何度と無く慌ただしい足音とすれ違って、俯いていた顔を上げる。とうに始まっている講義へ急ぐのはもっぱら朝寝坊した遅刻者だ。彼らの焦った顔を尻目に、俺は逆方向へと歩いていた。
 寒っ。それが外に一歩踏み出した瞬間、抱いた感想だった。
 頭上を仰ぐ。スカイブルーの空が薄く広がっている。薄雲が素早く流されてゆくのが見えていた。冬の日差しは空気が透き通っているぶん、真っ直ぐに降り注いでいる感じがする。しかしあんまり暖かいとは思えない。風が冷たいのだ。北風がびゅうびゅう吹いてくるせいで、厚着していても身体中に染み渡る。
 うぅ。まいったな。
 出る予定だった三限の講義が休講になったのだ。先ほど掲示板に張り出されたところだった。なにしろ教授の体調不良が原因だ。先に知る手段なんかあるわけもなし。しかも、もうすぐ昼である。一限に出て、今の時間の二限は元々無くて、三限に出るのが今日のスケジュールだったわけだが、この三限は昼休みを挟んだ後になる。由綺はしばらく地方のコンサートでこっちにいないし、美咲さんとは会って話したけど、今日は一限が終わったらさっさと帰ってしまったのだ。彰はエコーズで丸一日バイトだ。手伝ってもいいのだが、あの店でこんな日に人手が大量に必要とも思えない。
 つまり、午後がまるっと暇になってしまったのだった。どこかで昼飯を食べてさっさと帰ろう。学外に出ようとぼんやり歩きながら、そう考えていたら――、
 偶然、視線の先に、はるかがいた。
 いつものようなマイペースさで、どこへゆくふうでもなく、ぶらりと歩いて遠ざかっていく。
 その後ろ姿を見ていたら、俺の脳裏に、こう、なんかひどく間違った閃きが天恵のように舞い降りてきたのだった。

 そうだ。どうせだから、はるかに見つからないよう、追いかけつつ、そおっと見守ってみよう。

 良い暇つぶしになりそうだ。俺の知らないはるかの日常があるに違いない。きっと珍しいものが見られるだろう。たとえ何も無くたってかまわないのだ。きっと、はるかに見つからないよう追いかけるだけでもなんだか楽しいに違いない。
 さあて、行くか。
 俺は追う。
 ゆっくりと、足早に、まるで幼い頃した遊びの気分で。
 なるべくなら最後まで見つかりませんように、なんて難易度の高そうな願いを口ずさみながら。



 ☆☆☆☆☆



 学内には幾つか棟があるのだが、中央にある棟を抜けた向こう側には、ある種中庭みたいになっている場所がある。といっても大学の校舎の狭間に設置されているスペースだ。芝やら木々が植えられており、若干人工的な自然の配置された、所謂くつろぎ空間とでも言うべき広場だ。
 何故こんな説明を要するかと言えば、単純な話で、はるかがそこのベンチに座ってぼーっとしているためである。
 ぼーっとしている。
 ぼおっと、でもなければ、ぼっと、でもない。
 ぼーっとしている。
 眠たそうな顔で、ちょうど日だまりになっているあたりを選びすとんと腰を下ろす。本格的に座り込んだかと思うと、空を見上げたまま雲の動きを眺め続けているのだ。
 さて、俺はこれからどうしたものか。
 見つからないよう、離れた位置から見守ることにした。地べたに座る気にはなれなかった。この寒い時期に地面に腰を下ろしたら冷たいことは分かり切っている。
 ベンチベンチ……と、あった。だいぶ離れてしまったが、はるかの姿は充分見える距離だ。善哉善哉。
 おや。
 よそ見したタイミングで事態に動きがあったらしい。注目していると、はるかが首をかしげた。かと思うとかなりの遠方に視線を向けた。しばらくすると、その先からやってくる人影が……って、バイクで乗り入れてきたの、どー見ても寿司屋の出前持ちだよな、あれ。白髪の板前っぽい爺さんだし。いぶし銀の風格がある。包丁握って何十年とかの貫禄が滲み出ている。
 しかもはるか、普通に受け取ってる……。
 ああ、寿司屋の爺さんは男らしいにやりという笑いを残し、颯爽と去っていった。はるかはそのままベンチに座って食べ出してる。寿司食うのかよっ。しかもそこでなのかよっ!
 ツッコミを大声で口に出してしまいそうになるのをなんとか堪えた。
 にしても、寒くないんだろーか。この寒空の下で。オープンテラスでもなんでもなく、大学の中庭のベンチってシチュエーションで寿司は限りなくおかしい。そこでメシ食う連中は珍しくないけどなあ……ほら、脇を通り過ぎていった人が物珍しそうに見てるぞ。
 あーあ、飲み物どうす――ザックから取り出したるは、魔法瓶か。やっぱり中身はお茶なんだろうなぁ。湯気が立っている。おお、飲んでる飲んでる。コップを干して、はぁぁあ、と吐いた息がうっすらと白くなる。
 はるか、ご満悦。
 ふぅーっと大きく息をついて、伸び一回。
 すっかり空になった盆をベンチの端っこに置いて、屈伸なんかして。そこにどっからか食べ物の匂いにでも釣られたらしき黒猫がやってくる。はるかは気付いたらしいが、何をするでもなく視線を彷徨わせた。
 でも手だけ下に投げ出しているから、猫は鼻をひくつかせて、指をぺろぺろと舐めだした。くすぐったそうにはるかが笑う。たわむれ方が手慣れているというかなんというか。
 和むなあ。
 俺も身動きしていないおかげか、ぽかぽかしてきた。時折、大きな雲の影が頭上を過ぎっていって暗くなったり明るくなったりする。風の冷たいことには変わりないが、あんまり気にならなくなってきた。まあ、昼だからってこともある。
 ところではるかは、黒猫のしなやかに動きそうな身体に触れると、容易く捕まえていた。脇に手を入れて持ち上げる。何をしているのか遠目にはよく分からなかったが、なんとなくで理解した。オスかメスか確認しているようだ。……ってオイ。
 真顔でじろじろその部分を見ていたかと思うと、あっさり下に降ろした。何やら納得したらしい。猫の方は尻尾を立てた。毛を逆立てているみたいだった。
 怒っているのだろう。そりゃあんなことやられたら俺でも怒る。いや、猫の常識には疎いので、それが憤りの原因と決まったわけじゃないのだが。
 はるかは、ついと猫の黒くてつややかな毛並みを指先で整えるようにし、そこから首筋に手を這わせた。さわさわ。撫でている。いきなり喉をならして黒猫はこそばったそうに身をよじりだした。目が細い。笑っているというか、気持ちよさげにしているのがここからでも分かった。
 へえ。
 懐いているなあ。そーいや犬飼ってるんだっけか。名前は彰。彰(人間)も犬の名前に自分の名前が使われるとか思ってなかったろうがな。ご愁傷様だ。
 おや、猫を何か名前で呼んでいるみたいだ。
 なになに?
 聞こえないが、口の動きを読み取れそうだ。最初は……口を尖らせているから『お』か『う』だな。次も同じだ。三文字か。最後は『あ』。読みやすさから言っても、たぶん、母音が『お』『う』『あ』の順番になりそうだ。
 んんー? なんかこの並びは記憶にあるような。なんでだろうな。
 ……いや、分からなかった。そういうことにしておこう。嫌な予感したし。何しろはるかのネーミングセンスのことだ。可能ならば気にしないに越したことはない。とにかく忘れよう。
 忘れた。
 せめてこのまま知らなかったことにすれば、とてもとても悲しくなるのは避けられると思うわけで……
 ともあれ、あの黒猫がオスだろうってことは判明したわけであった。
 あー、切ない。
 いや切なくない。切なくなんかないぞ。俺は知らない。何も知らないからな。
 それよりも、だ。俺までぼけっとしていたら結構な時間が経っていた。知らないうちに二限も終わっていたようで、建物の口から人がぞろぞろ吐き出されてくるのが視界に入る。昼飯時だからか、絶え間ない人波が大量に学食の方へと流れていく。流れに取り残された数人がこっちの方に来る。ベンチで弁当でも広げるつもりなんだろう。
 はるかに視線を戻す。さっきの寿司屋の爺さんがまた来た。マフラーを吹かせて、ドドドドと重低音の唸りを上げている。手には風呂敷包みがあって、寿司の盆がベンチから消えている。ということは、回収に来たってことらしい。
 そもそも学内にいて学生が出前するのはかまわのか? という疑問は残るわけなんだが。
 まあ、はるかがその店の常連か何かで、しかも先に了解も貰ってるんだろう。たぶん。
 気付けば黒猫はいつの間にか姿を消していた。出前持ちはバイクに跨って、凄い勢いで走り去る。俺は自然とバイクの遠ざかる後ろ姿を見送っていた。
 はるかも忽然といなくなっていた。影も形も残さないで。
 ――いや、そうじゃない。はるかは大きな謎だけを残して、鮮やかに消えたのだ。
 俺はただ呆然として立ちつくす。はるかのいなくなった中庭のベンチを見つめ続けるしかできなかった。上空から降りてきたあの北風にさらわれ、ぬくもりは最早失われてしまったけれど。目蓋を閉じれば、寿司酢と醤油の香りだけが、はるかのいた名残としてかすかに漂っているのを感じられた。
 ああ、この隙間に吹く風はなんでこんなにも冷たいのだろうか。
 教えてくれよ、はるか。
 なあ……はるか。
 お前は、どこに行ってしまったんだ……?






 って……違う! そうじゃないだろ俺。そもそもの目的は、はるかの行動を遠くから見て暇つぶしをしよう、なんだからいきなり見失っちゃダメじゃないか。しかもなんでこう叙情的な描写をしてるんだ。
 なんか悔しい。
 とりあえず探さないと。こんな中途半端な時間じゃ帰る気もしないし。



 ☆☆☆☆☆



 で。思ったよりも簡単に見つかった。
 見つかったんだが。
 えーと……あいつは何をやってるんだ?
 棟内に入ると、学生用の掲示板がある。お知らせなんかを貼り付ける板とは別に、伝言なんかも残せるブラックボードも備え付けられている。相合い傘が描かれている。落書きだ。
 はるかの字だった。片方には彰の名が、もう一方にはサッチャー、と。
 なんで鉄の女やねん。
 まあ、放っておこう。なに、心配はいらない。おそらく美咲さんはこれ見ても興味持たないだろうから。
 ……そんなことより、なぜに一番高いところまで行かなきゃいけないのかさっぱりだ。学長室やら研究室やらを素通りして階段を上っていくと、はるかは果たしてそこにいた。朝日を待っているわけでもないのに、目を細めて窓から外を見下ろしている。
 俺はと言えば、ずっと後方の物陰から隠れてこそこそはるかの様子を窺っている。
 文字通り読まれるとストーカーにしか思えないので、なるべくなら見守っているという表現で考えてもらえれば幸いだ。
 事実、現状の俺の姿は言い訳の仕様がないくらい怪しいが。
 はるかは身じろぎもせず、ガラス窓から目を逸らさないでいる。広大な空を見つめているのか、それとも寒々とした地上に何かあるのか。真っ青で透明な空しか見えない。
 はめ込みの、ピカピカに指紋一つ無く磨かれたガラスがはるかの顔を映している。どこに視線が定まっているかまでは、ここでは位置が悪くてとんと分からない。かるく身を乗り出す。はるかが振り返らないでいてくれるおかげで見つかる危険は無さそうだ。安心安心。
 うーん、しかし陽光が反射してきて目が痛い。眩しい。
 影のような後ろ姿だけが微動だにしない。勝手にアテレコしてみるとなると、見ろ! 人がゴミのようだ!!って感じだろうか。
 はるかはそこそこ長い時間を窓に張り付いていた。窓ガラスに映り込んだ顔は物憂げ……ではなく、意外に楽しそうだ。
 そのうちに窓から離れた。ここに来た目的を達成したようだ。満足げに階段を降りてゆく。俺は見つからないよう用心を重ねて、距離を取った。階段を叩く足音が強く反響する。すわバレたか?と焦りつつも下るが、待ち構えているかと思われたはるかの姿は、どこにも見えない。
 そもそも俺の足音くらいしか響いていなかったような気がする。
 はるかは外に出て、さっさと行ってしまったようだ。不意に、ずっと昔は缶蹴りなんかも一緒にした記憶が蘇ってくる。あいつ、足音立てないで歩くの得意だったもんなあ。発見したかと思うととっくにいなくて、はるか見つけた!って叫ぶ暇もなく、あっという間に缶を蹴られていた覚えがある。
 何度も負けて、そりゃ確かに悔しかったけど、でもそれ以上に楽しかった。俺まで嬉しくなるくらい、はるかは笑っていたんだ。ほんとうに楽しげで、幸せそうに。
 …………。
 そうか。そのころは、河島先輩もいた。
 はるかも、こうじゃなかった。
 今やっていることが、あのころのようなガキくさいお遊びの感覚に似ているせいかもしれない。古い日々のことを思い出していた。懐かしいような、寂しいような、そんな気分にとらわれる。
 そう言えば昔からだ。追いかけっこみたいな遊びで、俺は本気で逃げるはるかを捕まえられたことは一度も無かった。あいつはあれでものすごく足が速いのだ。テニスで鍛えられてたってのもあるし、あの河島先輩の妹だったからというのも理由の一つだろう。
 あのころ、ただ楽しくて、すべてが俺たちに優しくて、何もかもが上手くいっていて、こわいものなんか無かった。そう……時間の流れに気付かないままでいられた青い時代があった。
 今でも記憶のなかで眩しく輝いているに違いない……。俺だけじゃなく、はるかにとっても。
 けど、これ以上考えることは詮無きことだと自分に言い聞かせる。
 外に出ようと思ったが、風が入ってこないようドアはきっちり締め切られていた。重いガラス製の扉を押し開けると、びゅう、と真正面から吹き付けてくる。
 あたりを見回してみる。三限の講義が終わってないせいで人影はまばらだ。ぱらぱらとは見て取れるが、その中にはるかの姿は存在しない。入り口の周囲には数人で固まってたむろしている学生もいる。遠くから歩いてくる女性達なんかも、二人連れ、三人連れがほとんどだ。確かに学内で友人と連れ添うのは別に珍しいことじゃない。
 その割にこういった光景が気に掛かるのはなんでだろう。しばらくその場で突っ立って観察していて気が付いた。あまり考えたこともなかったが、はるかが俺たち……由綺だとか、美咲さんだとか、そういう仲間内の人間以外の友人と親しげに喋っている現場を見たことが無いからだ。
 はるか、お前、友達いるのか? そんなことを思ってしまう。
 実際、大学で一人きりで行動する人間なんて、割合にすればかなり多い。サークルに入っていなければ、学業に真面目に取り組んでいるわけでもない俺にしたところで、親しい、という言葉を取り除けば、適当に人間関係は築いていると思う。面倒だからとはるかは自分からはそういうことをしないだろう。……つまり、ちょっと気になっただけだ。俺が心配する筋合いのことじゃないかもしれない。
 ああ、なんだか腹が減ってきた。
 ぐぅーっ、と情けない音が鳴る。俺は少し赤面する。誰も見ていなかっただろうか。きょろきょろと周囲に目をやる。一応、人影は見つからない。
 まだ何も食べてないことを忘れていたせいだ。昼食をとるタイミングを逃してしまった感がある。はるかが寿司食っているあいだも観察してたんだから当然か。うちの学食はあんまり美味く無いんだよなあ。それだったら、もう少し我慢して帰り際にエコーズにでも寄るか。

 にしても、当のはるかはいったいどこに行ったんだ?



 ☆☆☆☆☆



 捜索中に三限が終わってしまった。急に人口が増加した感じを受ける。ここで今日の講義はもう無い連中がこぞって正門の方へと流れてゆく。俺はそれに流される。押し流されてどこまでも連れて行かれそうだった。
 この中にはるかがいるのなら、もし今大声を挙げれば返事をしてくれるだろう。しかしそれでは折角見つからないように見守ってきたこれまでの苦労が水の泡だ。もはや暇つぶしとかそんなことは問題でないのだ。俺は、なんだか、もっと恐ろしくくだらないもののためにはるかを探しているのだ!
 メロスかよ。いや、よくよく考えれば今日の講義の内容は昭和の文学史だったから太宰が頭に残っているのはおかしくはない。と、待てよ。
 ……そう言えば、はるかはなんで家に帰らないんだ?
 あいつ、今日は俺と同じ講義受けていたはずだ。当然そのあとの予定だって同じようにすっかり暇になってるに違いない。講義があっても簡単にさぼる人間がこんな時間まで大学に残っている理由なんか無いだろうに。イベント? この時期は何もないはずだな……。
 思考はそこで中断された。
 はるかを見つけたからだ。
 遠くの建物に入っていくところだった。あまり学生の姿は見えない。教室の割り振りの関係上だろうか、入っていく人影も無いようだ。はるかは普通の歩調でドアを抜けていった。
 慌てて背中を追いかけた。急がないと置いて行かれるのだ。はるかの足取りはゆっくりとしているのに、何故か距離が縮まらない。
 階段をリズム良く昇っていく。とんとんとん、危なげない動きで、あっという間に四階まで来てしまった。学生の姿は完全に消えてしまっている。この棟の四階は、以降の時間には講義が無いのかもしれない。
 はるかは小さな教室に入っていった。受講登録していない講義のやっている場所に入り込んで、しかも寝るという荒技を容易くこなすはるかだ。わざわざこんな人気のない場所まで空き教室を探しに来たわけじゃあるまい。その割に誰かの歓談する声が聞こえてくる。講義じゃないのは確かだ。けたたましい笑い声なんかも混じっている。言わずもがな、はるかの侵入した教室である。
 そおっと後をついていく。
 はるかの背中越しに覗き込んだ。そこにいたのは廊下を歩いている最中よく見かける、いわゆる掃除のおばちゃん達だった。いまは休憩中らしい。中心に置いた机を囲むようにして話をしているのだ。はるかはその輪に自然に混ざっている。俺は近寄れないで、遠巻きに窺うことしかかなわない。なんとなく分かったのは、はるかにも学校内にちゃんと友達はいるってことだけだ。
 妙に年齢層高いけど。平均年齢45は過ぎてるだろ、あの集団。
 おっさんもいる。……はて、あの顔はどっかで見たような……ってうちの大学の学長だ。どういう繋がりなんだおい。
 なんていうか、この空間の空気、渋いな……しかも、全然違和感無いのがすごいぞ、はるか。
 開いているドアの隙間からだったこともあり、遠目に判別できたのはポットやら魔法瓶やらを持ち込んでいること、お茶請けなんかを広げて、それを食べながら楽しそうに喋っている様子くらいだ。賑やかな談笑のなかで、はるかは目を細めている。あいつのことだ、快いと感じなければ来ないだろう。話してくれたことはなかったけど、はるかにとってここは良い場所なんだろう。
 珍しいものを見るという当初の目的は充分以上に達成した気がする。
 なるほどなるほど。あのはるかもちゃんと大学生やってたんだ。良いものを見た。本心からそう思う。
 そのとき、ふと、安堵している自分に気が付いた。きっと大丈夫なんだろうと。俺なんかいなくても、大丈夫なんだなって、そんな想いが胸の奥にふっとわき上がる。
 河島先輩が亡くなってから――とらえどころのなくなった、はるかのこと。
 ずっと放っておけない気がしていて、なのに俺は現実には何もしなかった。側にいてやるだけだった。たぶん、大事なことなんか何も出来ないって思っていて、だから心の中で勝手に保護者じみた心配をしていた。河島先輩の死は、はるかだけの問題だってことは分かっていたから、幼なじみらしく普通に振る舞って、当たり前に過ごしてきたけど……。
 時間は流れている。止まることなく。ライナスの毛布を手放すことを惜しんでいたのは、俺だったのかもしれない。最後の逃げ場所にしがみついて、むやみに甘えていたんじゃないだろうか。
 寂しい気もする。
 隣にはずっとはるかがいると思っていて、それは決して変わらないと思っていたのに、俺がぐずぐずしているうちに置いて行かれた。そんな気分になっている。
 俺はここで足踏みをしている。どこに向かって歩いて行けばいいのかなんて分からぬままで、次の行き先を決めかねている。居場所を失ったような感覚があった。
 早くどこかに行かなければという焦燥にせき立てられて、確かな暖かさのある教室に背を向けた。
 拗ねているみたいな行動に気が付く。大学生にもなって、こんな幼い感情に振り回されている自分が、なんだかおかしかった。おかしくて、どこか切なかった。


 気が急いているのを自覚しながら、近くにあった別の教室に飛び込むようにして、ドアを開く。
 当然のように誰もいない。入り口の近く、後方にあたる席に腰を下ろす。椅子を動かす音がやけに大きく響いて耳障りだ。時計は見当たらない。心ない誰かが残したような空き缶やゴミも取り除かれている。そのくせ壁はうっすらと褪せていて、それが逆に、たしかな歳月を重ねてきた日々を誇っているように思わされた。
 机の表面は木製だ。落書きや刻み込まれた傷はそのままにされている。消そうとした努力の跡も窺えるし、わざとその上からマジックで塗り潰した部分もあった。
 外を眺めようと脇に目を向けると、ガラス窓には燃えている空が、赤々と映り込んでいる。遠くに覗く校舎はオレンジ色に染め上げられていた。
 沈みゆく太陽が鮮やかに輝いている。
 いくつもの真っ白な雲が、何のこだわりも無い素振りで流れている。彼方には豊かな色合いの夕空が横たわる。様々な顔を見せている昼と夜との狭間にある空。橙と青を隔てる境目はどこにも見当たらない。静かな空は自ら溶けて混じ合い、ひとつの絵を描き出しているかのようだ。
 教室内はひどく静かだ。俺は一人きりで落ち着いた空気のなかにいた。こんなにも穏やかな場所だと、ひとりここにいることが何かの間違いに思えてしまう。
 孤独はひとを弱くする。普段は騒がしさの絶えることのない場所だからかもしれず、この静寂がぽっかりと抜け落ちた何かを表しているようにも感じられた。
 羽音に似たかすかな震動音が、絶え間なく頭上から降りてくる。エアコンが温風を吐き出しているのだ。まったくの無音じゃないことに安心して、俺は深く息を吐き、入り込んだ広い教室を端から端までぐるりと見回した。
 黒板は白いチョークのあとが残っており、文字はかすれ、端が引き延ばされている。誰かが消すのを手抜きしたのだろう。
 無言で今を眺めている。時間がゆるやかに過ぎてゆくのを知る。俺は、そこに手が届かなくなるのを理解しながら呆然と見送る。時の流れは止められない。追いかけることもできない。感情はひとときの揺れる影であり、追憶はそれを照らそうとする灯りだった。
 夕陽で彩られた、黄昏の世界に佇む。
 周囲には透明な橙が被さっている。真横にある窓から皓々とした光が差し込んでくる。光を遮る俺の、小さくもない影が、机に、床に、段を作りながら長々と伸びている。
 俺はただ眺めている。
 この気持ちをなんと呼べばいいのだろう。
 考えていることは取り留めもなくて、意味もなくて、どうかすると泣いてしまいそうになる。目を閉じ、静寂の中に何かを聞き取ろうとする。
 いつか、これと同じ空気を感じたことがある。
 遠くから聞こえてくるざわめき、いくつもの足音、子供のような無垢な笑い声。鮮やかな夕空だとか、ひどく真っ直ぐに照らしてくる光だとか、その瞬間瞬間にだけ存在するものたち。
 大学の空き教室で、俺は、立ち上がりもせず、ぼんやりと黒板を見つめながら、記憶にあるいくつかの情景を懐かしんでいる。
 外は強い風が吹いている。時折、窓をびりびりと震わせてうるさかった。外は想像するだに寒そうだ。こんな気温だっていうのに、自分はさっきまで当てもなくはるかを探して階下でうろついていたんだ。不思議だった。俺はなんでさっさと帰らないんだろう。夕陽が没すれば、もっと寒くなることは明白なのに。
 冬の空は気温とは裏腹に、遅くなるにつれて暖かな色を増していく。世界は赤く赤くなってゆく。やがて夜が訪れるまで、燈火を映した空は色の濃淡を変え続ける。
 日は短い。すぐにでも世界は暗闇に包まれるだろう。震えながら帰る自分を想像する。どこからか聞こえてくるガーシュインのラプソディ・イン・ブルー。ここじゃない。遠くからだ。たぶん別の棟から響いている。続くのは練習中の誰かの曲だ。下手くそでやかましい代わりに、どこか好感の持てるトランペットの重厚な音色が、夕焼け雲の輝きを強く揺らめかせる。教室の窓の、ずっと下の方で、幾人もの楽しげな声が木の葉がぶつかりあうみたいにさざめいている。いつの間にか、四限が終わっている時間になっていた。
 いいかげん帰った方が良い時間だ。ここに残っている理由なんて無いんだから。
 何にも言わずに立ち上がる。
 立ち上がろうとする。
 そこに、はるかがやってきた。



 ☆☆☆☆☆



 偶然だろう。さっき覗いた教室を出て帰る途中で、廊下から俺の姿を見つけたに違いない。
 俺は慌てふためくことのないよう、慎重に、なるべく明るく受け答えをする。
「よっ、はるか」
「うん」
「いや、うんじゃなくてさ……、まあいいけど」
 俺が何か意味のあることを言えないうちに、はるかは近寄ってきて隣に座る。これで俺が立ち上がったら逃げているみたいに思われそうな気がして、なんだか嫌だった。上げかけていた腰をそのまま落とし、はるかの言葉を待つ。
 はるかは何も言わない。何も聞かない。
 ぼーっとした、いつもの表情で真横にいる。
 肘が触れる。ごわごわとしたセーターの感触だった。何をするでもなく、なんとなくで、そこに佇んでいるようだった。
 何かを口にすることが躊躇われた。
 この時間を壊すことが出来なかった。
 穏やかな空気に満たされている。ガラス窓で遮られた向こう側の世界で、夕陽がゆるやかに沈んでいくのが覗けた。夜の帳が降りようとしているその中途、俺たちはこんな場所で同じ時間を過ごし、同じものを見ている。
 音は聞こえない。
 窓の向こう、あちら側にある音は何も。
 耳を澄ます。少しあたたかい空気と、ふたり分の呼吸と、誰かの心臓の音が聞こえる。俺かもしれない。はるかかもしれない。どちらでもいいことだった。
 やがて空は薄い闇に没した。段々と黒が色を濃くしていくのが分かる。
 はるかが身体を寄せる。
 横から、頭を肩に乗せるようにして寄りかかってくる。俺は身を固くして、混乱もしていない頭でぼんやりとその体重を感じる。心地よい重さ。
 ぐぅ、と腹が鳴った。もちろん俺のだった。空気を読まない自分の腹具合に苦笑する。
 はるかは身をよじるために離れた。
「……食べる?」
「何かあるのか」
「んー」
 ごそごそと音を立てて深めのポケットから取り出したのはお菓子だった。和菓子だ。さきほど食べていたものだろう。
「じゃ、もらっとく」
「あーん」
「……あのな」
「冬弥を餌付け」
「まあ、いいか。背に腹は代えられない」
 素直に食べさせて貰う。恋人同士みたいな、そういう雰囲気にならないのが不思議なくらい、やり取りは気安かった。俺には由綺がいて、はるかは幼なじみで、俺たちは友達で、だから……
 考えても仕様のないことだ。
「じゃあ、お茶飲む?」
「もらう」
 今度は飲ませて貰うわけにもいかない。
 魔法瓶の蓋の部分を受け取って、注いでくれるのを待つ。
「さんきゅ」
 これはそういうたぐいの時間なんだと急に思った。はるかがそこにいることに、なんとなく感謝した。なんとなく、ってあたりが俺たちらしい。
 飲み終えると、もう何もすることが無いことに気が付いた。
 そもそもこんなところに長居していても無意味だった。はるかにもこれ以上用事らしきものは無さそうだし。俺はいつ終えてもいいこの瞬間、のんびりとした声で告げた。
「じゃ、帰るか?」
「ん」
 知っていることなど顔には出さず、俺は聞いてみる。
「学校に用でもあったのか?」
「用?」
「いや、こんな時間にこんなところで会ったし」
 俺はさらに続けようとした言葉を濁した。偶然会ったという態度を貫き通すためだ。
 よくよく考えてみれば、だ。俺のやってたこと、冷静になると妙にこっ恥ずかしいじゃないか。今日一日見つからないよう、はるかの背中を追いかけてたんだ、なんて……どんな顔をして言えばいいんだか。
「ん? 楽しいね」
「だからなにが」
「んー」
 と、少しのあいだ考える仕草があって、幸せそうに目を細めて、それを口にした。
 俺はそれを聞いて、かなわないなと笑った。
 はるかはこんなふうに言ったのだ。「久しぶりに遊べたから?」と。



戻る
inserted by FC2 system