凍てつく空気が世界を満たしている。
 涙を拭って歩き出した。眼前の暗闇は、どうにも優しくはなさそうだった。
 月明かりはどこも涼しくて、冷たい。陽が昇るまでこの夜を往くのも悪くないだろう。

 まあ、私にはお似合いだと思ったのだけど――


 駅の階段を下る。
 終電は行ってしまったけど、ここからなら家まで帰るのは容易い。
 せいぜい二時間も歩けばいい。たったそれだけで暖かな家には辿り着ける。
 自分の元から去ってしまった恋人を求めるには、いまさら自分から望むには遠すぎた。 だから、歩くだけで目的に近づけるなんて、二時間だったらひどく簡単なこと、そう思った。自虐に走るような強さを持たない私には相応しい。だた歩くだけ。  この寒空をゆっくりと、暗い恐怖に耐えながら。いや、怖くはないのか。 怖い、という感情として一番強かったのは失うことだった。だから、大切なものをすでに失ってしまった自分はもはや怖いものなどない。感情のひとつでも欠けた人間が自分だなどと言うのも奇妙ではあるのだが。
 抜け殻になってしまった場合、自分のことを認識できないと思う。だって自分である必要なんてなくなってしまうんだから。だったらやはり私は私だ。自分を捨ててはいないのだ。
 それが、いいことなのか、悪いことなのかまで判断はつかないが。
 覚えていられないほど、はるか昔の約束。いつか見に行こうと決めていた映画は、そのタイトルすら覚えていない。そんなにつまらないことだっただろうか。いや、とても大切なことだったのだ、といまでは思う。
 大事なのは名前ではなく内容であり行動だ。それは実現していたならば思い出になっただろう。未来を考えて、消えてしまった儚い夢。 ひとの夢が儚いだなんて思いたくはないけれど、堅牢だと信じていたものだって崩れてしまう。  愛なんてものなら余計に簡単だ。形すらないものをどうして信じられる。目が曇っていたのかと疑問を抱くひともいるだろうけれど、そんなことはない。
 私にとっては愛が全てじゃなかったのだろうか。そうではないだろう。でも、夢はふたつあったなら、どちらかが消えなければいつまでも輝いてはくれない。
 愛は夢と同じ。いいフレーズだと思う。今度、緒方さんに頼んで歌にしてもらおうか。
 夢は夢。愛は愛。でも、どちらも似ているのはたしかなことだ。ただ語るだけじゃ、すぐに自分の手から離れていってしまう。経験談だ。自分は失敗したのだ。夢にばかり目を奪われて、とても大切だったはずの愛を置いてきてしまった。  夢ばかり見ていた。そんな気がする。  ずっと、夢、ばっかりで。  大切なものを見失ってしまった。そんな気が、する。  あるいは、私が置いていかれてしまったのかもしれない。他のものに目を奪われている隙に親とはぐれる子供のように。両手でしがみついていなければ、人波に流されてしまうのだ。さっさと先に行ってしまうあのひとを追いかけていれば、いまごろこんな風に考えることもなかっただろう。
 一緒に、彼の隣を歩いていたのは私だったはずだ。

 ――きっと。

 未練、だろうか。それとも嫉妬だろうか。忘れられないことは自分自身理解している。もう許している。私の道からは届かない場所にあるものを、彼は望んだから道はふたつに分かれてしまい、私はひとりでこんなところを歩いている。
 私が歩んだ道から届くことはない。本当にそうだったのか。いまとなっては知ることはできないし、知ったところで余計に悲しくなるだけだろう。でも、気になった。少しだけ。
 同じ道で、待っていてくれようとしたんじゃないのか。彼は、ずっと。私はそれに気づかないで、ただどこか遠くを見ながら、大事なものを見落としてしまったんじゃないのか。
 錯覚だろう。道は、ひとつだった。私は仕事という夢の向こう側に彼を見て、彼は仕事よりも近い場所から私の隣りにいてくれた。
 でも、夢に遮られた。
 夢を捨てるのはとても難しくて、他の全てに気づかなくて、なにもかもが分からくなって。彼は遠くなっていった。私は流れに見失って、あきらめてしまった。本当に?
 本当に。
 数十分は歩いただろうか。暗い細道を街灯の光量が弱くなった場所から抜けていく。もう月明かりだけしか頼れない。公園に出た。空気の濁ったような嫌な気分だった。本当に、なにが悪かったのだろうか。
 私も彼も彼女も回りも。なにもかもの歯車が狂ってしまった。
 誰かの思惑が私を動かしていたし、私の望みはいつしか光の裏側にしか見つからなくなった。仕事に不満はないし、私はこの仕事が好きだ。順調に、頂上へと駆け上がっている。そのはずだ。
 ちょっとだけ疲れて、公園のベンチに座り込む。時間は深夜。
 誰ひとりとしてこんな場所には来ることはない。来たところでどうということもない。愛想笑いとひとの本音を読むのは、巧くなったと、自分では思うから。なんでも、できるから。月を見た。丸くはなかったが、とても綺麗だった。ときどき雲に隠れては欠けたようにも薄れたようにも見えたが、それでもそこに在った。在り続けた。光り輝いていた。雲の裏側で見えなくなっても、ぼんやりとはその存在を主張し続けていた。
 夜空に星は見当たらなかった。都会ではもう綺羅星ひとつも見つからない。流れ星くらいはあってもいいと思うけれど、とりあえず一年くらいは流星なんて見たことも聴いたこともなかった。
 普段は、一等星すら見えないし、出てもひとつかふたつ。冬空の空気の澄み渡った今夜あたりは見えてもいいとは思ったけれど、どうやら予想以上に雲は厚いらしい。
 軋んだベンチに、もう少しだけ深く座り込む。枯れ葉を踏みつけて、はぁとため息を吐き出した。白く空に昇っていくその息は、込めた想いにくれべれば幾分純粋だったようにも思える。ただの錯覚だろう。
 コートにマフラー姿の私。手袋もしてはいるが、かじかむことに変わりはない。耳が言い表しにくい痛みを感じている。
 熱を奪われてくるほどに、熱さも感じた。
 なにをするでもなく、ぼんやりと私は座っていた。寂しいなどと、思いたくはなかったのだけれども。
 それでも、こんなちっぽけな場所で寂しさを感じずにいられるほど私は図太くもなければ感受性が皆無というわけでもなかった。なにひとつ動くものはなく、風もほとんど吹きはしない。だから虚しかった。なんでこんなところにいるんだろう、私。
 まぶたを閉じれば、姿が浮かぶ。忘れたいと願っても、たぶん一生忘れられないほどに明瞭な彼の顔。いつも私のことを気遣ってくれていて、それなのに無理をいってもほとんど怒ってもくれなかった。私が馬鹿みたいなことをやったときだけは、私のことを心配してしかってはくれたけれど。
 馬鹿、か。どうしようもないくらいに救いようのない、こんな馬鹿。他にはいないよね。私は彼を想っていた。そのはずだった。
 なのに、なんでこんなにもすれ違ってしまったんだろう。ひとつひとつを考えてみれば、全部自分のやったことのせいだ。突き詰めれば、私が夢を追い求めた瞬間に、こうなってしまうようになっていたんだと思わずにはいられない。真実は違うのかもしれない。彼が悪いのだ、と思いこむこともできる。実際がそうだったとしても、べつにかまわなかった。私にとっては、いま、彼が私の隣りにはいないという事実だけが残っている。所詮そんなものなのだ。いつだって。
 だから、たぶん私が悪かったんだと、そう思うようにしている。そうじゃなきゃ、いつまでも耐えられないのだ。
 こんなにも弱い自分は、彼がいなくても、何故か、うまくやっている。
 うまくやれてしまっているのだ。それこそ、彼は必要なかったんだ、と回りに思われてしまうくらいに。
 でも、きっと私が掴まえておけば、彼は決して裏切らなかっただろう。それはきっと、どうしようもないくらいに本当で。
 同じくらい悲しいくせに、同じくらいつまらない真実だ。
 結局に俗な言葉でいうのなら、私に魅力が足りなかった、と報道で語ってくれると嬉しい。それならまだ、我慢できる。信じていたと、自分では認められる。思い出のまま、記憶の欠片にしてしまえる。
 でも、無理だった。まわりはみんな彼のことを責め立てたし、私は静かに微笑んで道を立ち止まることもなく進み続けた。振り返っていることはあるけれど、決して彼を追いかけようと思わなかった。
 だから馬鹿だというのだ。
 私はなにもかもを投げ打ってまで彼を繋ぎ止めておけることはできなかった。そんな人間になにをいう資格があるというのか。
 愛と夢は同じものだ。どんなに頑張っても手に入らないことはある。どれほど望んでも手に届かないこともある。そして、手に入れた瞬間に気を抜けば、それはもろく崩れてしまう硝子にも似た綺麗。壊れやすくて貴重で遠い。現れては消えるまぼろし。夢に見ることもある。泣いて、泣いて、それでも私は求めることを許されない。振られた女は、身を引かないといけないものだ。いつまでもしがみついていられはしない。馬鹿馬鹿しさにベンチで眠りたくなった。酒も入っていないような自分がこんな行動を取るだなんて、誰が予想できるだろう。
 こんなところで寝てしまえば、風邪を引くだろうし仕事にも差し支える。自分は、自分だけのものではないのだ。明日は仕事は入っていなかった。ならいいや。もう、眠りたい。疲れてしまったのだから。泥のように、目覚めを知らぬ冬のように、目を閉じた。明日、日の光で起きてしまったのなら、きっと私は泣くだろう。子供よりも激しく、恋に破れた女よりも汚らしく、哀れを誘うような涙ではない、ただの滴で。
 まぶたの裏に映る彼。会いたくなったなら、また眠ればいいだけなのだから。

 あの寂しげな月灯りですら、閉じた目に残る水滴に輝いているらしい。ひどくちっぽけで、あまりにつまらない感傷だろう。こんなこと。でも。
 ……それでも。
 うたかたの夢でもいい。幸せだったあのころを、思い出していたかったんだ――

戻る
inserted by FC2 system