恋色ふたつ、空ひとつ


 ベッドの上、シーツにくるまった塊がもぞもぞと動いていた。
 じれったそうに枕元に手を伸ばす。探り当てたが、違う、これではない。階下から由起子の楽しげな声が聞こえていたのだ。
 いったい、こんな朝早くから誰だろう。男でないことは確かだ。瑞佳も最近は来ていない。
 どうにも頭が働かない。そのうち何分か経った。昇ってきた足音の主がドアを開きかけて、ためらう。
 不思議に思って、そのままの体勢から声をかけてみる。
「長森か? 起こさなくていいからな」
「違います」
 答えたのは、ひどく耳慣れた声だ。
「オレが目覚めないようトドメをっ!?」
「違うのはそっちじゃないです」
 ドア越しの声は、二秒ほど黙っていた。
「甘いっ! 茜のフリをしても騙されないぞ…!」
 そう言った途端、ドアが閉まり始めた。慌てて続ける。
「待て待て。わるかった、茜」
「とうとう詩子を超えました」
「どういう基準なんだ」
 寝間着姿のままの浩平を見て、ようやく入ってきた茜は聞いた。
「着替えは?」
「ああ、そこに」
 クローゼットから洋服をさっと選び、手渡してから、ベッドから離れたがらない浩平の手を引っ張った。今朝の気温は低い。浩平は寒そうに震えている。
「朝食を作ってくれているそうです」
「珍しい。由起子さん、今朝は時間があるんだな」
 つぶやいてパジャマを脱ごうとする様子を、じっと凝視されていた。浩平は言う。
「茜…」
「なに?」
「えっち」
「浩平ほどじゃないです」
 ほのかに頬を染めて部屋から出ていった。ぱたんと音を立ててドアが閉まる。そこで浩平は、茜が家まで来た理由にようやく思い至る。
「つまり、デートのお誘いってとこか」
 約束はしていなかったが、顔は自然とほころんでいた。


 朝食を作り終えるのを待っていたかのように、会社から急な用件を告げる電話がかかってくる。茜も手伝っていたのだが、結局、由起子はいつも以上に慌ただしく家を出る羽目になり、あとを任された。
 降りてきた浩平は玄関の扉が音を立てるのを耳にした。茜の動きをなんとなく目で追う。湯気の立った白米を丁寧によそっているエプロン姿の茜を見ながら、不思議そうに聞く。
「ん、食べてから来たんじゃなかったのか」
 浩平が大人しく座ったのを見て、茜は一緒のテーブルについた。
「休みの日でこの時間なら、まだ寝てると思ったんです」
 数秒の間があった。
「つまり作ってくれる気だったと」
 しばらく無言が続いた。
 浩平は次の言葉を探し、スクランブルエッグを口に運ぶ。とろけるような甘さだった。
「美味いな」
 気に入ったのだろう。茜が反応しなかったのは、黙々と食べていたからだ。
 客用の小さな茶碗を置く。皿の上も綺麗に片づいていた。
「…美味しかったです」
「早いぞ」
「ごちそうさまでした。お茶を入れてきます」
 と、席を立って急須を取りに行こうとする後ろ姿に問う。
「場所は」
「知ってます」
 茶葉の缶を手にして答える。最近、頻繁に家に来るようになった。由起子と親しくなったのかもしれない。
「なあ、茜」
 呼びかけに振り返る茜。
「オレを甘やかしすぎるとダメ人間になるぞ」
 冗談のつもりで言った。真顔で返された。
「しょうがないです。浩平だから」
「う。その言い方……どっかの長森みたいだ」
「そう?」
「毎朝起こしたりされそうで、なんかなぁ」
「起こしてほしければ、私が起こしてあげます」
「茜だって朝弱いくせに。オレはそう簡単には起きないぞ」
「大丈夫」
「へ」
「その分、早く来ますから」
 二階から目覚まし時計の音が鳴り響く。さきほど触れた際、止め忘れたのだ。
「ごちそうさま」
 勝てそうにない。浩平が苦笑しかけたとき、茜の小さな声が耳に届いた。
「でも浩平……私のためになるべく頑張ってほしいです」
 やっぱり勝てなかった。


 言い出したのは茜からだ。
「散歩、しませんか」
 もちろん異論などない。浩平は、そういえば、とふと気になったことを口に出した。見れば、茜は薄い水色の帽子を被っている。
「デートのときはいつもその格好だな」
「お気に入りなんです。でも」
「でも?」
「今日は散歩するだけ。…デートじゃないです」
 何やら浩平には分からないこだわりがあるらしかった。家のドアを閉め、鍵をかける。行き先を決めないうちに浩平が歩き出したら、茜が追いかける格好になった。
「じゃあ、公園だな」
「山葉堂に寄ってからにしませんか」
「……練乳入りワッフルか」
「今日は別のです」
 浩平は嫌な予感をおぼえ、冷や汗を浮かべる。
「新商品か」
「はい」
「どんなのだ」
 頑張って聞き返した。声がかすれているかもしれなかった。
「イチゴ入り練乳ワッフルです」
「…ただの練乳やストロベリーと、どう違うんだ」
「入っている量と甘さがすごく違います」
「すごく、なのか」
「はい」
 拳を握りしめての返事だ。何も言えなくなった浩平に対し、茜の表情がふっとゆるむ。
「甘い方がいいです。…それに」
 続く言葉を口にしようとして、やめてしまう。
 浩平はうん、と一瞬不思議そうにする。理由はすぐに分かった。アスファルトの上、リズミカルな足音がたたたっ、と跳ねてくる。茜が見ている方向からだ。
 駆けながら手を振ってくるので、茜は自然とその場で足を止めた。浩平も続いた。
「やっほー。おふたりさんはこれからデート?」
 詩子だった。茜が首を横に振る。
 ふうん、と訳知り顔の詩子はすぐ、うんうん頷き返した。言葉にしなくとも通じたらしい。
 幼なじみ同士が分かり合っている姿に浩平がうなった。ちらりと横目で盗み見た茜は、間を置かず、詩子に水を向けた。
「詩子は?」
「こっちはねぇ、…あれ?」
「どうしたんだ」
「ない、どこにもないっ」
 きょろきょろとあたりを見回す。見える範囲には何もないから、浩平は重ねて聞いた。
「いったいなにを探してるんだよ」
「澪ちゃん、どっかに落としてきちゃったみたい」
「なにっ」
「まさか今頃、交番に届けられているんじゃっ!」
 茜は無言だったが、視線で非難していた。
 詩子が慌てて付け加える。
「冗談はさておき。でも、あれー。来ないなー」
「詩子、あそこ」
「どれどれ。あ、いたいた。おーい澪ちゃん、こっちこっち」
 通りの遠くのほうから、必死の形相で向かってくる影があった。どれだけの距離を離したのか。スケッチブック片手に走りにくそうな格好だ。たどりついたとき、澪は大きく肩を上下させていた。
「おはようございます」
「よっ」
 わたわた。落ち着きかけていたのに、焦ってペンを取り出したからか、スケッチブックに書く文字がひどく揺れる。茜は目を細めて、みみずののたくったようなその線を解読しようとする。
「『ランニングハイなの』」
「澪、それは違う。ただの酸欠だ」
 若干ましになった象形文字が付け加えられる。
「『風になるの』」
「なってない」
 無理だった。
「いやぁ、惜しかったねー。もう少しだったのに」
 慰めるようにささやき、澪を背後からぎゅっと抱きしめる詩子。
「にしても澪ちゃん、どしたの? こんなにぐったりしちゃって」
 苦しそうだった。
「お前がおいていったせいだろうがっ!」
 浩平の声があたりに響き渡る。


 これから澪と一緒に寿司を食べに行く予定であることを、詩子は精一杯、胸を張って力説した。
「…いつの間にそんなに仲良くなったんだ」
「茜がちっとも遊んでくれないしぃー」
 ちらり、と横目で茜の反応を見る。
「だからあたしと澪ちゃんはあの星に誓ったの。打倒、折原浩平を!」
 澪が反駁する。丁寧な星の絵付きだ。意味はないが。
『ちがうの☆』
「違うらしいぞ」
「うん、実は違うんだけどね」
 ツッコミするのも疲れてきた。浩平は手を適当に振る。向こうに追いやるように。
 詩子は逆に、こっちへ来い来いと動かした。つられて澪がひょこひょこ寄っていく。
「というわけで、あたしたちは澪ちゃんとデート中だったり」
「そうなのか」
『ちが  』
「血がどうしたの?」
 書いている途中で再び背後から抱きつかれる。ばたばたしている澪。
「で、まあ、そんなことは結構どうでもいいんだけどね」
 がっちり捕まえられている澪にとっては、割とどうでも良くなさそうだった。
「ほら、そろそろあたしたちもお暇しないと」
 詩子はくすぐったそうにしている澪の耳元に息を吹きかけつつ、小さく付け加える。
「ラブラブなふたりの邪魔しちゃいけないでしょ」
 ようやく解放された澪は、今初めて気が付いたみたいな様子だ。体ごと硬直したあと、激しく首を縦に振った。
 で、みるみるうちに朱に染まる頬。なにを想像したのか。熱い視線が茜と浩平の顔をひっきりなしに移動し続ける。瞳も少し潤んでいるようだ。
 スケッチブック一面に描かれる文字。
『あのね』
「なんだ」
 紙の上を踊る手の動きが、ぐっ、と気合いの入った力強いものに変わる。
『けっこんはいつなの』
「え、また血の話?」
 詩子が口を挟む。澪はふるふると首を横に振った。そして、ひしと茜を見た。浩平には目もくれない。
「まあ、さすがにまだ早いよね」
 いつの間にか詩子も話に乗り、真面目な口調で迫ってくる。
「知りません」
 茜がひとことで答えた。
「……折原君。いや、茜が可愛いのは分かるけど…そんな……若奥さまなんてっ…!」
「ひとの話を聞いてないだろ」
 浩平に、詩子がずんずん近づいてくる。
「茜が欲しかったら、この詩子さんを倒してからいきなさいっ」
「いや、あのな…」
「あたしは本気よっ!」
「とにかく落ち着けー!」
「やだっ。こういうのって幼なじみの特権だもん」
 気づけば鼻先まで詰め寄られていた。
「そうだ、傘」
 浩平は、以前に借りた傘を返していなかったことを思い出していた。茜を探したとき、詩子から渡されたものだ。
 一瞬、詩子が目を丸くする。視界の片隅、少し離れた位置の茜の姿を捉える。少し、間が空く。浩平の顔をかるく見上げてから、瞳を細めた。
「あの傘は好きにして」
「いいのか」
「大事に使ってくれるでしょ?」
「そのつもりだけどな」
 言って、首をかしげた。
「オレって意外に信用されてるのか」
「そうかもしれないね」
 悪戯っぽい口調で続ける。
「そうそう、折原君。茜をよろしく」
「任せろ」
 浩平は即座に答えた。詩子に驚きの気配はない。嬉しそうな笑みを浮かべただけだ。お話はこれでおしまい、と小さく口を動かし、勢いよく離れた。茜のそばに戻りかけたところで脈絡なく振り返った。
「そーいや、最近まで長いこと見なかったのは旅行でもしてたから?」
 澪がちょこんと首を傾げる。茜の仕草に、かすかな動揺が覗いていた。
 ほんの一瞬、思い出したのだ。すぐに隠れた。詩子には表情を読まれたようだった。なにか言いたそうにしながらも詩子が口をつぐんだのは、茜が目を伏せたからだ。
 沈黙が重くのしかかる直前、浩平は自慢げに語り出す。
「遠くまで旅に出てたんだ。そこがまた古い場所でな」
 嘘は言っていない。
「インカ帝国やマヤ文明の遺跡巡りにでも行ってたの?」
 詩子が会話に弾みをつけようとする。
「ふっ。オレのことはインディ折原と呼んでくれていいぞ」
「折原ジョーズ君ね」
「……なんだその微妙なネーミング」
「折原君はオリジナリティ不足。精進するよーに」
「どっちもたいして変わらないだろうが」
「あたしはちゃんとンを抜いたもん」
 詩子が勝ち誇る。油断した瞬間を見計らい、浩平は高らかと宣言する。
「なら最初にイカ帝国と言うべきだったな。お前の負けだ!」
「そんな…こんなところであたしが負けるなんてっ!」
 そこに澪がにこにこしながらスケッチブックを掲げる。
『マヤブメイが抜けてるの』
 愕然として膝をつく敗者たちに対し、茜は呆れ顔でぼそりと言う。
「勝ち負けの基準が分かりません」
 えっ、えっ、と澪があたふた、行ったり来たり。三人の姿は、傍目には掛け合い漫才にしか見えなかった。


『そろそろ行くの』
 服を引っ張られ、おおそうだった、と詩子はうなずく。
「お邪魔しちゃ悪いから、ばいばいってことで。じゃあ、またねっ」
「ありがとう」
 ほぼ同じタイミングで詩子たちはそろって肩をすくめる。澪には似合わない動きだ。詩子はふふんと不敵に口の端を上げた。
 スケッチブックを再び取り出しているあいだに、歩き出す詩子。澪はそれを追うのに精一杯で、書かずにペンもしまい、手をぶんぶん振って去っていった。
 姿が見えなくなる。浩平が疑問を口にする前に、茜は先回りして答えた。
「私に会おうと思っていたみたいです」
 分かるのは、近頃は顔を合わせる機会がなかったため、澪に心配させてしまったらしいこと。このあたりは茜の家へ行く方向でもある。
「澪、嬉しそうだったな」
 茜は頷いて、前に足を踏み出した。なんとはなしに道を歩いてゆく。ゆっくりと流れていった景色の途中、不意に違和感をおぼえた。慌てて立ち止まり、引き返した。
 気づいたせいだ。
「浩平、ここ」
 以前は空き地があった場所だ。浩平も茜の背中を追ってきて、あたりを見回す。
「気づかなかったな」
 忘れがたい場所だというのに、すっかり見違えてしまっていた。驚きを隠せない。通り過ぎるまで分からなかったことに。
 新築の家ができていた。まだ住人はいないようだ。
 外からは完成しているとみえるが、内装が終わっていないのだろうか。光を受けて輝く真っ白な壁を見ても、何度となく訪れた雨の日の空き地とはどうしても結びつかない。
 周囲に木やペンキの匂いが漂っている。鼻につく刺激臭は茜にとって好ましいものではなかった。だが、その空気は不快なだけではない。新しいもの特有の雰囲気にもなりえるのだと、そんなことを思う。
 しばらく見ていたが、やがてどちらからともなく歩き出した。


 商店街につくと早速、山葉堂でイチゴ入り練乳ワッフルを買うことにした。
「その一番下――」
 そこまで浩平が言ったところで、店員の笑顔が輝いた。にっこり。一番下にあるのは練乳ワッフルだ。
「の、右隣にあるやつを4個入りの箱で…」
 ほがらかだった笑顔が凍り付き、ひび割れが入ったのを確かに見た。浩平にもどちらがより甘いのかがよく分かった。待っている最中、他にこれを買っている人間がいなかったのは偶然だろうか。
「かしこまりました。イチゴ入り練乳ワッフル4個入り1箱ですね」
 慣れた手並みで箱を取り出す店員に、料金を払う。受け取って列から抜け出した。
 茜は通りの向こう側で待っていた。窓ガラスに映り込んだ顔が、どこか嬉しそうにしている。背後から声をかけると、名残惜しそうにその店から離れた。
 公園は遠くなかったが、やけに静かだ。
 晴れの日にこうもひとの少ない理由は、公園に植えられている木が銀杏だからかもしれない。時期のため、桜を見に行く者が多いのだ。
 歩調を揃えて石畳の並木道を通り抜けるあいだ、樹々に新しい青が生まれ始めているのを茜は知る。冬のあいだに落ちた黄色い葉は、土に埋もれたか風に散ったのだろう。浩平は何も言わない。ただ、背の高い銀杏の向こうに、灰色の陰りを見ていた。
 茜はベンチのあるあたりまで黙って歩いた。
 日溜まりができていた。
 落ち着いた様子で周囲を見回すと、ベンチに腰掛けた。浩平を呼び寄せる。
「冷めないうちに食べるか」
「はい」
 さぁっと風が吹き抜けていった。空には雲が浮いている。透き通った空気が、どこか優しく包み込んでくれていた。ワッフルの箱を開ける。まずひとつ取り出して茜に渡し、浩平は自分も口へと運ぶ。
「うわ、やっぱり甘い…」
 飲み物を買いに行こうと立ち上がるのを、茜に裾を掴んで止められた。
「あとでいいです」
「大丈夫なのか」
「はい」
 もうひとつ食べる。浩平の許容量を遙かに超えて甘いだけで、これは決して不味いわけではないのだ。口の中で残った甘さがあとに残り続けるのも、そう悪くはない。外の寒さと焼きたての熱さが相まって、とても美味しい。
「浩平、口についてます」
 茜がハンカチを取り出す。拭いてくれるのだと思って、少し頭を低くする。公園には他に誰もいない。
「…わるい、頼む」
 顔が近づく。茜の顔が。
 そして――
「ん……」
 驚いている浩平に、顔を伏せた茜は言う。小さな声で。
「…キスも、甘い方がいいですから」
 素直には頷かない。けれど内心では全面的に賛成だったから、浩平はやり返した。


 快い風が吹いていた。
 顔に吹き付けるそよ風を感じながら、浩平はベンチに寝ころんでいた。当然のように膝枕をしてもらっている。丁寧に編まれた長い髪を触るのは楽しくて、指先でやわらかな感触をもてあそぶ。
 茜は浩平の顔を覗き込んでいる。
「寝ないんですか」
「ああ」
 まぶたをうすく閉じ、答える。
「こんなに気持ちいい風が吹いているのに」
「そしたら茜が寂しいだろ」
 黙る。
「……じゃあ、なにか話してください」
「こういうときにはな、膝枕してくれてるほうが話すもんだ」
「いいんです、浩平ですから」
「そうなのか」
「はい」
 風が吹き抜け、樹々がさざめいていた。空を仰いだ茜は、移ろう雲の行方を知らない。
 ひとの来る様子はない。静けさだけがあたりに満ちている。足下を影が通り過ぎていく以外、公園にはなんの変化も見あたらない。内緒話のように、語らう。
 死んでしまった妹のこと。いつか交わした盟約のこと。えいえんのせかいのこと。
 茜は穏やかな顔をした浩平の頬に手をあて、そっと撫でる。
「それが……永遠を求めた理由?」
「分からない」
 悲しかったことはおぼえている。悲しかったことを忘れたかったことはおぼえている。結局、忘れられなかったから全部考えないようにした。
 それからは悲しくなんてなかった。悲しいってことが分からなかった。
「浩平」
 呼びかけられて、どうしてか泣きそうな気分になる。
「今は、悲しい?」
「泣かないけどな」
 きっと、悲しかったのだ。
 吹き付ける風が少し強くなった。
「こうして帰ってこられたのは、茜のおかげなんだ。そう、思う」
 それでも。えいえんは偽りではなかった。ましてや思い出なんかではなかった。
 おそらくそれは悔恨であったり、あるいは痛みだったりしたのだ。だからこそ、そこに留まり続けようとする。そして囚われるのだ。約束されているという、それだけの確かさに。
 どんなものにも終わりはくる。そんなこと、とっくに知っていたのに。
「私は浩平のことが、好きです」
 茜の手を、浩平は両の手で包み込む。不確かなものを抱き留め、安心したいと言うように。
 風が凪いだ。
 穏やかな空を見上げる。音のない、海のような青がある。とても深い青だった。真っ白な雲が遙かな高みへと吸い込まれてゆくのを見届けて、浩平ははっきりと口にする。
「オレも、茜のことが好きだ」
「はい」
 望んだ夢が綺麗であればあるほど、素晴らしいものであればあるほど、心を奪われる。帰り道など最初からなかった。架かってさえいない橋は、渡り切ってしまえば戻ることはできない。
 だがそれは当然のことなのだ。誰も、過去へと遡ることなどできないのだから。
 遠い約束はまるで願いごとのようだと、浩平は思う。
 指先は茜に触れている。再び吹き始めた風にさらわれ、ぬくもりは空に溶けた。失われていったものを求め伸ばした腕が彷徨い、手のひらに触れる。熱は奪われたとしても、握りしめられているのは感じられた。
 茜が傍にいることを確かめるように、浩平はそっと耳を澄ます。
 眠りのさなか、声は穏やかで。
「…もしかしたら、優しいひとほど悲しみも深いのかもしれません」
 風に紛れ、言葉がゆるやかに薄れてゆく。
「でも、悲しくていいんです。私たちは、ひとりじゃないから――」


 はっとして、起きた。
 意識がはっきりしてくると、顔を見つめている茜と目が合った。数秒黙る。先に口を開いたのは浩平のほうだ。
「わるかった」
「…寝顔が可愛かったので許します」
 そうは言うものの、膝枕し続けていたのだ。茜の足も痺れているかもしれない。どれだけ時間が経っただろう。浩平はあたりを落ち着きなく見回した。さっきより大分、厚い雲が増えている。
 それまで感じていた重さが突然なくなると、茜は少し物足りない気分になった。
「散歩の続き、するか」
「…はい」
 立ち上がると茜の足が少しふらついた。背中から浩平が支える。茜は振り返る。
「次はどこに?」
 決めかねている、といった表情だ。浩平は迷わず答える。
「たい焼き屋」
 不可解そうに顔をまじまじと見られた。
「いやな、公園までの道の途中、見えたんだ」
「…本当に?」
 一度手ひどく騙された経験からか、茜は半眼で浩平に問う。
「オレは嘘は言ってないぞ」
「前は食べられませんでした」
「わるかった」
 頭を下げる。茜は即断した。
「…連れて行ってください」
「いいのか」
「今度こそ」
 茜は燃えていた。


 迷った。いきなり方角を見失った。
「適当に歩かれました」
「全面的にオレのせいだ」
 そっぽを向いている茜に、浩平があやまる。
「というか、どこからどう入り込んだのか分かりません」
 いつかの再現だった。
「こっちだったのは間違いないんだ」
 浩平は自信なさそうに続けた。
「…見えた気がしたんだ」
 すまなそうな顔をする。した途端、茜の足が止まった。
「……本当にありました」
「なにっ」
「ほら、そこ」
 たい焼き屋は幻ではなかったらしい。
 そろそろ昼飯時だ。あまり量を食べると昼食が入らなくなるかもしれない、という理由から浩平は二つだけ買うことにした。小銭で支払うと、ひとのよさそうなたい焼き屋の親父は、豪快な笑い声をあげながら聞いてきた。
「…おう、あの長い髪のお嬢ちゃんとデート中なんだろ。皆まで言うな。言わずとも分かる!」
 浩平が答えるより先にどんどん話を進めていく。
「いやあ、やっぱり恋人同士ってのはいいもんだなぁ。よぉし! せっかくだから、もう一個サービスだ。お兄ちゃん、また来てくれよ。さあ、焼きたてだからな。火傷すんなよ!」
 いたたまれない。公園とは違い、周囲にもそれなりに人通りがある。
 逃げ出すように茜の元に戻る。あの大声だ、茜にも聞こえたのだろう。若干、顔が赤くなっているように見えるのは、浩平の気のせいではなさそうだ。
「さて、どこで食べる?」
「あっちに神社がありました」
「ちょっと遠いな。食べながら歩くか」
「帰り道を探しながら?」
「この辺からだったら分かるって。…ほら」
 茜にたい焼きを渡す。はふはふと息を吹きかけながら、熱そうに口に運ぶ。湯気がたっている。浩平も倣って口にした。やはり美味しい。しっぽまで餡のつまったたい焼きは重さもそれなりにある。なにかの拍子に落とさないよう、慎重に頭から食べていった。
 同じくらいに食べ終えて、茜に聞く。
「で、もう一個あるぞ。どうする」
「…半分ずつ分けます」
「大した量じゃないから、茜が全部食べてもいいぞ」
「こういうのは、分けて一緒に食べた方が美味しいですから」
 浩平は言う通りに二つに割った。何気なく大きいほうを茜に渡した。
 味わってから、茜が神社の方向を横目で覗く。
「夏のお祭りは一緒に行きますよね」
「ああ」
 参道に踏み入れる。神社に向かうのではないが、ひとの流れに紛れた。茜は歌うようにつぶやいている。
「アンズ飴、リンゴ飴、バナナチョコ、カルメ焼き、かき氷、アイスクリーム、綿あめ、クレープ……」
「そんなに食べきれるかっ」
「浩平と一緒に食べます」
「無理だろ…」
「…嫌です」
「嫌といわれても無理なものは無理だ」
「じゃあ、それも半分こ」
 と、にっこり。
 浩平はその顔を見て、前方にわだかまる人の海に向き直る。
「…そうだな」


 人波が流れ着いた先は、遠目にも花見で盛り上がっているようだ。
 彼らは場所取りに忙しいのだ。浩平たちには目もくれない。飲み物を手に路上を行き交っては、笑い声がここまで聞こえてくる。
 樹々は静かに花を散らしていた。幾十もの人影に重なるようにして風に桜がふわりと舞い、宙を踊る。
 地面を踏みしめるとやわらかい感触が返ってきた。
 例年より幾分遅咲きの桜は、今が満開だった。これから日を追うごとに葉桜が増え、やがて青葉が生い茂る。
 茜が足を止め、近く、道を挟むようにして植えられた桜の樹列を見遣る。わずか数本では花見には物足りないかもしれない。だが枝先についた小さな一輪から目を離そうとしなかった。
 その場を離れようと思い、浩平が後ろから声をかける。空の様子があやしく変じていたためだ。雲の動きがやけに速い。
「茜、一雨来そうだぞ」
 声は聞こえなかったようだ。浩平は仕方なしに肩に手をかけた。不満そうな視線を返されて、浩平は注意を促すにとどめた。不穏な雲の気配を理解したのか、茜はこくりと頷いた。
 悩んでいる暇はなかった。幸い、店はすぐに見つかった。
「あそこでいいか。茜、急げっ」
 返事を待たず軒先に駆け込む。手の甲に滴の跳ねる感触があった。花見客が集中していたあたりがにわかに騒がしくなる。空だけは、ある程度の明るさを保っていた。
 雨に濡れた桜花は、重さに自ら落ちるだろう。咲いた花はいつか散りゆく。それが何日か早まっただけとはいえ、茜は寂しさを感じずにはいられなかった。
 視線を戻すと、浩平は店内を覗き込んでいた。なにかを見つけたようで、躊躇いもなく中に入った。黙って茜もついていく。奥には彩り豊かな一角があった。
「…傘だな」
「はい」
 他に言いようが無かった。
 雑貨や小物が主な売り物のようだが、一区画、見事に傘ばかりだった。壁や棚に揃った傘の大群を前に、茜は下から上に視線を動かす。
「折角だし、一本買うか」
 店の外に目を遣る。強い雨だ。すぐに通り過ぎるだろうことは明白だったが、浩平はかまわずよさそうな傘を手に取り、見繕っている。安くはないが、どれも丈夫そうだ。
「浩平…」
「ん、なんだ」
 茜は逡巡し、それから言葉にした。
「私が買いますから、選んでください」
「なにっ」
 意外な言葉に、浩平は驚きを隠さなかった。
「いや、それならオレが買ってプレゼントした方がいいんじゃ」
「…嫌です」
 本気で嫌そうな口調ではない。別に断る理由があるらしかった。
「まあ、いいか。で、どういうのがいいんだ」
「可愛いのを」
 ふうん、と分かったような分からないような相づちをうった。真剣に探し始めると、ひとつ疑問が生まれた。浩平は率直に口に出してみた。
「あのピンクの傘は? 昔からの、茜のお気に入りなんだろ」
 根拠もなく浩平はそう思っていた。実際、別の傘を持つ必要などないのだ。
 茜はほんの一瞬まぶたを閉じ、答える。
「かまいません」
 はっきりと頷く。さらに茜が続けようとすると、浩平が口を挟んだ。
「ま、わざわざ捨てることもないしな」
「浩平…」
「真面目に選んでやるから、大切に使うんだぞ」
 しかし自分のならば無頓着でもかまわないが、茜のためとなれば難儀せざるを得ない。
「茜に似合う傘って、なかなかないのな」
「そう?」
「これは子供っぽすぎるだろ。こっちは暗い。真っ赤はイメージじゃないし。こういうプリントのもなんかなぁ、ちょっと違うし」
「浩平がこれだ、と思ったものがいいです」
 だからこそ難しいのだ、とは口にする茜にも分かっていることだ。
 あまり重い傘では茜には使いにくい。手と背丈に合う大きさのものは自然と限られてくる。散々悩んだ末にようやくたどりついた傘は、以前から茜が愛用していたものと雰囲気が似ていた。だが、似ているということは違うということでもある。
 なにより色が違うのだ。ピンクとはかけ離れたものを選ぶことに、浩平もさすがに躊躇した。
 でも――これだ、と思ってしまったのだ。
 澄んだ水の色。それも、晴れた日の空のような薄く鮮やかな青だ。
 困ったように茜に見せる。
「オレが選ぶと、こうなるんだが」
「…はい」
 茜の当惑が仕草からも伝わってくる。喜ぶべきか、それとも否定するべきなのか、二つの異なる感情に身動きが取れない。
 その姿は、口では別のものを求めたのに、一番望んでいるものを差し出された子供のようだ。
 浩平は笑ってしまった。なにせ隠しきれずに表情に出ているのだから。
「やっぱり、これだな」
「…分かりました」
 レジに傘を持っていく後ろ姿を見て、浩平も嬉しくなる。
 茜は何分も経たず戻ってきた。並んで店の入り口まで歩き、隣りで暗くなった外の様子を窺っていた浩平に言う。
「ありがとう」
「どういたしまして」
 揃って灰色の雲を眺めているあいだ、雨の勢いは激しくなるばかりだ。さっきまで快かったはずの風が湿気を帯び、重苦しいものに変わってしまっている。
 茜はなかなか軒先から出ようとしなかった。茜が動かないから、浩平もその場にとどまる。
「この傘は、大事にしまっておきますから」
 と、茜。
「って、使わないのか…」
「冗談です」
 澄まし顔で、透明な雨粒が地面に跳ねるのを見ている。
 しばらくして茜が名を呼ぶ。
「浩平」
 なにが言いたいのか、いや、なにがやりたいのか分かってしまった。
 くすりと笑い、茜は傘を広げた。
「どうぞ」
 それで相合い傘。
 浩平が当然に受け取ろうとすると、嫌がる。
「…こんなときは普通、オレが持つんじゃなかったか?」
「嬉しいのに、取り上げられるのは嫌です」
「今日だけだぞ」
「はい、今日だけです」
 精一杯腕を伸ばし、浩平の肩が濡れないように傘を差す。愛おしげに握りしめた傘の柄は、茜の手には少しだけ大きくて、何気なく浩平が手を重ねる。
 雨は降りしきる。いつ止むのかも分からないままに。
 アスファルトを叩く雨の声は急く足音にも似ている。焦燥を煽る響きだ。静かなのに耳に残るそれは、いつか聞いたものと重なる。
 でも茜は寒さを感じなかった。春だからだろうか。水を含んだ風が頬をかすかに撫で、どこかへと去ってゆく。
 茜に合わせてか、浩平は歩調をゆるめた。あるいは茜が足を速めたのかも知れない。どちらにせよ、地面に足を取られないように、近く寄り添って歩み続けた。
 その道すがら、浩平の目に映るのはひとの姿ばかり。傘を差したひとも、傘を持たないひとも、どこかへと知らず流されていくかのようだ。
 向かう先が違うだけなのだろう。なのに立ち止まっている者もいれば、慌ただしく走り去ってゆく者もいる。やがて人の姿が途切れるときがきた。通りから少し脇に逸れた道へと入る。
 茜が何も言わないから、浩平も何も言わなかった。けれど足は止めなかった。雨のなかで立ち止まっていたなら、余計に濡れることを知っていた。
 そのうち、見覚えのある道になる。
 浩平は傍らの茜に目を向けず、聞いた。
「茜、もしかして……泣いてるのか?」
「雨の飛沫です」
 茜は少しのあいだ黙り、言い返す。
「浩平こそ」
「こっちは雨じゃないぞ」
 そう口にした横顔を茜は静かに見上げた。歩みが遅くなる。
「ちゃんと、傘の中に入れてもらってるからな」
 なんでもないことなのに。ただ、どうしてだろう。声が震えた。
 静かに、浩平の足が止まる。
「…泣いても、いいか」
 傘を持ち替えず、茜は腕を伸ばした。濡れた目元を優しく袖で拭い、浩平、と呼びかける。瞳に映った顔は微笑んでいる。
「泣いても、悲しんでも、いいんです」
 茜はそっと続けた。
「だけど、ひとりで悲しくなるのは、寂しいです」
 ああ、と浩平は頷く。笑顔を浮かべようとして、でも、顔は涙でくしゃくしゃで。
(えいえんはあるよ、ここにあるよ)
 頭の中でリフレインする、いつか聞いた声。
 それは遠いものなのだ。振り返った先には、そのままの形で置き去りにされている。うしなわれたものも、こわれてしまったものも、等しく残り続けるのかもしれない。


 立ちつくす浩平を前に、茜はじっと待ち続ける。
 空は、心や日々に似ている。ここに在り続けるもの。永久にも思えて、決して不変ではないもの。ひとつづきの世界だ。
 どんなものにも終わりがある。あらゆるものは変化していく。
 けれど、残るものも確かに存在している。誰かの記憶に、世界のどこかに、あるいはこの胸の奥に。形のないものとして、とどめえぬものとして。
 雨はこれから何度だって降るだろう。素晴らしい時間ほど早く過ぎ去るだろう。すべては押し流され、はるか彼方に遠ざかってゆく。
 だが、大切な今は、いつしか思い出と呼ばれる。そして歳月と喜びは少しずつ積み重ねられ、幸福という名を持つ。
 悲しみが優しさを生み出すのだ。寂しさをぬくもりに変えるのだ。それはひとりではできないことだった。
 浩平に促されて、茜は視線を上げる。そこには輝きに満ちた、光あふれる世界があった。
 気がつかなかっただけで、本当は、もっと前からそうだったのかもしれなくて。


 かるくまぶたを閉じて、また開いたとき。雨の訪れる前よりも、空はずっと綺麗に晴れ渡っていた。
 ふたりで見上げた。手を伸ばせば届きそうな空だった。そこには何もなかった。遮るものさえも。果てのない青がどこまでも広がるだけだ。太陽はそのまぶしい青に溶けていた。
 茜は傘をたたんだ。青空の始まりへと、浩平たちは足を踏み入れる。
 道は緩やかにカーブを描いている。見えない向こう側は、空に繋がっているみたいだ。
「…雨、止んだみたいですね」
 赤レンガを敷き詰めた小径には光が降り注いでいた。濡れた足下からの眩しさに、茜はつと天を仰ぐ。
 浩平は肩をすくめて言う。
「虹の一つも見えればいいのにな…」
「それは、贅沢です」
 そう口にして目を細める。頬に息吹を感じて、雨雲を連れ去った風の行方を見届けようとした。もう、翳りはどこにもない。
「雨が止んでくれただけでも嬉しいです」
「…そうだなぁ」
 澄み切った空気の冷たさが気持ちいいくらいだった。傘が使えないことがわずかに残念ではあったけれど、歩きやすいにこしたことはない。
「せっかくのお休みですから」
 歌を口ずさむみたいに、茜は聞いてみる。
「…確か、誕生日にお返し貰えるんですよね」
「なにっ、まだ覚えてたのか…」
「はい」
 浩平がおずおずと切り出す。
「そう言えばいつなんだ、茜の誕生日?」
「今日です」
「なにっ、マジか」
「はい」
「嘘ついてないか?」
「ついてないです」
「本当か?」
「本当です」
「本当に本当か?」
「本当に本当です」
「うわ〜、なんも用意してないぞ」
「大丈夫です」
 茜は遠くを見やり、太陽に手をかざした。
「これからふたりで買いに行くんですから」
 振り返って言う。
「欲しい物も決まってます」
 その一言で目的の物が浩平にも分かった。
「ま、まさか『あれ』か…?」
「あれです」
「あれだけは勘弁してくれ〜」
 懇願はあっさりと却下された。肩を落としたのもつかの間、浩平はそうだ、と張り切って茜に提案する。
「なあ、茜。折角だから手でも繋いでみようかと思うんだが…」
「…嫌です」
 どうして、と浩平が無言で問う。茜は微笑んで答える。
「恥ずかしいから、嫌です」
 その瞬間、茜は空に架かる橋を目にしたのだ。たぶんそれは七色の。
 確かめよう思った矢先だった。
「さて、行くかっ」
 浩平が大声を出した。茜はこくんと頷く。
「とりあえず歩くぞ。ここからは散歩じゃないからな。デートだ、デート!」
 浩平に手を握られる。傘を持っていない方の手。
 茜は、ちょっと驚いたみたいに浩平の顔をまじまじと見つめた。頬を染め、その手をしっかりと握り返した。
 浩平が茜の手を引き、大きく前に踏み出した。
 その足が前方にあった水たまりに捕まった。茜もつられて飛び込んでしまう。小気味よい音がした。まず茜と顔を見合わせた。靴に浸みた水は冷たくて、なのに、手はそれでも握ったままだ。
 揺らめく水面には、ぽかんとして真下を覗き込む顔ふたつ。吹き出したのは茜が先だった。浩平はこらえきれず体を折り曲げ、肩を震わせている。
 浩平のが早く落ち着いた。
「ほら、茜」
 呼びかけられ、茜は優しい笑みを浮かべた。
 心から笑うことができる。なんでもないことだ。でも、それはなんて素敵なことだろう。


 そうして、今度は茜から先に歩き出す。引かれた手に浩平はつんのめって、たたらを踏む。
 怒る気はなかったようだ。茜の手が握りしめられる。とことん付き合うぞ、そんな意思が感じられた。茜は安心して、足を前に、それも勢いよく出すことができた。
 透明な空気を吸い込む。ゆこうとする道はやわらかな陽光に照らされていて、目に映るものすべてが鮮やかに輝いていた。
 ぎゅっ、と繋いだ手と手のあいだ。握りしめる力の強さと、ぬくもりとを、手のひらに感じている。
 茜は嬉しくなって微笑んで、一歩、また一歩と、大きく前に踏み出す。
「浩平っ」
「なんだっ」
 足早に進んでいると、茜が声をあげた。浩平が聞き返す。
「この手、絶対、離れないようにしてくださいっ」
「ムチャいうなーっ!」
 言い合って、互いに顔を覗き込む。当たり前みたいに目が合った。
「なあ、茜」
 浩平が小さく笑った。真剣な口調で言う。
「オレは幸せだぞ。これからも、ずっとな」
 道の終わりに商店街が見えた。茜の歩みは遅くなる。自然と、浩平が前に出てしまう。
 ふたりの手が、離れた。
「ひとは変わります。心もそう」
 言葉に浩平は振り向きかけ、その動きが止まる。茜が自分から手を繋いできたからだ。顔を真っ赤にしながら。
「でも…。そうじゃなきゃ、嫌です」
 寄り添うふたり。耳元でそうっとささやく声は、少し照れて。
「きっと、もっと好きになるから」

 (了)


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