薄暗い部屋のなか。ぽすっ、と枕に顔をうずめてみる。火照った顔にひんやりとした枕の感触は、とても気持ちよかった。
 もう起きよう。琴音は枕から顔を離し、ゆっくりとベッドから抜け出した。
 窓の外を見つめる。それまで灰色が広がるばかりだった曇天は、いつしか雨に変わっていた。
 知らぬ間に時間は流れていたらしい。ふと思い立って雨音に耳を傾けた。
 翼を濡らした鳥たちは羽を休め、その姿を隠していた。降り注ぐ大粒の雫は、部屋の窓を叩いてそのまま滑り落ちる。
 風は冷たくて、雨が入ってきてしまうのは分かっていたが、彼女は窓を開けた。凍えるような空気が部屋を満たす。
 寒くなったから、すぐに閉めた。
 五月の、まだ夏と呼ぶには早すぎる季節。昨日は一日だった。
「……寒いです」
 声が震えていた。
 ただ、少なくとも目は覚めた。
「そりゃそうだ。琴音ちゃんも物好きだな」
「ええ、もちろん。そうじゃなきゃ藤田さんの恋人なんてやってられません」
 琴音はからかうように笑んだ。
 わざとらしく、浩之は思い出すような素振りをしつつ、声に出す。
「……昨日の夜、あんなに大人しかったのに」
「藤田さん、ちょっとこっち向いてください」
 そっぽを向いたままで、浩之は悲しそうなふりをしつつ、わざとらしく嘆息した。
「あーあ。オレは悲しいな、っと」
「藤田さん!」
「……ったく、しょうがねえな……」
 そこまでいわれて、ようやく気づいたように、琴音はのそのそと浩之の隣りに腰掛けた。じゃあ、と動いて、浩之の顔に手をやった。
「藤田さん」
「はいよ」
 待ってましたといわんばかりに浩之は振り向いた。してやったりといった風の得意げな笑みが浮かんでいる。
 浩之は、琴音の口を数十秒のあいだ、息もせずに求めた。
 満足したのを見て取って、琴音の顔が離れる。肌の白さが部屋の暗さと相まって輝いていた。
 ふたりは横並びに腰掛けていた。琴音はベッドの上から床に向けて足を伸ばしてから、浩之を促す。
「で、そろそろ起きましょう」
「えー」
「えー、じゃありません。一緒にお買い物に行こうっていったじゃないですか」
「いつ」
「昨日です」
 ぷいっ、と今度は琴音のほうが顔を逸らした。すねているようにも見える。
「……はて。オレは聴いた覚えがないぞ」
「藤田さんが寝ているあいだに『わたしと一緒にお店にいきたくなーる。とってもとってもいきたくなーる』と五回ほどささやきましたから」
「それで覚えてられると思うか?」
「はい。ちゃんとはっきりと応えてくれてたじゃないですか」
「……まじ?」
「まじです」
「うそん」
「本当ですよ。『ああ、琴音ちゃんの買ってほしいものをなんでも買ってあげよう』って寝言で」
「寝言なら仕方ないな……ってちょっと待った! ……寝言で?」
「ええ。可愛い寝顔でした」
「……ったく、琴音ちゃんまでオレの行動パターンを読むんじゃないの」
「ふふっ」
 琴音が婉然と笑んだ。
 立ち上がる浩之の背中に向けて、
「あかりさんからお墨付きまでもらいましたから」
「……」
「これでわたしも藤田浩之研究家ですよ」
 誇らしげな声だった。
「いいけどな」
 浩之はなんとなく悔しかった。肌寒さに震えて、脱ぎ散らされていた下着を履く。
 そのまま振り返ると、にこにこと微笑んでいる琴音に向かって、手を差し出した。
「じゃあ、お着替えしましょうか、お姫様」
「……あう」
 ぽっ、と琴音の顔が真っ赤になった。逆襲されていた。
「どうしてそこで照れるんだか」
「だって、好きだから……やっぱりそういう台詞は照れちゃいます」
 浩之の手を取って、彼女は笑みを深めた。耳まで赤らめた琴音は、シーツで自分の体を隠すように巻き付けると、着替えを探した。
「いったろ? オレが着替えさせてやろう。ふはははは」
 妙に親父くさい笑いだった。琴音がうー、とうなった。
「藤田さんのえっち」
「なにをいまさら」
「……そうでした」
 ぺろ、と舌を出して。それでもやっぱり恥ずかしそうにする。着替えをさせられることは拒否してみた。
 買い物に行きたいこともあり、二回戦突入は避けたいところだった。
「そっか。琴音ちゃんはオレに着替えを手伝わせてはくれない、と」
「……じゃあ、逆でどうでしょう?」
「逆?」
「はい。わたしが着替えさせてあげます」
「……」
「……」
 降りた沈黙に、浩之が外の雨に目を向けた。
 やるのはともかく、やられるのはとてつもなく恥ずかしいことだと、今更ながらに気が付いたらしい。琴音が続けた。
「なぜかわたしの手元には藤田さんのズボンが」
「待てい」
「そしてワイシャツまでも」
「……なぜそこにっ!?」
 昨日、浩之が新しいバイト先の面接用にと着ていた格好が一セットあった。
「藤田さんが適当に脱ぐからです。これに懲りたら、脱いだ服はちゃんと畳む習慣をつけてくださいね」
「ああ、琴音ちゃんが、世話焼きなどっかの誰かとだぶって見える……」
「直伝ですから」
 あまり深く突っ込むと自分の身が危ない気がして、浩之は話を戻そうとした。
 なんだか琴音の後ろに、世話焼き魔の影がちらほらと見えていた。
「さて、じゃあ下までいって着替えを取ってくるとするか」
「着替えはこれ以外ありませんよーだ。ってことで、わたしの勝ちですっ」
「……え」
「しょうがないなぁ、藤田さんは……なんちゃって」
「いやだからな、あかりの真似はもういいから。で、どうして」
「だって、一度着た服を溜め込んでたから、一気に全部洗っちゃおうっていったのは藤田さんじゃないですか」
「あ」
「もうっ。渇くまで着る服がなくなっちゃったからって、『琴音ちゃんと一緒に、オレはしばらくベッドにいればいいからな。げへへへへ』とかなんとか」
「しまったっ、そんなことをいった記憶も! ……って、オレはそんな笑いはしてないぞ」
「でも、えっちな笑いでした」
「まあ……それは否定できねえな」
「ということで、お着替えはありません。わたしが持っている一着だけです」
「くっ」
 さあ、とばかりに手で招き寄せる。ここで逃げてしまい、琴音がすねる可能性を考えると、浩之にはその誘いを断れる理由はなかった。
「ほらほらっ、藤田さん」
「せめてズボンは自分で履かせてくださいお願いします」
「えーと、どうしよっかな」
 悪女の笑みだった。それを見て、浩之が楽しそうにつぶやいた。
「……琴音ちゃん、性格変わったよな」
「誰のせいだと思ってます?」
「オレ」
 浩之の負けだった。
「よろしい」
 あははっ、とふたりで笑い合う。
「つっても、変わりすぎな気もするぞ」
「うーん……幸せって、女の子を強くするものなんですよ。きっと」
「とりあえず、オレにいえることはひとつだな」
「なんですか?」
「琴音ちゃんは可愛いな、と」
「褒めてもなにもでませんっ。……といっても、嬉しかったのでズボンとワイシャツは返してあげます」
 はいどうぞ、と差し出されたズボンを受け取る。浩之が掃き終えると、琴音がベッドから腰を上げた。
 白のシーツにくるまったままで。ドレスのようにも見える。
「さんきゅ」
「さあ、着替えちゃってください」
 どちらも慣れたもので、相手の着替えは何度も見た光景だった。
 それでも琴音はなにかを待つように、浩之の着替えの終わるのをじっと見ていた。
「……なんでそんなに見てるんだ?」
「いえ、わたしのことは気にしないでください」
「ならいいけど」
 ワイシャツのボタンをかけ終えた浩之に、琴音がゆっくりと近づいた。ん、と手を伸ばし、浩之の首にネクタイを締める。
 丁寧に。
「はい、終わりです」
「ああ、ありがと」
「やってみたかったんです。これ」
「これ?」
「恋人に、ネクタイを締めてあげるって」
「へえ……」
「新婚さんみたいだな、とか」
「……なるほど」
 数秒だけ、琴音は黙った。浩之の反応を伺っていた。表情に照れ以外のさしたる変化はないと見るや、琴音はかすかにくちを尖らせた。不満げだった。
 浩之の背中を押してドアへと向かう。
「さて、それじゃあ……着替えますから出てってくださいっ」
「うわっ! いきなり押さないでくれっ。何度も見たんだし、いまさら……」
「恥ずかしいものは恥ずかしいんですっ!」
 浩之は、あっさり追い出された。
 仕方がない、と彼は大人しく従った。女心はとてつもなく複雑なものだから。

 琴音は着替えが終わり、待っていた浩之と腕を組んで外に出た。
 まだ雨の降るなかを、相合い傘で歩いていく。

「で、どこの店に行くんだ?」
「そうですね。とりあえず歩いて見回りましょう。そこは最後でいいので」
「わかった」
 ぴったりと寄り添い合って、街の人々に溶け込んでみる。今日は商店街には行かなくてもいい。
 冷蔵庫の中身は、琴音が見たときはまだ量があった。それに、今日は夕飯の買い物は必要なかった。
 まだ、恋人。
 最近になって、同棲を始めていたふたり。現在、浩之の両親は仕事の関係上、海外に住居をかまえていた。
 それを好機とみて琴音の方から同棲を提案し、浩之に断る理由もなく現在に至っている。
「ところで藤田さん、長岡さんがテレビに出てたらしいです」
「へえ。アイツがねえ……ははっ、頑張ってるんだな……雅史のやつも海外で活躍してるって話だからなぁ」
 雨音に負けない程度には声を出して、ゆっくりと歩いていく。
「松原さんも、エクストリームで準決勝まで行ったそうですし」
「はははっ、飽きるまでは綾香がずっとチャンピオンに居座ってそうだ。おかげで葵ちゃんも大変だ」
「みなさん、すごい頑張ってますよね」
「そうだよなぁ」
「あかりさんは……色々お世話になってますし」
「琴音ちゃん、あかりに妙なこと教わってないよな?」
「さあ、どうでしょう? 少なくとも、藤田さんの昔の話はいっぱい聴きましたけど……」
「オレに恥ずかしい過去なんてないぞ」
 ふふふ、と笑う琴音。
 浩之は傘を傾け、雫を落とした。嫌な予感がひしひしと。
「……」
「ちっちゃいころの藤田さん、とっても可愛いかったです」
「…………」
「あと、佐藤さんのお姉さんに女装させられてる写真とか」
「………………ぐあ」
 人波を見つめ、琴音が口元をゆるめた。
 琴音は高校時代のことを思い返しながら、ぬくもりを求めるように、絡めた腕を密着させた。
 歩く速度を遅くして、道の端へと浩之を促した。傘の漣から抜け出すと、足音が消えた。
「ん、どうした?」
 琴音に合わせて、浩之も立ち止まった。
「少し、このままで」
 ああ、と浩之はうなずき、琴音が動くのを黙って待っていた。琴音は寄りかかるようにして、浩之の肩に頭を載せる。密着しているおかげでふたりともが互いの体温を感じた。
 はぁ、
 琴音が吐いた息は、白くなった。
 ただ、空まで昇ることもなく雨にかき消された。体勢は変えずに、琴音がささやく。
「……あのころが懐かしくて、思い出してました」
「かもな。まあ、忘れたくても忘れられない連中ばっかりだし。色々あったもんな」
「はい……」
 あのころ、浩之に出逢えなかったら。
 琴音はそれを考えて寒気がした。
「ぜんぶ、ぜんぶ覚えています。傷つけたものも、傷ついたことも……すべて」
 周囲の声、クラスメイトの冷たい視線、あるいは両親の感じた悲しさ。
 浩之の言葉と、自分の想い。
 それらひとつとして、琴音は忘れたくなかった。
 積み重ねられていく記憶には、辛いことが多かった。寂しさや悲しさに染まってもいた。涙で曇ったこともある。
 けれど。
 思い返したなら、それは宝石だった。
 いまはただ色鮮やかな輝きを放つ、大切な思い出。
「そっか」
 浩之は小さくうなずくと、琴音はかるく上を向いた。目を瞑る。
 何を望んでいるか。それを読みとれないほどには、彼は鈍くなかった。

 琴音はくちびるを塞いだままに、声もなく願った。
 覚えていよう。この温もりを。

「じゃあ、行きましょうか」
 肩にかかっていた重さが急になくなって、浩之はよろけた。
「おわっ」
 体が離れたことに、浩之はすぐに気づかなかった。それだけ集中していたということだろう。
 さっきまで持っていた一本だけの傘は、知らぬ間に琴音の手にあった。
「ほら、気を付けてくださいっ」
 声と傘を、同時に受け取る。
「琴音ちゃんがいきなりどいたからだっての」
 くすくすと笑った琴音に、浩之もしょうがないな、といった表情になった。
「やっぱ、明るくなったよなぁ」
「そうですか?」
「ああ。この調子でエッチの方も、もっと積極的になってくれると嬉しいんだけどなー」
 その言葉に、琴音はひとり顔を赤くした。先ほど自分から求めた行為も、実はかなり恥ずかしかったらしい。
「……もうっ」
 ぽかぽかと、力を込めずに握った手で浩之の背中を叩く。
 浩之は逃げながら、振り返った。追いかけてくる足音が聞こえなかったからだ。
「あ……」
「どうした?」
 琴音が立ち止まっていた。その視線の向かう先を、浩之は目で追ってみる。
 透き通って磨かれたガラスから覗く、ウェディングドレスだった。
 真っ白。
 ヴェールは、展示用に装飾された椅子に置かれていた。輝くような純白だった。
「着てみたい?」
「はい……とても」
 じぃっ、と魅入られたようにそのドレスを見ている。琴音が濡れないように傘の位置を調整しつつ、浩之は値段を見た。
 高かった。
 大きくため息を、心の裡だけで吐き出す。バイトを詰めてせっせと稼ぐ、浩之のような大学生では、まず買える値段ではなかった。
 数歩だけ移動して、琴音は隣の店も覗き込む。
「わぁっ……」
 琴音の視線の先には、大粒のオパールが飾られた銀製の指輪。だが、これもそれなりに高い。
 じっと見つめていた。ウェディングドレスに気を取られていたよりもかすかに長く、動きもせず、黙ったままで。
 値札の隣りには、『婚約指輪にいかがでしょうか』と可愛らしい文字で書かれている。
 エンゲージリングは、べつにダイヤモンドとは限らないらしい。
 浩之は財布の中身とその他色々を計算した。彼の自由になる金は、ほぼ三ヶ月分が尽きることになる。それくらいの値段だった。
 最近はそれほど支出がなかったおかげで、一応、なんとか、ぎりぎり買える。
 買えるだけだ。その瞬間に財布の重さが消えてくれることだろう。
 琴音の息があたって白くなったガラス窓に、浩之はもう一度目を向けた。彼女がこんな風にアクセサリーを見ていたという記憶は思い当たらなかった。初めてかもしれない。指輪に、ここまで目を輝かせている琴音は。
 二度目のため息を吐き出す。
 よし、と琴音が声をあげた。浩之の腕をとって、足早に歩き出す。
「さてと、そろそろ行きましょうか」
「……ああ」
 ちらりと一度だけ見て、その場からふたりは離れた。

 さっきの店とは微妙に近い、アクセサリーショップの前。雨の日だというのに店内は混雑していた。
「じゃ、ちょっと見てきてもいいですか?」
「オレは遠慮しておくよ」
 出てくる客たちを見ながら、浩之は逃げるように身を退いた。彼の目には、さきほどから女性しか見当たらない。このなかに入っていくのは、男には酷な作業だった。
 入り口は道路側に飛び出た屋根がある。浩之は傘を畳んで、しっかりと水を切った。
「……そうですね」
 察したらしく、素直にうなずいて店内に向かう琴音。
 浩之を外に待たせていることに罪悪感を覚えながらも、せっかくだからと見て回る。安物のガラス製のジュエリーや、ネックレスなどが置かれていた。イルカのキーホルダーがあったので、手にとっていくつか見てみたりもした。
 趣味の良さでは、先ほど見た指輪にかなうものはひとつも見つからなかった。
 ウェディングドレスも着てみたかったし、とても羨ましかったのだが、琴音はむしろ指輪の方に惹かれていた。
 ただ、いくぶん値段が高すぎるのは分かっていた。
 それに今日はすぐさまお金が出ていくのだ。自分の欲しいものにはあまりお金はかけられない。
 琴音は、せめて似たものはないかと考えた。それが理由でこういった店に入ってはみたものの、どうにも見つかる予感はない。
 十月生まれの琴音にとって、オパールは誕生石だ。
 また、そういったものをほとんど持っていない琴音には、綺麗な宝石に対してのあこがれもあった。
 しばらく探しても満足できそうなものは、やはり無かった。琴音はあきらめて外に出る。
 ここにいるはずの浩之が、視界のなかには見つからなかった。
「おっ、もういいのか?」
「……あ」
 後ろにいたらしい。先ほど歩いてきた道の方向からだった。見上げると軒先が広い。雨宿りでもしていたのだろうと琴音は推測した。傘からは水が滴り落ちている。
「藤田さん、肩濡れてます」
 指を指して教えた。浩之が慌てたような顔で自分の服を見ると、腕のあたりまで染みていた。
「しくじったぜ……ま、気にしなくても大丈夫だろ。こんな風に雨宿りできそうになってたからって、傘指してなかったのは、失敗だったな」
「ならいいんですけど」
「そうそう。で、琴音ちゃんの方の用事は済んだのか?」
「あ、……あと一カ所いいですか?」
「なんだ、ここが最終目的地じゃなかったのか」
「はいっ。ちょっと考えていたことがありまして」
「ほう。んじゃ早速行こうぜ」
「えっと、そこのレストランなんですけど……」
 琴音の指差した方向を、浩之は見た。
 ものすごく高そうだった。
「うあ」
「……どうかしました?」
「い、いやなんでもないけどな」
「……ああ、お金のことなら心配しないでください。わたしが出しますから……というか、今日は初めからそのつもりだったんです」
「へ? なんでだ」
「日頃の感謝を込めて……とかいいたいところですけど、今日は特別な日なので」
「今日は、あ……五月二日か」
 浩之は、いま思い出したように声を上げた。
「ええ、だから一日中、藤田さんと一緒にいたかったんです」
 ふたりが恋人になった記念日ですし、と琴音が続ける。
「そういうことなら、いいかもな」
「……なにがですか?」
「琴音ちゃんにおごられるってのも悪くない」
 にっこりと琴音が笑って、静かな雰囲気のレストランへと先導した。浩之は片手で傘を微妙に前に差し出して、もう片手では琴音の手をぎゅっと握りしめた。
 歩いているうちにドアは目の前になった。カウベルがあった。
 扉は重そうだったわりに、簡単に押し開けられた。光源の抑えられた店内に入る。
 混んではいたが不思議とうるさくはなく、空気は心地よかった。
 入り口横にあった傘立てに、手にしていた傘を入れる。ふたりが待っていると給仕が来たので、席へと案内してもらう。
 琴音と浩之は椅子に座った。置かれたメニューを開いて、浩之は一瞬困った。
 かなり高かった。
 あの指輪ほどではなかったが、言葉に詰まる。かるく深呼吸をして動揺を鎮めた浩之に対し、琴音はさほど驚いた様子はなかった。
 浩之の基準では、レストランといえばファミリーレストランが一番上にあるのだろう。
 しかし、琴音には予定の範囲内らしい。もしかするとここに来たことがあるのかもしれないな、と浩之は漠然と考えた。
 名前から美味しそうなものを予想して、適当に選んだ。琴音も同じものを頼む。料理が来るまでのあいだ、どちらからともなく話し始めた。
「ところで、この店に来たことでもあるの?」
「あ、はい」
「へえ……オレ、実はこういう高そうなところは初めてでさ。マナーとかってやっぱないとマズイか?」
「うぅん、大丈夫だと思いますよ。だいぶ前にパパとママに連れられて来たときは、そんなに難しいことは考えてなかったですし」
「それならいいか」
 浩之は安心した。
 そのまま、たったいま思いついたような口調で言葉を続けてみる。
「そういや、琴音ちゃんの両親の仲がどうなったのか訊いてなかったな。良い機会だから教えてくれるとありがたいんだけど」
「ああ、それがですね……ふふっ」
 言葉の途中で、うれしそうに吹き出した。琴音は笑ってしまうようなシーンを思い出したらしい。
「笑ってないで、何がおかしいのかを教える!」
「実は……わたしが藤田さんと同棲する、っていったとき、ふたりとも怒ったんですよ」
「へ」
「次の日になったら、それまで自分たちの会話でギスギスしてたくせに、わたしのことになった途端にいきなり手を組んじゃって」
「……そんな話を琴音ちゃんから聴いた覚えがないんだけど。オレに話してくれたときは、たしか両親は諸手をあげて賛成したっていってなかったっけ?」
「それは嘘です」
 ゴン。琴音の答えに、浩之はテーブルに頭をぶつけた。
「お話、続けますね。……で、ふたりを説得するのに時間がかかったんですけど、どうしてか……ママはわがままを言い出しちゃって困りました。ふたりとも泣き落としはしてくるし、怒鳴るし、あげくの果てにはパパなんて、『その男を叩きのめしてくる!』なんて叫んじゃって」
「……いや、えらく娘さんを大切にする父親だな」
 冷や汗。ちょっぴり想像した浩之は、背筋が冷たくなった。
「ってか、前に訊いた話からすると違和感があるぞ」
「ええ、わたしも驚きました。半分家出同然で出ていこうとしたら、ぎゅうっと抱きしめて、いつでも戻ってこい、なんていわれちゃいましたから」
 琴音はゆったりと肩をすくめた。楽しげな様子で、眉をひそめつつ。
 テーブルのうえにひじを附いて、遠い記憶を思い出すように。
「はははっ、大切にされてるじゃんか」
「そうですね……本当に、嬉しかったですよ。パパがあんなに怒ったのも、抱きしめてくれたのも、何年かぶりでしたから」
「で、そのあとは?」
「ふたりして温泉巡りに海外旅行、それからなんか色々と趣味に走ってるらしいです。数年前がうそみたいに仲良し夫婦になっちゃってますよ」
「……うちの両親を思いだした。同じようなことをやってるような気が」
「かもしれませんね」
「そういうことなら同棲も続けておっけー、っていうか、交際は認めてもらってるってことでいいのか?」
「たぶん。大丈夫だと思います。それに、もしダメならダメで、藤田さんはあきらめたりしませんよね?」
 琴音が、無邪気に笑んだ。浩之はそれもそうだ、とうなずいた。
「……まぁな。っと、料理が来たみたいだ」
「あ、はい」

 料理は値段に見合うくらい美味しかった。

「ふぅ……美味かったな」
「ええ、とっても」
「たまには、こういうのもいいかもしれないな」
 にっこりと微笑みで返されて、浩之は付け加えた。
「もちろん、次はオレに払わせてくれよ?」
「はいっ」
「あ。店を出る前に、ちょっといいか」
「……えーと、なんですか?」
 食べ終わったばっかりだから、少し休んでいくつもりなのか。琴音はそう考えて、浩之にうなずいた。この余韻をもう少し味合うのもいい。
 浩之が少しのあいだ、黙った。給仕が来て、皿は綺麗に片づけられていく。
 どうやらこれが済むのを待っているらしい。
 なんだろう、と琴音は不思議に思った。浩之は変な遠慮をするような人間ではないし、そんな配慮をするような話でもあるのだろうか。
 テーブルクロスの白さは、どこかあのウェディングドレスにも似ていた。
 地面を強く叩く足音がした。
「……あっ」
 給仕のミスではなかった。ただ、横を通り過ぎていった子供にぶつからないように、少し慌てて逃げたせいだ。バランスが崩れる。
 他の客の飲んでいたものだろう。かすかに液体の残ったグラスが、一部始終を見ていた琴音の目の前に飛んできた。
 透き通ったガラス製のそれは、浩之の顔を映している。
 浩之にぶつかる。琴音はそう感じた。給仕は踏みとどまろうと後ろを向いていて、さきほどの子供は気づきもせずに親の方向へと去ってしまった。
 一瞬ののち、そのグラスは速度をゆるめ、浩之が手で掴んだ。液体は零れずに済んだのか、テーブルは真っ白なままだった。
 給仕が謝って、グラスを受け取った。そのまま奥へと消えていく。
 はぁ、と琴音は深く息を吐き出す。力を使ったのは、ほんとうに久しぶりだった。
 すでに力は完璧に制御できるけれど、あまり目立つことは避けたい。ふたりで相談して、そう決めていた。
「……ったく、前に力は使うなっていったろ? あのくらい、大したことじゃないんだし」
「でも」
「でもじゃないの」
「ごめんなさい」
 琴音は素直に謝った。
「ああ。……まあ、それはそれとして、助けてくれてありがとうな」
「……はい」
「あーもう、オレの言葉くらいで暗くなるなよ、琴音ちゃん」
「うー。藤田さんが危ない、って思ったら、つい」
 琴音は下を向いてしまった。浩之が頭をかいて、どうしたもんかな、と悩んでいる。しばらく困った表情だったのが、なにか思いついたらしい。
 浩之は、悪戯を思いついたような笑みを見せた。
「しょうがないな。お姫様、機嫌をお直し下さいませ……ほら、琴音ちゃん、手を出して」
「はい?」
 ぽん、と簡単に手渡されたのは、小さな箱。
 綺麗なウィンドウの内側で見慣れた、そんな形だった。こういった箱に入れるもの。思い浮かぶのは、琴音にはひとつしかなかった。
 浩之が箱を開けた。予想通り、そこには思い描いたものがあった。
 それでも琴音は驚きを隠せなかった。
「……この指輪」
 オパールと銀の、心惹かれる言葉で飾られた、さっき見た指輪だった。
 光に当てるたびに、その宝石は色を鮮やかに変化させながら輝いていた。
「えーと、なんでも希望や幸運の象徴とされる石で、宝石の王と呼ばれ、えー、どっかの皇帝がクレオパトラに贈ったとされる石、だそうだ。たしか……たぶん」
「なんでそんなに自信なさそうな説明なんですか……」
「話の長そうな店員の説明を最後まで聴いてられなかったんだ。あの短時間で買って来なきゃならなかったからな。走ったおかげで肩が少しばかり濡れちまったし」
 指輪と浩之を交互に見た。しばらく不思議そうにしていたが、琴音ははたと気が付いた。
 え、と目を丸くして、言葉を探し、視線をさまよわせた。
 信じられないと思いながらも、見上げるように浩之へと顔を向けた。
 琴音はかすかに震える口を、開いた。
「ええと、もしかして、これをわたしに」
「他の誰にあげるんだよ。いやー、前に指輪のサイズ訊いておいてよかったぜ」
 浩之の言葉通り、琴音の指に合った小さい指輪だった。
「でっ、でも……ものすごく高かったじゃないですかっ!」
 いつもに比べて、だいぶ大声を出していた。琴音に店内の視線が集まる。
 こほん、となんでもないふりをしてごまかした。注目が散ったのを見計らって、琴音は訊いた。
「ど、どうして」
 なんでもない風を装って、浩之は答えた。顔は楽しげに笑ってはいるが、目は真剣そのものだった。
「給料の三ヶ月分、だっけ。……オレの金だとそのくらいでベストを尽くしたつもりなんだけど、ダメか?」
「あ……その」
「ご両親も大丈夫みたいだしな。あとは、琴音ちゃんの返事だけだ」
 正直、嬉しい。
 琴音は心の底から、嬉しさで胸がつまった。泣いてしまいそうだった。
 だが。
 これで決めてしまって良いのか。答えは絶対に肯定しかないけれど、それでも、じっくりと悩んで決めるべきじゃないのか。迷った。なまじ目の前に幸せがあるから、昔を思って戸惑った。
 本当に、いいんですか? 黙って返答を待っている浩之に、そう口走りそうになるのを、琴音は必死に抑えた。
 幸せはこんなにも近い。そのくせに、簡単に裏返る。
 失うことはどうしようもなく怖い。持っていたものが大きければ大きいほど。
 思い出す。浩之が体を張って、琴音を力の呪縛から逃れさせてくれたことを。
 あのとき浩之は死ぬことも覚悟していたはずだ。そうでなければ、あんな無茶で死にかけることもなかったし、琴音が救われることもなかった。琴音はそれを知っていた。
 失うことを恐れてしまえば、その先にあるものに手は届かない。
 なら。
 琴音は静かに指輪へと視線を落とす。その虹色の宝石に目をやった。


 ――そのとき一瞬だけ、映像が見えた。

 姫川琴音が予知能力を持っているという事実は存在しない。しかし彼女の瞳には、記憶にない鮮明なイメージが確かに映り込んでいた。
 それはひとつの未来なのだと、そう琴音には思えた。

 笑おうとして、ただただ泣いている琴音の両親。苦笑いでもしているのか、からかうような表情をした浩之の母親。笑っている父親。力の制御ができるようになったあと、話しかけてくれて、琴音にとって親友になったクラスメイト。にこやかに祝いの言葉を投げかける浩之の友人たち。良く行く喫茶店の親しい店員さん。にぎやかさに笑っている神父のひと。誰ひとりとして例外なく、彼らが喜んでいるのが見て取れた。
 憧れていた純白のウェディングドレス。
 真っ赤な絨毯の、やわらかな道。
 白い教会の壁。祝福するかのように、鳴り響く大きな鐘。
 そして、

 微笑んでいる浩之と、一緒の道を歩んでいる琴音の姿。
 どちらも、幸せそうだった。


 たったこれだけを琴音に見せて、映像は散った。
 でも、それで充分だった。

「……琴音ちゃん?」
 心配そうに見ている浩之がいた。ほんとうに一瞬のことだったらしい。
 ちらりと、そのオパールを見つめる。希望の象徴だという、その石を。
 未来のように、見る者によって色を変える、美しくも不思議な宝石を。
 そうだ、不安がることなんてなかった。未来は自分で創り上げていくものだから。幸せは、いま目の前にあるのだから。
 そうして、琴音は答えを決めた。
 錯覚だったのかもしれない。自分が望んだだけの幻覚なのかもしれない。
 けれど琴音は、踏み出す勇気をもらった気がした。
 緊張に震える手をきつく握りしめながら、真っ直ぐに答える。
「受け取ります。ありがとう……浩之さん」
「よっしゃーっ!」
 浩之のガッツポーズは、だいぶ恥ずかしい喜び方だったが、素直な表現であることは間違いなかった。
 それを見て、琴音は楽しそうな笑みをこぼした。
「……って浩之さん?」
「だって」
 琴音が一度言葉を切った。落ち着こうと息を吸い込んで、そのまま恥ずかしそうに小さな声でつぶやいた。
「名字が同じになったとき『藤田さん』だと、呼ぶとき困るじゃないですか」
「……はははっ」
「もう、笑わないでくださいっ」
「いやー、それもそうだ。めちゃくちゃ嬉しいからな。そのオパールに感謝しておかないと」
「そういえば、どうしてこれを選んだんですか」
「琴音ちゃんが欲しいオーラを出していたからだな。こう、欲しい欲しい欲しい〜って」
「そっ、そんなに分かりやすかったんですか……わたしって」
「分かるぜ。琴音ちゃんのことだったら」
 浩之はさも当然のように口にした。照れてしまい、赤くなりなる琴音。
「それと……やっぱり、断られるんじゃないかって怖くてな」
 まだ手に汗握ってるんだ。そんな言葉で茶化すように話しながらも、浩之は緊張で固まっていたこぶしをゆっくりと開いて見せた。
 ほんの少しだけ、抑えきれなかった震えは残っていた。 
「あの店で、贈る指輪のアドバイスでも聞くだけ……のつもりだったんだけどな。オパールが呼ばれてるっていう、別名教えてもらった瞬間に決めた」
「たしか……」
「そ、知ってるかもしれないけど。キューピッド・ストーンっていうらしい」
 こういうシチュエーションにはぴったりだろ、と浩之は楽しげに笑った。
 琴音はその表情を見て、胸があたたかくなった。

 ふたりはすぐに席を立つ気にもなれず、料理が去っていったテーブルで話していた。サービスなのか、給仕がワイングラスを運んでくる。見ると、グラスは鮮やかな赤で満たされていた。
 浩之が口を開いた。
「乾杯でもする?」
「いいですね。しましょう!」

「それじゃ……オレたちのこれからと」
「わたしたちの幸せに」

 自分たちの言葉に、ふたりともが微笑んだ。
 浩之がグラスを掲げる。


『乾杯っ!』


 琴音も同じように持ち上げ、グラスを重ねた。

 小さな指輪は、未来を示すように。
 琴音の薬指にはめられ、きらきらと輝いていた。




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