空にはいつも風があった。
 いつか傷が癒えたとき、鳥が翼を広げ羽ばたけるように。雲に隠れた光が戻れば、ふたたび空を目指せるように。





- 空の在り処 -
- Nothing sad in that glowing world, and darkness at this blue sky. One's best friends are walking under the only air.-




 数日前、みさきと喧嘩した。本気で叫んだのは久しぶりだった。
 理由はそう複雑ではない。何度も繰り返してきた、たったひとつの話。ただそれだけのことだ。
 みさきを外に連れ出す。
 何年ものあいだ、みさきの両親にも、わたしにも、そして他の誰にもできなかった。家と学校、そのふたつだけが彼女の世界。
 みさきは外を怖がっていた。
 学校で視力を失ったけれど、その学校こそがみさきの遊び場だった。知っている場所であれば、記憶を頼りに歩けるとは本人の言だ。事実、みさきは校内で普通に生活できていたのだ。
 つまりは未知であることが恐怖なのだろう。みさきは近場でさえ見知らぬ場所を嫌がり、決して自分から出歩こうとはしなかった。
 翼を痛め、飛ぶことを恐れる鳥。わたしは口論のすえ、いまのみさきをそう喩えた。
 みさきは反論もせず、そうだねとうなずいた。篭の中の鳥は空を見失い、飛び方を忘れてしまったからと。
 実際のところ、連れ出すこと自体はさほど難しいことではない。しかし、みさき自身が前に踏み出そうとしなければなんの意味もなかった。
 このままではいけない。おそらくみさきを心配していた人間の、ほぼ全員がなんとかしたいと考えていたはずだ。そのことは彼女自身も分かっていたのだと、わたしは思う。
 学校を卒業したあと、みさきは家に閉じこもった。
 何かがあった。それは間違いない。以前から外に出ることを怖がったけれど、最近はそれにもまして外界を拒絶するようになっていた。
 外へと出ていくことを提案したが、みさきは嫌がった。他人と触れ合うことにすら恐怖していたようにも見える。
 何故。訊いても、みさきは詳しく教えてはくれなかった。対面して話したときに察したのは、憔悴の色。
 いつか、病院のベッドの上で見たみさきだった。目を守るように巻かれた白い包帯を取り払ったころと同じ。大切なものが手からこぼれ落ちたような、そんな表情。
 最近になって、やっと本当に楽しそうに笑えていた。諦めの消えたみさきを見て、わたしは嬉しかったのだ。
 でも、昔のみさきに少し戻ってしまったように思える。いつもと同じはずの笑顔が、ひどく寂しい。
 心当たりはあった。
 それがどういうことなのかが、わたしには全く分からない。みさきの言葉に何度も出てきた、たったひとりの、知らない誰かの名前。
 折原浩平。わたしに見せるため、ひどく苦労してみさきが紙に綴った文字にはその名が書かれていた。
 浩平君と名前を呼ぶたび、みさきは悲しそうにする。愛しさか親しみか、そういったあたたかい声の色に重なって、いつも寂しい表情になる。
 彼のことを訊けば、みさきは何度でも説明してくれた。
 悪戯好きで子供っぽい、それでも優しい男の子。屋上から見える夕焼けを綺麗だと話した。みさきを好きだといってくれた。目が見えないという事実も苦しみも生きることも、全部引っくるめて受け入れようとした恋人。そしていまは消えてしまったひと。
 彼は一学年下の後輩だという。知り合いに調べてもらったけれど、学校に彼は存在していなかった。担任だった教師に訊いたが、名簿にも載っていなかった。
 みさきが嘘を吐いているなんてことは絶対にない。わたしはそう考えている。ふざけることはあっても、真剣は話を茶化して平気でいられる人間じゃないのだ。
 だから不可解ではあるけれど、浩平君とやらは確かに「いた」のだろう。そしてみさきの前から姿を隠した。
 話を聞けば聞くほどに、みさきを傷つけて平気でいられる人間とは思えなかった。むしろ――
 翼を癒したのは、彼。
 けれど篭の中にいるかぎり、鳥が空を見つけることはない。



 新しい環境に、多少はわたしが慣れるだけの時間が経っていた。
 最近は部長を務めていた時間が懐かしい。あのころはただ楽しさと忙しさのなかで、自分のまわりのことだけで精一杯だったものだ。
 聞いた話では、新入生相手にわたしのことが逸話として語られているそうだ。曰く、『歴代でも類を見ない厳しさだった』『深山部長は鬼だ』『極悪人だよ』『努力する苦労人なの』等々。
 午後、久々に学校へと顔を見せたわたしを後輩たちは快く迎えてくれた。あることないこと聴かされたらしく、一年生はやけに怯えていたが。
 現在の部長と話をしたり、体育館を使った部員の練習を見てみたりした。皆頑張っているようで、稽古が終わるまでに空は暗くなってしまった。
 わたしは明日も来ることになった。
 可愛い後輩に手伝いを頼まれたからには断るわけにもいくまい。ただ、練習内容にまで口を出すつもりはない。手を貸すのは、手続きや書類だけにするつもりだった。
 いままで通り来春にも公演をひかえているから、色々と手配や交渉をするのは部長の仕事である。とはいえ不慣れな人間には荷が重いことを、わたしは経験上よく知っていた。
 大学も試験の時期はまだ遠く、当分のあいだは用事も時間の制約もない。
 色々と考えなければならないこともあったから、良い機会だと思った。休みを家で無為に過ごすよりは、こうして動いているほうがずっと気が楽だ。
 お疲れさまでした、と声が響く。
 部員が帰っても、わたしは最後まで残らせてもらった。学校の慣れ親しんだ空気に、一抹の寂寥を肌に感じながら。
 孤独とは、きっと、こういった闇のなかに一人取り残されることをいうのだ。真っ暗な場所で、わたしは理由もなく泣きそうになった。
 寂しさに不安になる。みさきもこんな感情を、いつも抱きながら生きているのだろうか。そんなことすら思ってしまう。
 わたしはぼんやりと立ち尽くしていた。

 たとえば――こんな広々とした体育館にひとりっきり、端から端まで目を瞑って歩いたことがあるだろうか。
 まぶたを閉じたまま。自分の足音だけが冷たく反響するそこを。
 目を開きたくなる。足を止めたくなる。その孤独から、いっそ逃げだしてしまいたくなる。
 数歩、数メートルは大丈夫かもしれない。それでも、歩みを真っ直ぐに続けていると、不安は大きくなる。
 べつに体育館じゃなくてもかまわない。どこかの道路。よく行く商店街。駅。廊下。教室のなか。どこでもいいから目を閉じて歩けるかどうか。試してみれば分かる。
 踏み出した足の先には、本当に確かな地面があるのだろうか。
 一歩ごとに、距離を進むたびに、だんだんと怖くなっていく。そこに壁があるように思える。段差があるかもしれない。怖さは増す。次第に、足を踏み出すことにためらいを覚えるようになる。
 恐れながら地に足を着けていくたびに、どこまで進んだかが分からなくなる。
 そうして自分の足下は消えていく。
 どれくらい歩いただろうか。
 前も後ろも、右も左も、ただただ闇が広がっているだけ。たとえそこに踏み出せたとしても、傷つかない世界があるかどうかなんて分からない。
 自分のいる場所が体育館なら多少は安心できる。端まで行けば壁があるし、そこには確かに床が存在しているのだから。
 でも、学校だけが日常なわけじゃない。
 外へと踏み出せば、迫ってくるような暗闇のなか。どこまでも落ちてしまいそうな深い黒が広がっているばかりで、それでも歩き続けなければならないなんて。
 どれほどの恐怖なのか。
 たぶん想像することはできる。でも、本当に暗闇を歩く人間の感覚には遠く届かないとも思う。
 何も見えない。
 踏み入れたことあるの場所ならば大丈夫かもしれない。わたしにだって、少しくらいの距離は歩けるだろう。
 けれど、そこから一歩でも出てしまえば――もう歩けない。
 怖いという意識はなかった。
 なのに、どうしても足が踏み出せない。
 いま、わたしは馬鹿みたいに立ち竦んでいる。障害物すらない、たかが数十メートルの壁から壁まで。小さな危険さえない、たったそれだけの距離の途中で。
 部員たちが帰ったあとの体育館は、しん、と静まりかえっている。心臓の音まで聞こえてきそうな沈黙があるだけだった。
 はぁ、と失望ゆえのため息を吐き出す。自分に向けて。
 わたしは目を開け、後ろを振り返った。夜目は人並みに利くつもりだ。窓からはかすかに光が差し込んでいて、磨かれて光沢のある床と壁が見える。体育館の大きさからすれば、まだ半分も来ていなかった。
 直進しているつもりだったのに、放物線を描くように逸れている。これでは歩道を歩くことさえ無理だ。
 なんて無様なんだろうと、自分自身に呆れた。
 もう、一歩を踏み出す勇気すらなかった。
 まぶたを開けば、目の前には見知った世界がある。飽きるほどに見慣れた、いつも通りの日々がある。けれど光を失ったみさきは、いつだってこんな暗闇を歩いているんだ。
 意味のない行動。身勝手な感傷だ。けれど考えずにいられない。
 それが傲慢な考えであることも理解しているつもりだ。わたしにできることはそう多くないなんて、判ってる。でも、みさきが自分から踏みとどまっているのか。それとも立ち止まるしかないのかが知りたかった。
 ひどくむなしかった。
 校舎の方でも、人の気配はすでに失せていた。生徒は残っていないだろう。わたしも帰ることにした。
 沈んだ色で塗られた鉄扉を押し開けて、室内独特の暗さから抜け出す。見回すと、ひとの姿はどこにもない。校舎へと続く通路には、壊れかけた箒が立てかけられている。
 なんとはなしに夜空を見上げた。星が雲間から小さく輝いていた。空気は透き通っているのだろうが、すぐに不格好な雲に隠されてしまった。
 かすかに涼しい。まだ夏と呼ぶには早い季節だ。
 通路口と繋がった入り口に向かう。校内は非常灯が点いているだけで、体育館と似たようなものだった。廊下の先は全く見えない。真っ暗だ。
 靴箱のある玄関口までの道のりをゆっくりと歩く。べつに急ぐほどの理由もない。体育館の静寂とは違い、さほど響かない自分の足音に安堵を覚えた。
 本当に誰もいない。他の部活の人間も早々に帰ってしまったようだ。
 距離があるわけでもなく、すぐさま靴箱に辿り着いた。かなり暗いが、全く見えないというほどでもない。
 来客用のスリッパから、自分の靴に履き替える。母校に来客としてくるというのも、なんだか妙な気分だった。思い出もそれなりに深いものがある。とはいえ、みさきと部活の記憶がほとんどだった。
 宿直の教師はいただろうか。鍵の開いている玄関を振り返り、ちょっとだけ不安を覚えた。泥棒に入られる可能性は否定できない。
 鍵は元々開いていたから、たぶん大丈夫。そう自分を納得させて歩き出した。
 校門までの道はそれほど長くないけれど、空に浮かんだ月や星以外の光源がない。そのため、極度の恐がりはこの距離でも一人で帰れないそうだ。演劇部のとある後輩を思い出す。さっきの練習中は姿が見えなかったけど。
 ゆるやかに流れていく雲に、空の半分が覆われている。普段より道はなお暗かった。
「……」
 校門の周囲に、何かが見えた。暗くてはっきりとしないうえに、黙り込んでいるせいで小さな人影だとしか分からない。
 こんな時間に学校になにか用でもあるのだろうか。気になった。どこか見覚えのある姿に思えたのだ。
 わたしは地面の小石を踏みつけたらしく、じゃっと鈍い音が響いた。
 びく、と彼女は震えた。あたりを見回して音の出所を探している。怯えていた。
 彼女――そう、その人物はスカートを履いていた。小柄なことからも考えて、おそらく女性。校門の影で顔は隠れているが、服装は学校の制服だった。
 まさか女装趣味の変態というわけでもあるまい。それなら大声で助けを呼ぶだけだ。
「……」
 相手は黙ったまま。わたしはどうしようかと、数秒だけ思案する。
 幸い、極度の恐がりには心当たりがあった。間違っていたら恥ずかしいけれど、このまま近づいた場合、下手をすると泣き出すかもしれない。
 仕方ないか。
「ええと、上月さん?」
「……っ」
 驚かせてしまわないように、でも聞こえる程度には大きな声で。元演劇部たるもの、声量の調節はお手の物だった。
 弾かれるようにこちらに向けて駆けてくる上月さん。前も見ず、わたしの声が聞こえた方向を狙っていた。慌てているようだ。
 転んだ。
 すごい勢いだった。
 えぐえぐ。そんな形容しか思い浮かばない泣き顔だったが、なんとか涙を流すのは耐えていた。立ち上がって突撃を再開した。
 また転んだ。
 とても痛そうだった。
「大丈夫?」
「……」
 上月さんは、うんうんとうなずいた。校門周辺はきちんと掃除されているのか、さっき踏んだような小石は見当たらない。なんで転んだんだろう。
 わたしの目の前まで辿り着くと、にっこりと笑った。安心したらしい。
『…………』
 いつも持っているスケッチブックに、文字を書いていた。暗くてほとんど読めない。わたしは彼女を促して、校舎から離れることにした。
「そういえば上月さん、学校に用があったんじゃないの?」
「……」
 ふるふる。首を横に振った。
 彼女は、知らぬ間にわたしの服をにぎりしめていた。伸びないでくれるとありがたいのだが、たぶんもう遅い。仕方ないと早々にあきらめて、話を続けることにした。
 どうやら学校から離れるのに異存は無いらしい。歩きながら校門を通る。横にスライドさせて使う重い鉄柵の、ひと一人通れるだけの隙間を抜けた。
 足に違和感を受け、下を見る。上月さんが引っかかった理由が分かった。校門の鉄柵を動かすための溝がある。
 注意して見るか、あると知っていなければ転びかねない。在学中は気にしたこともなかったけれど、そのことをわたしはすっかり忘れていた。
 まあ、転んだところで大したことでもない。せいぜいつんのめるくらいで済む。階段の途中というわけでもないし、普段は問題ないだろう。わたしなら気にとめる必要もない程度のものだ。
 みさきなら、ちょっと危ないかもしれない。いや、とわたしはかぶりを振った。みさきならどうするのだろう。それが、さっきから頭から離れない。
 と、目の前に転んだ人間がいたのを思い出した。
「……痛くない? すりむいてるなら言ってね」
 わたしはなんとなく彼女の頭を撫でていた。いや、丁度いい場所にあったものだから、つい。
 上月さんは、わたしの言葉にふるふると頭を横に振った。しかし嫌がる様子もなく、むしろ安堵しているような表情だった。
 とりあえず、彼女の恐慌状態だけは治ってくれた。良かった。
「……」
 上月さんが、わたしの顔を見上げていた。
 校門を抜けると、校舎の影になっている部分は減っていた。ここまでくれば大丈夫だろう。彼女にスケッチブックを見せてもらう。
 立ち止まって、先ほど書き込んでいた内容を読む。
『用があったの』
「……学校に?」
 わたしが訊く。ふるふると、上月さんは首を振って否定した。
「じゃあ、わたしかしら」
 うんっ。正解だったらしく喜んだ。でも、彼女の答えはわたしにとっては意外だった。
 それから、彼女はあわてて書き加えた。
『こんばんは』
「ええ、こんばんは」
 上月さんの用事とやらが考えつかない。彼女は部長でも副部長でもないから公演の手続きや交渉とは無関係だ。次の演劇の内容は前回やったものと同じだから質問もないだろう。
 部活関連じゃないとなると、余計に分からない。
 わたしの困惑を見て取ったのか、上月さんはスケッチブックをめくると、次のページにまた書き付けた。
 きゅっ、と書き終えたペンの音がした。見ると、紙の上には無駄に大きく広がった字があった。
『最近、あってないの』
 誰に、と訊きかけてから、はたと気づいた。その名前を口にしてみる。
「もしかして……みさき?」
 うん。上月さんは、寂しそうにうなずいた。

 スケッチブックを数枚使って、彼女の表情を読んで、ボディランゲージも含めた思いつく限りの手段をすべて使った意志の疎通をひとつにまとめると、こうだ。
 上月さんは、最近みさきに会っていないから会いたい。けれど連絡先を知らないからどうすればいいのか分からない。わたしなら知っているだろうと考えたが、会う機会がなかった。今日は部活の買いだしで街へ出ていたが、わたしが来ていると帰宅途中の同級生に教えてもらったから、慌てて帰ってきた。でも待っているうちに暗くなり怖くなってしまって身動きが取れなかった。
(この時点で、彼女は不安を思い出したのか、えぐえぐと涙ぐんだ)
 視界が揺れてたせいで、わたしの姿がぼんやりと見えてお化けかと思ったそうだ。失礼な。それで最後に声が聞こえたので来た見た走った。転んだので勝ってはいないが。あと見ての通りなので略。以上。
 そういえば、みさきと上月さんはなぜか仲が良かった。
 みさきを部活の準備に付き合わせてたとき。いつのまにかふたりが顔見知りだったことに、わたしは内心驚いた記憶がある。
 目の見えないみさきと、声の出せない上月さん。どうやって知り合えたのかは未だに謎だ。
 話をするにも手間がかかる。上月さんの主な意思伝達の手段は、みさきにとっては意味を為さないからだ。自然と視覚以外に頼った方法ということになる。
 たとえば、その場にふたりの共通の知り合いがいれば、スケッチブック上の言葉を声に翻訳してもらうことができる。でも、ふたりっきりの場合は大変だ。
 みさきの手のひらに、直接上月さんが指で文字を書く方法。読みとることだけでも難しいが、これで会話を成立させていたのは素直に凄いとしかいいようがない。
 どちらにしても、苦労や時間がかかるのは間違いなかった。
 まあ、それはそれとして。
「……えーと」
 どうしたものか。
「……」
 言葉に詰まったわたしを、上月さんはにこにこと見つめた。
 まだ結論は出ていなかったが、いつまでも先延ばしにできる問題でもない。覚悟を決めた。
「みさきの家に一緒に行きたい?」
 わたしは端的に訊いた。
『お願いしますなの』
 即答、というにはいささか時間がかかったが、上月さんは迷わずに答えを返した。紙上の文字には、いまの彼女の表情と同じものが表れていた。
 奇妙な丁寧語であることは、この際気にしないことにした。
 じゃあ、とわたしは回れ右をする。服を掴まれていたから、ゆっくりと。
「……っ!」
 うわ、と上月さんはぐるりと周囲をふらついた。大した勢いではなかったが、上月さんの体重が軽いことも理由なのだろう。ちょっと羨ましかった。
「みさきの家はね、そこ」
 わたしが指し示した場所は、校門の真正面。いま立っている位置からすると数歩の距離にある家。
 上月さんの身長からすると、丁度頭の少し上か。彼女が視線を上げると、川名と書かれた表札があった。
「……」
「……」
 静寂を破るように、上月さんがペンを走らせた。しゃっ、と紙をすべらす音がする。
『あのね』
 わたしに向けて文字を見せつつ、顔は赤かった。恥ずかしそうだ。
『ぜんぜん知らなかったの』
 上月さんは、みさきと一緒に下校した経験がなかったらしい。
 思えば、手伝いと称して演劇部に顔を出してたときは、みさきは帰るのが遅かった。食堂でわたしが立て替えたカレーの代金。その返済のためだったからだ。決して無理にこき使ったという事実はない。みさきが自分で言いだしたことである。わたしが極悪人だなどと呼ばれるのは心外だ。
 逆に、上月さんは極度の恐がりだったため、夜遅くなる前に帰らせていた。練習は家で量をこなしていたらしく、その辺りは問題なかった。
 暗くなると、上月さんの場合は練習効率が極端に下がる、というのが理由なのだが。
 こうして考えると、わたしが知らないことはあまりに多い。部員のことも。みさきのことも。
 思考が沈む前に上月さんに笑いかけた。
 わたしは大きめに声を出す。ここ数日、みさきの家には近寄ってなかった。それが逃げであることを、わたしは充分に自覚していた。自分に気合いを入れる。
「それじゃ行きましょう」
 びくっ。上月さんは硬直した。わたしの声はそんなに大きかっただろうか。微妙に悲しくなった。
 ふと考えると、彼女とあまり親しくしたという覚えがない。部長と部員以上の関係ではなかったのは自分でも認める。部活で、多少なりとも厳しく指導したこと自体は一切後悔していない。だけど、そんなに怖がらなくてもいいとも思う。
 それに、わたしが上月さんのことを知らないのと同じくらい、彼女もまたわたしのことを知らないのだ。
 いや待てよ。みさきと仲が良いってことは。
「上月さん、ひとつ訊くわね」
 こくこく。
「……わたしのこと、極悪人だと思ってるでしょ」
 一拍の沈黙を置いて、空気が凍った。

 上月さんは逃げた。

「逃げるな」
 肩を掴んで、それ以上逃さない。
 上月さんはばたばたと手を振り回して遠ざかろうとしつつ、スケッチブックに可愛らしい字を書いた。意外に器用な動きだった。
 わたしは余裕を持って、笑いかけた。怒っていないことを上月さんに示すためだ。そう、にっこりと。
『こわいの』
 紙上にあったのは、ある意味で予想通りの文字。
 笑顔は思いっきり逆効果だったようだ。
「ちょっと待ちなさいっ」
 うぅ、と大げさに怖がって、上月さんはさらに逃げようとした。
 稽古で鍛えた演技力は、見たところ前よりも良くなっていた。声は出せなくとも、これなら充分に観客相手に表現できる。わたしはその事実にちょっとだけ感嘆した。
 上月さんの反応は、本気で怖がっていての行動ではないはずだ。
『やっぱり極悪人なの』
 いや、だから。
『鬼部長さんなの』
 わざとか。
『食べられるの』
「食うかっ!」

 優しい口調で滔々と説明して、なんとか誤解を解く。
 冗談だというのは彼女も分かっていたはずだが、やはり部活で先輩後輩の間柄が響いていたのだろう。みさきの家の前で、しばらく立ち話に興じていた。
 まあ、一方的に喋るわたしにうなずく上月さん、という光景ではあるのだが。
「……」
「ほらっ」
 部長と部員でしかなかった一年前に比べると、そして共に公演を成功させた仲間としての数ヶ月前に比べても、やや気安すぎるくらいに簡単に。上月さんの手を、わたしはかるく引き寄せた。
 親しくなる理由なんてどこにでも転がっている。それだけのことだ。
 たたらを踏む上月さんの背中を押して、玄関口へと運んでいく。
 彼女はドアの前に立ち、わたしはみさきを呼び出すためドア横に手を伸ばし――がちゃり。
 いきなり開いた。
 ごん。
 低い位置から、激突の衝撃がドアを震わせる。痛そうな鈍い音だった。
「……あれ?」
「こんばんは、みさき」
「えっと、もしかしなくても雪ちゃんだね。こんばんは」
 ドアの向こう側でみさきが驚いた声を出した。不思議そうにドアに目線を向けている。むろん、見えているわけではない。音の出所と原因を探っているのだろう。
「とりあえず、そこで上月さんが痛がってるわよ」
「澪ちゃん?」
 ひたいを押さえながら、必死に涙をこらえていた。外に出てきたみさきに、うーっ、とうなって返事の代わりにしている。
『いたいの』
「痛いそうよ」
 通訳してみる。
「もしかして、さっきの面白い音……」
「ドアが上月さんに頭突きしたのよ」
 うんうん。
 上月さんはさきほどから苦難の連続だった。とはいえけっこう打たれ強いようで、すでに復活していた。
「意外と頑丈みたいね」
 その言葉に反応して、上月さんは照れるように笑んだ。みさきに近寄ると、その手を取る。
「え。……ええと、うん。そっかそっかなるほどー。わかったよ澪ちゃん」
 わたしに通訳させれば簡単なのに、わざわざみさきの手のひらに指で文字を書いていた。内容を理解するまでのタイムラグ。終わるまで待っていると、ひどく納得した声でみさきがうなずいた。
「『鬼部長に、役者は体が基本だからって鬼のようにしごかれたおかげなの』だね」
「……へえ」
 上月さんのいる方向に視線をやると、すでに見える範囲からは消えていた。素早い。
「彼女、みさきと同じくらい逃げ足が早いわね」
「雪ちゃんの近くにいると自然と逃げ足が早くなるんだよ」
 とりあえず褒め言葉と受け取って流す。取り合っていると、いつまで経っても話が進まない。
「で、みさき」
「なにかな?」
「そこにいる上月さんを渡せとか、上月さんを寄こせとか、上月さんを差し出せとかいわないから、一応」
「うん。じゃあ澪ちゃん、そろそろ出てきた方がいいと思うよー」
 みさきの背中で影が小さく動いた。
「なにかしら、その微妙な言い回しは」
「雪ちゃんは時間が経てば経つほど、追いかけることに情熱を燃やすっていうすごい性格してるからね」
「……で?」
「しかも絶対に止まらない、手を抜かない、あきらめない、っていう三つのないを持っている魔性の女なんだよ。でも、いまならまだ間に合うんじゃないかな」
 説得なのか、それとも脅しているのか。
 えぐえぐ。
 みさきの後ろから、半べそ状態の上月さんがおずおずと現れた。
「えっと、みさきの言葉を真に受けないようにね」
「……」
「べつに追いかけ回したりしないから」
「……」
 上月さんはうなずいたが、その瞳におびえの色が見えるのは気のせいだろうか。
「そうそう、澪ちゃん、お久しぶりだね」
『お久ぶりなの』
 挨拶を交わすふたり。
 わたしはスケッチブックから通訳をしつつ、みさきに経緯を説明した。
 上月さんの要望はこれで叶った。家の場所も分かったし、これからはひとりで来られるだろう。
「立ち話もなんだから、ふたりとも家のなかにどうぞ」
 みさきがドアを開けて呼び寄せる。楽しそうにというか、興味津々の表情で上月さんはみさきの家に入った。部屋への道順を教えられると、たたっ、とかるい足音をたてながら彼女は奥に消えた。
 立ち止まっていると、声が掛かる。みさきがドアを開いたまま待っていた。
「あれ、雪ちゃん入らないの?」
「みさき」
 わたしはみさきの名前を呼んで、それから次の言葉に迷った。
 なんて言えばいいんだろう。口論中にかなりきつい言葉も使った。どんな顔して、謝ろう。
 ばつの悪さをごまかすように、下を向いた。上月さんの姿が見えなくなったとたんこれだ。わたしは何しに来たんだか。
「仲直りしないの?」
 不思議そうな顔。
 その間の抜けた表情に、わたしは声をあげて笑ってしまった。
 つられて笑うみさきに一歩近づく。ドアを開いて、みさきの手を引いた。
「……あんたを説得できる言葉を思いつかないから、まだ、いいや」
「そっか。まあ、喧嘩中でもいいんだよ。雪ちゃんが笑ってるなら」
「普通はこうして話せるのを仲直りした、っていう気がするけどね。わたしも、みさきがそれでいいならかまわない」
「じゃあ、仲直りする?」
「ふたりともが納得するまでは嫌よ」
「強情だよ」
 不満げな顔でみさきがいった。嫌いとか、憎いとかの争いではない。だからといって喧嘩になった以上、決着は双方の納得でつけたかった。
 呆れた表情でわたしは応える。
「みさきが、でしょ?」
「あ、そうだ。雪ちゃんのこと鉄の女って呼んでいいかなー?」
 ぐにぃ、とほっぺたを伸ばす。みさきはちょっと涙目になった。
「冗談だよ……」
 おじゃまします、いらっしゃーい、とお決まりの挨拶を交わし、先に入った上月さんを追う。目的地はみさきの部屋だ。
 玄関で靴を脱いでいると、みさきは横をすり抜け段差につまづくこともなく、さっさと部屋に向かってしまった。外出用のスリッパから足を抜くだけでいいみさきは、当然だけどわたしよりも履き替えるのが早かった。
 黒い靴下が廊下の角に消える直前、小さなことが気になった。歩きながら、わたしは後ろ姿に問い掛ける。
「ねえ、みさき。さっき家から出てきたとき、どっかに行こうとしてたんじゃないの?」
「違うよー。表で楽しそうに騒いでたからだよ」
 原因はわたしと上月さんらしかった。

 しばしの間、みさきと上月さんの漫才……もとい、花も恥じらう乙女の会話――というにはいささか華が足りない世間話になった。
 みさきの部屋はそこそこ広い。なのに三人で寄り集まって、顔を寄せ話をしている光景のなか、わたしは通訳係の任をかって出た。
 たんにスケッチブックを読み上げるだけだけど、こういうのも悪くない。
 一緒になって混ざってみても、話の内容はべつにたいしたことじゃない。学校で何があったか。上月さんは授業でいま何をやっているのか。いま食堂で流行のメニューは何か。みさきのカレー大喰い伝説はまだ破られていないのか。
 それこそ他愛もないことばかりだ。
 当たり前に話してる、ただそれだけのこと。それがとても楽しかった。

 ふたり分話していたせいだろう。のどが渇く。勝手知ったる親友の家、みさきにひとことことわってから飲み物を持ってくる。
 台所へ向かうと、エプロン姿の女性に声を掛けられた。みさきのお母さんだ。泊まっていかないか、というお誘いだった。
 昔はともかく、最近はよく断っていた。たまにはいいかもしれない。
 でも、今日は上月さんがいる。彼女は家に帰さないといけないだろうし、そうなると彼女は一人で帰れるかどうか怪しい。というか確実に不可能だ。
 結果として、わたしが送ることになる。泊まりは無理という結論になった。
「ええと、今日は」
 うんっ。
 わたしの言葉を遮って、なぜか隣りに来ていた上月さんがうなずいていた。泊まりたいという意思表示だった。
 彼女の存在に初めて気が付いたのか、きらーん、とおばさんの目が光った。そのことに上月さんは気づいてない。
 背中に向けられる視線も知らず、上月さんは慌ててお手洗いの方向に駆け込んでいく。
 あっさりと拒否の理由がなくなった。
 おばさんに泊まる旨と感謝の言葉を告げてから、台所で麦茶を淹れてくる。お盆に三つグラスを乗せて、こぼさないようにゆっくりと部屋まで戻った。
 途中、おばさんに捕まって頭を撫でられている上月さんの姿が見えた。気に入られたようだ。わたしも何年か前に、同じことをされた覚えがある。
 ちなみに、一度捕まると当分のあいだ離してもらえない。

 部屋でみさきとぼんやりと麦茶を飲みながら、上月さんを待っていた。しばらくして部屋のドアが開く。ふらふらと目を回しながら彼女が戻ってきた。
「……」
 震える字が。
 きゅい、とペンが詰まる音。最後の力を振り絞っていたのだろう。
 スケッチブックには、誰に伝えるでもなく、どこか悲哀すら感じさせるメッセージが残された。
『すわれたの』
 ばたり。
 動きが止まった。
「えっと、なにがあったのかな?」
 何が起こっているのか分からないのか、みさきが怪訝そうに問いを投げかける。
 うつぶせになった上月さんはへにゃ、と脱力しきっていた。答えは返ってきそうになかった。
「……さあ、どうしたのかしらね」
 わたしは見なかったことにした。

 上月さんの復活を待った。
 彼女は起きあがって一気に麦茶を飲み終える。それを見届けてから、わたしはみさきに向き直った。
「みさき、わたしと上月さん、今日は泊まることになったから」
「了解だよ」
 返事のあと、すぐさま気づいて聞き返してくる。
「でも、どこで寝るかとか、お布団のこととかどうしようか」
「どこでもいいわよ。わたしは気にしないし」
「……」
 あ、となにかに気づいたような表情の上月さん。あわててペンを走らせる。
『家になんにもいってこなかったの』
「じゃ、わたしがご両親に連絡入れるわね」
 みさきに任すわけにもいかない。電話の位置くらいなら、訊かなくても分かる。居間に行こうと立ち上がった。
「電話借りるわ」
「どうぞー」
 部屋の押入から布団を取り出しながら、みさきが背中越しに答えた。それを横目に廊下を歩く。後ろから追ってきた彼女に振り返った。
「上月さん、電話番号は?」
 書こうとスケッチブックを広げたが、その手にはペンがなかった。部屋に置いてきてしまったらしい。戻ろうとする彼女をわたしは止めた。
 自分で掛けてもらえばいいだけの話だ。
 電気の点いていない廊下を、わたしの後ろをぴったりと付いてくる上月さん。暗いのがよっぽど怖いのか、またもやわたしの服をぎゅっと握りしめている。
 暗いなかを帰りたくないから、あっさりと泊まることを決めたのかもしれない。もし夜道を一人で歩くことになったら、彼女は確実に涙目になる。それくらいの恐がりだ。
 取り留めもなく考えているうちに、おばさんのいる居間に着いた。事情を話して、電話を借りる。
 わたしの素性と、上月さんが泊まることなどを説明すると、電話に出た彼女の父親らしきひとは豪快に笑った。彼女、友人宅に外泊は初めてらしい。すぐさま許可をもらえた。
 挨拶して受話器を置く。
 会話というか筆談というか、ペンを借りた上月さんがおばさんと話していた。
 部屋に戻ろうとすると、おばさんにみさきを呼んでくるように頼まれた。夕飯の時間だったらしい。わかりました、と返事して廊下を行く。


 みさきと一緒に食卓に着くと、六人はかけられるテーブルに料理がところ狭しと並んでいた。おおよそ四人分からはかけ離れた量。上月さんは目を丸くした。
 いただきます、とみさきの声が遠く聞こえる。
「……」
「……」
 沈黙がわたしと上月さんのあいだで行ったり来たりした。勝手な予想だけど、たぶんふたりのこころは同じだろう。――さすがにこれは多すぎる。
 普段見慣れてるわたしですら驚いたのだから、上月さんに与えた衝撃はどれほどのものか。ギャグみたいな量だった。彼女に小声で告げる。
「……よく食べるのがいるから」
「……」
 こくり。わたしの説明に、これ以上ないほど納得した顔でみさきを見る彼女。
「……あと、それで食べる量は三倍になったと思っちゃうひとがいるから」
「……」
 そしてわたしは声をさらに低くした。
「でも自分の分だけは常識的な量」
 こくこく。こんどはおばさんに畏怖すらこもった視線を投げかける彼女。
 横でひたすら美味しそうに箸を動かすみさき。おじさんは帰りが遅いようで姿が見えない。おばさんが普通の量を静かに、けれど楽しそうに食べている。
 そのうちに上月さんもならって食べ始めた。食欲には勝てないようだ。食べ過ぎでお腹を押さえる彼女の姿は容易に想像できた。
「……じゃ、わたしもいただきます」
 わたしも箸を動かした。とても美味しかった。

 あたたかな食卓の時間は過ぎ、上月さんもみさきも満足そうだった。みさきはいつもより量を食べていたが、それでもおかずがそこそこ残った。日持ちしそうなものは多いし、次の日にはみさきの胃袋に消えているはずだ。
 みさきの部屋でふとんを敷くのを手伝いながら、わたしはそんな説明をした。残してしまった料理の行方をやたら心配していた上月さんを安心させる。
 部屋には大きなベッドがあった。普段から、みさきの手間を省くためだろう。そこそこの広さがあるといっても、ふとんを三人分敷くのは厳しいし、ベッドで三人寝るのはもっと無理だ。当然、ふたりがふとんで寝ることになる。
 誰がいいかなと算段していると、みさきが提案してきた。
「ふとんは二枚で、三人一緒ってどうかな」
「ベッドがあるんだし、わざわざ狭くしなくてもいいじゃない」
「一度やってみたかったんだよ。よく聴く修学旅行みたいにみんなで寝るの」
「そっか」
 上月さんは、と訊く前にわーいと真ん中に飛び込んでいた。嬉しそうだ。答えは問うまでもなかった。
「みさき」
「そんなことないよー」
 わたしの考えたことを察したか。みさきはすぐさま反論してきた。
「……まあ、いいけどね」
 はしゃぎながら、上月さんが向かってきた。みさきが口を開く。
「パジャマはいっぱいあるからどれでも使ってね。制服はお母さんに任せておけば大丈夫。澪ちゃん、明日はここから登校だよ。あっ、そろそろお風呂も入れるよ」
 うんっ。
 パジャマと下着を受け取りながら、上月さんは笑ってうなずいた。
 着替え終えるとすぐ、困った顔をした。理由は明白だった。代わりにわたしが訊く。
「昔のパジャマってある?」
 みさきはすぐ気づいた。
「あっ。ごめんね澪ちゃん。いま持ってくるよ」
「いってらっしゃい」
 みさきが廊下から出てくあいだに、わたしは自分の寝間着に着替える。その様子を上月さんがじっと見ていた。下に置いてたスケッチブックを手に取り、彼女は渾身の力で文字をつづる。
『うらやましいの』
 なんのことかと訊くのが怖いくらい、彼女はずっと凝視し続けていた。
 みさきが戻ってくる。背丈は大丈夫そうなパジャマを着終えた上月さんが、困惑と不満の入り交じった表情でわたしとみさきを見た。
 大きさは丁度よかった。
 ただし、胸の部分がゆるかった。自分自身とみさきに交互に目をやって、上月さんはとても落ち込んだ。とてもとても悔しそうだった。
 わたしの視線に気づいたのか、彼女は慌ててペンを走らせた。
『なぐさめはいらないの』
 そう書いて、上月さんはにっこりと笑った。ふるふると拳を握りしめていることを悟らせもしない。健気だった。その様子を見ていたら、わたしの目頭は熱くなった。
 慎重に言葉を選んで、上月さんに伝える。
「……いっぱい食べると、みさきみたいになれるかも」
 こくり。とてもとても真剣な面持ちで、上月さんは深く静かにうなずいた。
 みさきはなんのことか分からず、不思議そうな顔で話を聴いていた。

 夜も更けてきたころ。みさきの提案通り、三人で川の字になった。夜も遅く、すでに眠った上月さんを真ん中にしている。ちょっとだけ狭いが、あたたかい。
 すぅ、と寝息が聞こえる。騒ぎ疲れたようだ。一時間ほど話していたら、上月さんはまぶたの重さに耐えられなくなっていた。普段から規則正しい生活なのだろう。
 当然のようにみさきとわたしはまだ起きていた。寝ようと思えばいつでも寝られるし、それで明日が辛くなることもない。もちろん、わたしの場合、休みだからここにいるわけだけど。
 上月さんを起こさないように、小声で話していた。
「でね、やっぱり澪ちゃんは可愛いと思うんだよ」
「否定しないけど」
「ちょっぴりドジなところもあるけどね」
「そうね。それも否定しない」
 ふたりで笑った。なんとはなしに上月さんの寝顔を見つめる。ふと思い立って、わたしは演劇部での彼女を語った。
 みさきの知らない上月さんの姿。そして春にやった公演のことを。
 劇の内容は、事故で声を失ってしまった少女の話。彼女は、それでも前向きに幸せな日々を過ごしていた。友人たちはやさしく、彼女自身も笑顔でいることができた。けれど、言葉として意志の疎通ができないがゆえに、どちらも望んでいない仲違いをしてしまう。
 それが相手を思いやったがための誤解と分かると、ふたりは慌てて仲直りしようと走り回る。色々な騒動に巻き込まれながらも、彼女は友達のもとにやっと辿り着く。そして結末。わたしはラストシーンだけ、ぼかしてみさきに教えた。
 彼女に光が当たるような脚本を選んだのはわたし。でも舞台のうえで最後までやりとげたのは上月さん自身だ。
 練習も決して手を抜くことはなかったし、自分のやるべきことはしっかりとやっていた。彼女の努力は相当のものだったと、縷々と語った。
「……上月さんがなんで演劇部に入ったか知ってる?」
「伝えたいことがいっぱいある、って」
 みさきも、本人に聞いたことがあるらしい。
 自分の気持ちを精一杯伝えるため。上月さんは一生懸命で、とても真剣だった。
 言葉以外の表現を使うことによって、歩みを止めることもなく進み続けている。
「澪ちゃんって、すごいよね」
「……ええ」
 わたしよりも、みさきよりも彼女はずっと強いのかもしれない。
 とりとめなく考えながら、いつも通りの無邪気な寝顔に目をやった。彼女のほっぺたをつついてみる。
 いい感触だった。
 みさきは小さく息を吐き出して、一緒に言葉も漏らした。
「そういえば澪ちゃんと知り合ったきっかけって、浩平君だったんだよ」
「……浩平君」
「あ……」
 ごめんね、とでもいいたげな表情。いや、電気を消した部屋ではちゃんとは見えないけれど、口調で分かった。
 数日前の喧嘩のきっかけ。わたしはそんな人間に囚われるなとみさきに語った。みさきはその言葉に怒りもせず、ただ悲しげに笑った。それがたまらなく嫌だった。
 みさきの暗闇を照らした光は、どこにもいない。
「……うん。みさき、聴かせてくれる?」
「雪ちゃん、浩平君の話すると嫌がってたのに?」
「そう?」
「そうだよ」
 そんなつもりはなかったけれど。……いや、そうかもしれない。みさきがこんなにも大切にすることに、少しばかりの嫉妬がある。みさきを悲しませていることに、怒りも感じる。そういった感情はすべて嫌いにつながるものだろう。
 だけど、彼が嫌いなわけじゃない。ただ、彼のことを話しているとき、みさきが悲しく笑うのが嫌なだけだ。
 わたしがそう答えると、みさきは上月さんに目を落とした。ゆっくりと口を開く。
「浩平君と出会ったのは、外がとっても寒かったころ。雪ちゃんから逃げてたとき……」
 前訊いたときには話さなかった部分だった。
「覚えてないと思うけど、雪ちゃんもそのとき浩平君に会ってるんだよ」
 みんな、浩平君のことを忘れちゃった。力のない声で、みさきはそう続けた。
「そっか」
 みさきは想いを馳せるように、静かな声を出した。わたしは部屋の暗い天井を見つめながら訊いた。いくつかは初めて知った話だ。
 上月さんとは彼を介して出会ったこと。小さなクリスマスの思い出。彼が年賀状を点字で書いてくれた。たったふたりの卒業式。そして、夜の校舎であったこと。
 素直な言葉で、正確に。それらひとつひとつの思い出を、みさきはゆっくりと話す。聴いているこっちが恥ずかしくなるくらい、みさきは彼が好きだと分かる。
 最後に。
 彼が消えた瞬間のことを、みさきは話した。
「雪ちゃんには話してなかったけど。私、浩平君と一緒に公園に行ったんだよ」
「……それって、外に出たってことよね」
 一瞬、耳を疑った。
 外に出ることを、みさきはあれほど怖がっていたのに。
 それでも納得している自分がいた。これから語られる結末を、わたしはすでに知っていた。
「うん。商店街を通って、いろんなことを話して。桜の舞う道を歩いたんだ。まわりからはちゃんと恋人同士ってみられてたと思う。とっても楽しくて、すっごく嬉しかった」
 息を吸って、声を落ち着かせる。
「公園に着いて、アイスを食べようって話になって、バニラとチョコミントを買ったんだ。私が、買いに行ったんだよ」
 目を瞑って、わたしは想像した。みさきのはしゃいでいる姿が鮮明に思い浮かぶ。
 それから淀みなく、みさきは淡々と先を続けた。思い出を、自分自身に刻みつけるような声で。
「……そうして戻ってきたら、浩平君はいなくなってた。探したけどどこにもいなかったよ。手に持ってたアイスは溶けて、地面に落ちていった。私はひとりで待ってた。でも、帰ってこなかったんだ。ずっと、ずっと側にいてくれるっていってたのに」
「……そう」
 言葉がない。あれほどこわがっていた外の世界に、みさきは出たのだ。
 閉ざされた世界からやっと飛び出して、まぶしそうに望んでいた場所に歩いて。
 なのに、また暗闇に取り残されたなんて。
 静寂が重い。
 ふたりして、黙った。
 すぅ、と上月さんの息が聞こえる。迷って、わたしは口を開いた。これ以上、みさきに話させてはいけない。
 窓から見える景色は夜空。けれど、光はまだ雲に隠れていた。
 空は暗い。
「みさき。もう、寝ましょう」
 答えは返ってこなかった。わたしはふとんを頭までかぶる。さっきまで真上にあった天井が見えなくなった。

 すずしい空気と静寂が、部屋を満たしている。
 しばらく目を閉じていると、みさきは小さな声を出した。
「ねえ、雪ちゃん……もう、寝ちゃった?」
 起きてはいたが、わたしは答えなかった。
 みさきは優しい声で続けた。わたしが眠ったと思っているのか、それとも寝てないと確信しているのか。どちらかは分からなかった。
「これはひとりごとだから、雪ちゃんが眠っててくれないと恥ずかしいよ……」
 そんな前置きをして。
 みさきはゆっくりとしゃべりだした。
「……篭の中の鳥はね、自分が飛べないと思ってたんだ。折れたままの翼なんて、べつになくてもよかった。鳥にとっては、もう篭の中だけが世界だったから」
 はぁ、と大きく息を吐き出した。
 声だけが、わたしの耳に届く。
「翼が癒えることはないと知っても、鳥は絶望することなんてなかった。光はちゃんと差し込んでいたし、風はいつだって吹いていたから。それを見ていられればよかった」
 ひとりごとと呼ぶには、むしろ語りかけるような口調だった。静かに先を続ける。
「でも、光に誘われて篭の扉から外に抜け出したら、そこには大きな空があった。どこまでも広いくせに、優しくなんかないのに、それでも鳥の目の前から空が始まってた」
 みさきは一度黙った。
 いつからか。声から寂しげな響きが消えていることに気づいた。身じろぎもせず、わたしは続きを聴くために待った。
 口を開けない。吐く息すらも抑えて、みさきの言葉に耳を傾ける。
 穏やかな声だった。
「そして自分が飛べることに、鳥はやっと気づいたんだ。傷ついた翼をものともせず、空を飛び続ける鳥もいて。空では優しい風が、いつだって鳥のことを待ってるって」
 わたしはくちびるを噛みしめる。邪魔をしちゃいけない。
「光を見失っちゃったから、いまは、ちょっとだけ翼を休めてたんだ。ごめんね、雪ちゃん。むかしから、なんども心配かけて。でも……もう、大丈夫だから」
 見えないけれど、わたしは分かった。
 みさきは微笑んでいる。ちゃんと、前を向いて笑ってる。みさきは彼を待つことを止めないだろうけど、心配することはない。
「引っ張ってくれる風に、背中を押してくれる風に、いつか追いつくから」
 目じりに溜まっていく雫を、わたしは拭かなかった。
 頬を流れるまま。
 それから、これが最後とばかりに、みさきはいった。
「いつも、ありがとう。……おやすみ、雪ちゃん」
 話し疲れたのか、寝息がすぐに聞こえてくる。みさきの言葉を抱きしめながら、わたしも眠ることにした。
 大好きだよ、みさき。


 目が覚める。窓から差し込む朝の光に起こされた。眠気を吹き飛ばそうと、大きく伸びをした。
「……ねむ」
 さすがに眠かった。結局、何時まで起きていたのか。深夜だったのは間違いないが。
 時計を見ると、学校が始まるまであと一時間だ。上月さんを起こさないと。
 視線を向けた先には、ふたりの気持ちよさそうな寝顔がある。
 やわらかい陽光が当たっているからだろうか。とても幸せそうな、夢のなかにいる彼女たち。それでも心を鬼にして、わたしはふとんをはぎ取った。
「……」
 すぅすぅ。寝息が続いている。
 透き通った朝の空気。みさきはふとんを取り戻そうと手を伸ばしている。わたしはその手を取った。引っ張って、一気に立たせる。
「……うー、眠いよ。雪ちゃん極悪人だよー」
「起きてるんだったらさっさと着替える!」
 着替え終えたのを見計らって、背中を押して廊下に放り出す。顔洗って目を覚ましてこい、ときっちり付け加えて。
 なにかしつこく非難の声が聞こえたが無視。
 騒がしさに上月さんも目を開けた。じぃっとわたしを目をやり、ぼんやりと部屋を見回して、何か思い出したかのように跳ね起きた。
「時間は大丈夫よ」
「……」
 こくり。彼女は眠たそうな目で、自分の着替えを探し始めた。

 慌ただしい朝を駆け抜けて、上月さんは学校に向かった。歩いて一分。教室までの距離を考えれば、三分くらいだろう。
 楽しそうに登校する彼女の姿。みさきと一緒に、わたしは玄関先で見送った。
 わたしの場合、演劇部に顔を出すのは放課後からだし、みさきには特にこれといった用事もなかった。
 彼女は学校の校門を抜けて、校舎へと走っていく。いつだって一生懸命な彼女。見ていると、わたしもつられて頑張りたくなった。
 そのうちに上月さんの舞台にみさきを連れていきたいものだ。元部長の特権でも使って、みさきにも分かるよう多少脚本に手を加えてしまおうか。そんなことも考える。
「で、みさき」
 呼びかけると、きっちり向き直ってきた。どうやら用件は分かっているみたいだ。
 原因の解決した喧嘩を終わらせるために、わたしは口を開いた。
「ちゃんと、仲直りしたい」
「……うん」
 みさきはうなずいた。息を吸って、わたしは一気に口に出す。
「ちょっと言い過ぎたと思う。悪かったわ」
「いつも心配かけっぱなしで、ごめんね」
 お互い頭を下げながら、同時に言葉にしていた。すぐ、ふたりして黙る。
 じっと相手の言葉を待っていると、不意にわたしたちは吹き出した。これも、同時だった。
「これで仲直り成立、だよ」
「ええ」
 わたしたちにとっては、これで充分。
 一歩、みさきは前に踏み出した。
 あたたかな陽光がわたしたちに降り注いでいる。かすかにそよぐ風を感じながら、みさきがまぶしそうに天を仰いだ。
 同じように見上げると、そこには青空があった。
 夕焼けが好きだとみさきはよく言うが、わたしはこんな、からっと晴れた空も好きだった。ときには雲で翳ることもある。冷たい雨が降ることもある。けれど、そこは鳥が自ら翼を広げられる世界。
 たとえ瞳に映らなくとも。
 翼ある鳥が飛び立ったなら、たしかに空はそこにあるのだ。
「雪ちゃん、いい天気なんだから公園まで散歩しようよっ」
 声が聞こえた瞬間、いきなり腕を引っ張られた。つんのめりそうになりながら、わたしはみさきの背中を見る。
「道なら覚えてるから大丈夫だよっ」
 自然と笑みが浮かんでくる。わたしはその手を握りしめ――
「こらっ、はしゃぐなみさき!」

 親友の隣りを、ゆっくりと歩き出した。




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