朝倉和美がそこで隠れて見ていたから……ああ、悪かった。お前を放り出していったのは悪かった。だから泣くな! かといって思い切り抱きつくな鬱陶しい! 少し離れろ! あん? 逃げない逃げない。逃げないからもう少し距離を取れ……ええい、しくしく泣くな! あと耳元で喚くな! だから、さっきのはそいつに見られてたせいで……は? いや話の途中で理由も告げずに席を外したのは私の落ち度だが……だーかーらー、それくらい我慢せんか!」
 見えないが、こんなに分かりやすい答えは他にない。
 形勢逆転である。
「エ〜ヴァちゃんっ」
「だから貴様にちゃん付けを許した覚えは――」
「さよちゃん、そこにいるんだ?」
 確信している口調だった。即答出来なかった。それがつけいる隙になった。
 ようやく反撃の糸口を見いだした和美は、これまでの劣勢を覆そうと自分の言葉で勝負をかけた。
「なるほどなるほど。ってことは、自習中にエヴァちゃんが突っかかってきたのもそれが原因なわけだ。エヴァちゃんは、さよちゃんが見える本物の霊感少女ってところかな。で、その場面を見ちゃった私を追いかけてきたのは、それを広められるのが困るからと。うんうん、これなら秘密に対して敏感にもなるよね」
 先ほどエヴァが和美を逃さないために動いたのは、決して困るからなどではない。単純に嫌だったからだ。和美が何かをした場合、エヴァにとってそれをどうにかするのは容易いことだが、多少面倒であることには変わらない。
 たとえば問答無用で記憶を消す。何らかの手段で行動を操る。必要であれば、そういったことを躊躇わずに出来る。
 そうでなければ生き延びられなかった。それがエヴァンジェリン・A・K・マクダウェルという存在だった。
 朝倉和美が自分を脅かす敵であるならば、エヴァは全力で排除するだろう。
 多少手段は選ぶかもしれないが、そこには手心だとか、容赦といった言葉は存在しない。
 一方の和美は聞こえるように自問自答して、エヴァの表情と心境とを見抜こうと、観察者の顔で言葉を紡いでいる。
 エヴァは無言である。
 目の奥の光はひどく冷たい。睨むでもなく、ただ和美の顔を見つめている。
 魔王と呼ばれるに足る、ただ何もかもを射貫く恐るべき眼光。
 先刻見せたものとは比べものにならない、心胆寒からしめる重圧である。和美が漏れそうになる悲鳴を押し殺して、唾を飲み込んだのが分かった。
 だというのに、和美がその視線を受け止めた。顔を背けなかった。目を逸らさなかった。逃げ出したい気持ちを必死に抑えて、震えそうになっているのを無理矢理隠して、エヴァの目をまっすぐ見つめ返していた。
 潤んだ瞳だった。だが、そこには真実を追い求めようと覚悟を決めた少女の姿があった。
 ネズミのごとくこそこそと地べたを這いずり回って隠れ見るような下品な覗き屋ではなく。
 危険を顧みず死地に飛び込む、気高き探索者の誇りがあった。
 前々から度胸があるとは思っていたが、ここまでとは千雨も思っていなかった。
 だが、これからの発言次第では、どうなるか分からなかった。
 下手な挑発とか勘弁してくれ。せめて止めに入れるようにと身構えつつ、千雨は二人の次の言葉を待っていた。
「……なんてね。はいはい参りました。これ以上深入りすると私の身がヤバイ。でしょ?」
「ああ」
 言葉少なにエヴァが肯定した。
「私にだってね、親切な忠告を受け入れる度量くらいあるっての。ヤバさを肌で感じるくらいは出来るしさ」
「ならいい」
 和美は大きく息をついた。のしかかっていたなにもかもを吐き出すように、長く息を吐き続けた。
「いやー。今さ、ちょっと足に力が入らないんだけど……座ってもいい?」
 鋭い視線を保ち続けていたエヴァは、和美の言葉に頷いて、かすかに笑みを浮かべた。
 首肯ひとつに貫禄がある。
「あはははは……ちょー怖すぎ。エヴァちゃんって、いったいなんなの? 普通の女の子じゃないとは思ってたけど」
「知りたいのか?」
「……やめとく。あーあ、こっちのがヤバイ秘密っぽいね。なんだかなぁ」
 背筋がぞわりと震えたらしい。やはり、勘も良い。
「そういえば、私のことは調べたのか」
「さぁ、どうだったかなぁ」
 はぐらかそうとする和美だったが、逃してくれるはずもない。
「なるほど。それで、何か分かったか」
「ここは見逃してくれる場面じゃないの?」
「ほう、なぜ見逃す必要があるんだ?」
「降参降参。言えばいいんでしょ、言えば。――エヴァンジェリン・A・K・マクダウェル。生年月日記載無し、身長130センチメートル、スリーサイズは上から67、48、63。出身地記載無し、国籍の記載も無し。現住所は埼玉県麻帆良市桜ヶ丘4丁目29番地。寮暮らしじゃないことに加えて、同居人として絡繰茶々丸さんの名前があり。ついでに賞罰欄にも特に記載無し」
「……放課後からさっきまでのあいだにそれだけ調べたのか」
 一瞬間が空いた。
「記載無しってのがネックだよねえ。自分で調べといて何だけど、ぶっちゃけ目を疑っちゃった。麻帆良の女子中等部本校に在籍してるってのに、この空白の多さだし。いくら麻帆良が大らかって言っても、色々ありえないよね」
 軽く笑う。
「ありえないことは他にもあって、私がこれまでこんな謎だらけのエヴァちゃんのことを調べてなかったってこと。っていうか、調べようって一度として考えたことすらなかった。当たり前みたいに思ったけど、さっぱり私らしくない。なんだろーね、これ」
 エヴァが何かしたのだろう、と見当は付けてあったらしい。
「あと、保護者欄の名前。ナギ・スプリングフィールドってひとなんだけどさ」
 一瞬だけエヴァの顔色が変わった。
 気づいたのか、気づかなかったふりをしているのか、和美はそのまま話を続けた。
「ナギ・スプリングフィールド氏。高畑先生と同じ悠久の風ってNGO団体所属。どうやら知り合いっぽいね。で、1993年、国外にて死亡。1978年のまほら武道会に出て、当時十歳という幼さにも関わらず、年上ばかりの他の出場者を抑えて優勝したって経歴はすごいね。くーちゃんみたいな感じだったのかな?」
「まほら武道会か。……それは知らなかったな」
「ま、今はウルティマホラの方がメインだし、その影に隠れちゃった大会だからね。それは仕方ないんじゃない?」
「それで、あいつの何がありえないんだ?」
「いやいやいや、故人の名前が保護者欄に書いてあるって時点で十分オカシイでしょ。手続き上、それを認めてるのも変。エヴァちゃんに何かあった場合はともかく、エヴァちゃんが何かやらかした場合の責任は、そのひとが取ることになるんだから」
 そこまで聞いて、エヴァは目をつむった。一言では言い表せない、どうしようもなく切なげな表情をうすく覗かせた。
 千雨はようやく思い至った。その名前は、エヴァの思い人のものだったのだと。
 この地にエヴァを縛り付け、光に生きてみろと言い残し、呪いを解くという約束を果たさず亡くなった男。
 ある意味ではこの状況の原因と呼ぶべき人物。
 いなくなった今ですら、エヴァにこんな顔をさせる、おそらくただひとりの人間。
「……他にはまだ何かあるか?」
 何事もなかったかのように、エヴァは問い直した。和美は呆気にとられていたようだが、はっとして口を開いた。
「う、うん。エヴァちゃん、随分前から麻帆良在住みたいだけど……小学校行ってないでしょ?」
「かもな」
「引っ越した様子も無いし、そんな形跡もない。エヴァちゃんがどこの国出身だかは知らないけど、日本には義務教育ってのがあるしさ。そもそもエヴァちゃんを小学校に行かせようとした痕跡もないし、それを誰も指摘していないのも奇妙すぎる。しかも書類が不備扱いにもならずにあれで通ってるのは異常だし、そこら辺の情報を持たされてるはずの担任の教諭――つまり高畑先生が動いた様子も微塵も見あたらない。ってことは、高畑先生は……もしかしたら麻帆良のトップ、学園長あたりも、そこらへんの事情全部知ってて見逃してる。もしくは、積極的に法律の抜け穴にエヴァちゃんのあれこれを通すために不正を働いている。……とまあ、ここまで考えてみたんだけど」
「ふむ。穴はあるが、筋は通る。なかなか面白い推理だと褒めてやろう。その内容、学園長に直撃してみたらどうだ」
 エヴァが気軽な口調で提案した。
 和美の目には、悪魔の微笑みに見えたかも知れない。言われた途端にわずかに身を引いた。
「トップもグルって……あーあ。私、ちょっと喋りすぎたかな」
「どうだろうな。ま、大スクープなのは間違いない。社会正義とやらのために身を粉にして働きたいか?」
「身体を粉末状にされるの?」
 脅し文句に聞こえなくもないが、直裁すぎる。
「タカミチやじじいがそれをやりそうに見えるか」
「高畑先生が……? 『すまないね、和美君。君は知りすぎてしまったんだ……』とか言いながら、渇いた笑みを浮かべて、ロープを握りしめて近づいてくると。超怖すぎ。目が笑ってないのが想像できすぎ。学園長の場合は『ふぉっふぉっふぉ、和美君。すまぬが……消えてくれぬかな』みたいな言い回しかー。でもって部下の黒服に命じて、下校途中とかにさっと拉致って行方不明、みたいな」
 声色を真似した和美の発言に、エヴァはしばらく耐えていたが、やがて吹き出した。
「く、くくくく。あっはっはっはっは! タカミチが……あのタカミチが、それか! タカミチにはそんな度胸はあるまいよ。貴様とて可愛い教え子だ。何かやらかしたら、まあ、せいぜいゲンコツ一発くらいで許すと思うぞ。死ぬほど痛いかもしれんが、死にはしないから安心しろ」
「学園長の方は否定しねえのかよ」
「まあ、孫の同級生を手に掛けるほど落ちぶれてはおらんだろう。それでもタカミチほど甘くはないがな」
 和美は聡い。エヴァがタカミチと気安く名を呼んでいることにちゃんと気づいている。
 ゆえに、担任である高畑先生も、ある程度事情に通じていると判断出来てしまった。
 逃げ道が無いような気分になったかもしれない。
 さらには、先ほどまであえて恐怖を煽っていたエヴァの言葉で安心できるのかといえば、そんなはずもない。
「ありゃりゃ、私、やっぱり消されるってこと?」
「貴様が知らんだけで、麻帆良には色々あるんだ。下手に手を突っ込むと火傷では済まないことは理解しただろう?」
「だよねぇ」
 心底嫌そうに、和美は笑った。
 知ってしまうことで、たとえ広めるつもりがなくても、危険をもたらすに足るものがある。
 これ以上ないほどに理解してくれたらしかった。
「それで? エヴァちゃんは私のこと、口封じとかするの?」
 軽い調子でそう聞かれた。
「なあ、朝倉和美」
「うん」
 頷く表情は、いっそ清々しかった。泣きわめくことも、罵声を挙げることもなく、和美は続く言葉を待っていた。
 くすりとエヴァが面白そうに笑った。
「見ての通り、私はか弱い女子中学生だぞ。なんで口封じなぞせねばならんのだ?」


 からかわれたと気づいて呆然としている和美を放って、エヴァが千雨に向き直る。
「千雨。悪いな、気が変わった」
 軽く背を向けて、口の動きから読み取られないように気をつけつつ、小声で話す。
「はいはい。この件には朝倉も巻き込む、と。でも、いいのか?」
 一応、確認してみた。
 せっかく虎口に飛び込むことの怖さを教えたのに元の木阿弥じゃねえの、という意味である。
 必要なのは和美が集めてきた証言の主が誰であるかであって、これ以上古い記録を調べる余地は無いという話ではなかったのか。
「構わん。思っていたよりずっとマシだったからな。なに、クラスメイトのよしみだ。最後まで関わらせてやるさ」
 上機嫌である。
「秘匿義務には?」
「それも問題無い。幽霊だとか占いだとか、そっち方面は秘匿の度合いと種類が違うんだよ」
 訝しげな顔をすると、エヴァも声を潜めて説明してくれた。
「オカルト方面では魔法使いがそっちの職種に就いている場合が多くてな。さすがに人前で魔法を使ってバレるのは論外だが、神主や坊主、あと巫女、占い師に祓い屋……まあ様々だな。魔法に関連しているという事実は上手く誤魔化せばいい。嘘の中に真実を混ぜると案外バレないものだしな」
 確かに上手い手だ。糊塗の手段として、表だったオカルトを用いるわけである。
 多少の怪しさは、もっとあからさまな怪しさの裏側に隠される。巨大すぎる隠れ蓑は、結果として中の秘密の大きさを意識させない。
「それって、ありなのか?」
「そっちに窓口がないと簡単に手が出せなくなるだろう? 普段教師だの普通のサラリーマンだのやってる連中が幽霊騒ぎの現場に来てみろ。怪しいなんてもんじゃない。もちろん祓い屋みたいな連中だって、一般人の前では魔法を使った占いだの儀式だのはやらん。そこは秘匿義務に引っかかるし、状況にもよるがバレたら相応のペナルティもある。だが、一般社会における不可解な話には、まれに魔法関連の事件も混じっている。ホンモノかニセモノかなんて調べるまでは区別が付かない。どちらにせよ、ひとたび事件が起きたら放置することは出来ん」
「ああ……なるほど」
 結果的に『魔法』を隠しさえすれば、その手立ては問われないということか。千雨は納得した。
「こう言い換えても良い。分かりやすい答えを目の前に置いておくと、その裏側にある別の答えには気づきにくい」
 エヴァの言い方に引っかかった。
 まじまじと顔を見つめると、含んだ笑みを向けられた。
「千雨。お前、コスプレ以外に隠していることがあるな?」
 あっさりと告げられて、千雨は目を丸くした。
「気づいてたのか」
 否定する必要は感じなかった。エヴァは隠していたことに特に怒った素振りも見せず、むしろ自嘲気味に続けた。
「確信したのは最近になってからだ。どう考えても、お前は出来過ぎる。特殊な出自か、余程の経験か、あるいはその両方が無くてはこんな人格にはならんだろう。最初は意識誘導に引っかからない体質のためかとも考えていたが、それにしては歪んでいない。他人のことにきちんと意識を向けている以上、拗くれてたのが良い方向に矯正されたのかもしれんが……。もし特別な出来事が何も無くてそんな考え方に至ったとしたら……気味が悪いとしか言いようがないな。どこの聖人だと頭を蹴り飛ばしてやりたくなる」
 どうだ、と問われた。自覚はあるので、素直に頷いた。
「まあ、心当たりはあるが」
「ふん。そのうち話せよ。酒の肴として聞いてやる」
「へいへい」
 ぞんざいに返事をするが、エヴァは気にした様子はなかった。


 ちらり、と和美を肩越しに振り返って見遣ると、憔悴したような表情が見えた。放置しすぎたらしかった。
「こうして朝倉に聞こえないように二人で話してると、あいつの処遇をどうするか密談しているように見えるよな?」
「ん? わざとやってたんじゃなかったのか?」
「いや、そこまで意地悪くねぇよ」
 千雨から離れて、エヴァが和美に近づいた。
「待たせたな、朝倉和美」
「ホントにね」
 色々とありすぎて神経の感度が鈍くなっているのか、それとももう危険がないことを直感的に理解したのか。
 和美の返事は不満を隠さないものだった。
「手短に言うが、見ての通りそこにいる相坂さよは幽霊だ」
 正確には魂だけの存在とのことだったが、対外的には幽霊という呼称で問題あるまい。
「あのさ、見えないんだけど」
「……そうだったな。まあ、大したことではないな」
「あるでしょ!?」
「私が見える。充分だろう」
「さっきも驚いたけど、エヴァちゃんってこんな性格だったんだ」
 げんなりしている和美だった。
 エヴァの態度には慣れるまでは大変だが、慣れればそれほど気にならないことを伝えるか否か。千雨は逡巡した。
「ん? いや、なんで私が通訳なんぞせねばならん。自分で言え、自分で」
「これって、さよちゃんと話してる、んだよね?」
「パントマイムじゃないから安心しろ」
「っていうか、自分で言えるなら苦労してないって話なんじゃ」
「ポルターガイストとか使えるだろう? は? 上手く出来ない? おい相坂さよ……貴様、六十年間何をしてたんだ」
「ねぇ、こういう漫才、どっかで見たことあるんだけど」
 和美はエヴァがさよと会話していることは疑っていない。だが、目の前でこういったやり取りをされると不安にもなるはずだ。
「チョークを使って黒板に書けばいいだろうが! 気合いを入れないと出来ない? やれ。今すぐやれ。血文字でも構わん。早くやれ!」
「……割と器用じゃないと難しくね?」
「だよねえ。あ」
 その瞬間、何かが動いた。
 千雨にはそれが魔力によるものだと分かった。和美は風が動いたように感じられたのか、顔を守るように手を動かした。
 チョークが飛んでいく。ふらふらと揺らめきながら、黒板にぶつかった。ぎぎぎと小刻みに震えながら白い線が書き込まれてゆく。
「ええっと、木? だよね、これ」
「その次は目だな」
「土に……反るっぽいね、あっ、力尽きた」
 木目土反。さよまで辿り着かなかった。疲れ切ったさよを、エヴァが怒鳴りつけている。
「なめとるのか貴様! 本気でやれ!」
 下に落ちていたチョークが、ふわふわと浮いた。
「おぉ、頑張った。チョークが黒板にぶつかって……落ちた」
「ダメだな」
「なんど? ペンより重いものは持ったことがない? 嘘をつくな、そもそもチョークがそんなに重いわけがあるか!」
「っていうか、もうこれ通訳してもらったほうがどっちにとっても楽なんじゃないの?」
「言うな朝倉。エヴァはこう見えて……見た目以上に大人げないんだ」
「見た目お子ちゃまだもんねぇ」
「うるさいぞ貴様ら!」
 何もかも、ぐだぐだであった。

 
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