「私は、そうですね。……雨が、嫌いでした」
 たぶんそれは、懐かしむような声だった。
 低いわりにはっきりとして聞きとりやすかったし、かといって明るすぎず、早すぎず、遅すぎずの。つまり言うなれば、まったりとしてコクのある、こう、まるで大人しい雪ちゃんのような声だった。
 あっ。べつに雪ちゃんが大人しくないなんて言っているわけじゃないんだよ? と、胸の裡で言い訳しておく。地獄耳だなんて思ってないからー。読心術が使えるんじゃないかって思うことはあるけど。……一応、きょろきょろとあたりを見回すフリ。意味はないんだけどね。
 って、それはさておき。えーと。
 名前なんだったっけ、なんてようやくすこしだけ考える。わたしはこんだけ話していて今さらながら、思い出したのだった。
 そうそう。茜ちゃんだ。浩平君と一緒にいたときに挨拶をした憶えがある。

 今、わたしたちは、燃えるような夕焼け空の下、屋上でふたりっきりなのだ。
 ふたりきり。ちょっと素敵なシチュエーションで。
 でも、キスはしない。女の子同士だから。
 こんなふうにロマンチックな雰囲気なら、流されるのも楽しいような気がしないでもない。
 さて。どうしてこんな状況になったのか、遡ってみることにしよう。


 いつものように。放課後、夕焼け空の下にいた、そのとき。
 屋上のドアがあまり騒がしくなく開こうとしているのが分かった。
 浩平君じゃないな、とわたしは気付いて、普段よりずっと控えめな、錆ついた音色に耳を傾けていた。きぃぃ。いったい誰だろう。今日は……雪ちゃんに追っかけられるようなことはしてないはずだった。たぶん大丈夫。のはず。
 ドアの開く音はやがて消えて。性格はこんなところにも出るものだ。なにも足音だけじゃなくて、いろんなことから相手の様子を想像できる。
 数歩、近づいてきた。ワンテンポ間が空いたのは、わたしに向けてぺこりと頭を下げたらしかった。こういうこと、きちんとしている相手なのだ。そのあと声をかけてきた。
「――すみません、こちらに浩平来てませんか」
「うん? 浩平君のお友達?」
「……はい。それで、浩平は」
 一瞬躊躇ったのは、なんだったんだろう。友達じゃない、って否定じゃないし。
 はたと気付いた。いやいや友達どころか、彼女が浩平君の恋人だったりしたら……あ、ちょっと嬉しいかもしれない。なんて思う。
 変かな、わたし。
 ま、いっか。類は友を呼ぶ、とよく言うのだし。
 彼女は(わたしも、この時点ではまだ名前を思い出してないんだけど)とりあえず浩平君と親しい誰かみたいだったから、いわゆる友達の友達という存在だった。そして友達の友達はやっぱり友達。というわけで、わたしも友達ということになるんじゃないかと思うのだった。まる。
 わたしはにこにこしながら答えた。
「たぶん来てないと思うよ。そこらへんに隠れてなければ」
「そこらへんというと」
「たとえば……ドアの裏とか、パイプにしがみついているとか、かな」
 前にそんなことを言っていたし。
「いないみたいです。……ありがとうございました」
 まあ、これだけで終わる話ではあったのだ。
 わたしが引き留めなければの話、だったんだけど。


 ちなみに放課後であるからして、もちろん、さっさと浩平君が帰ってしまった可能性は否定できない。
 だけど、今日は来そうな予感がしていたのだ。
 だってこんな良い風が吹いている。ちょっとだけ寒いけど、だからきっと素晴らしい夕焼け日和なんだろうな、って。浩平君がそれを見たなら、来ないわけがないくらいの。そしてわたしのカンはよく当たる。浩平君のことなら特に。
 本当によく当たるから、今日もきっと屋上に来るはずだった。
 彼がここに来るってことは、この子はこの場所で待っていたほうが、浩平君を探すにもすれ違わなくて効率が良いと思う。
 とまあ、こんなふうに、雪ちゃんばりに明確な理屈をつらつらと語ってみる。だけど、なんだか、あまり信用していない雰囲気が漂ってきたのでどうしようと慌てる。えっと。どういうふうにすればいいのかな。
 そう思って、浩平君が来るというわたしの確信に、雪ちゃんの極悪さについての説明も付け加える。手振り身振りを交えてわたわたと語ってみる。彼女はくすりと声を漏らして笑ってくれた。ちょっとほっとした。
 ごめん雪ちゃん。演劇部部長の真の姿を、またひとり罪もない女の子に伝えちゃったよ……。でも、許してくれるに違いない。
 何故なら、雪ちゃんは雪ちゃんだからだ。
 ――あれ?
「よく分かりました」
「分かってくれたんだ。良かった」
「はい。雪ちゃんという方のことが、すごく好きなんだと、とても」
「うん。雪ちゃんのことは好きだけど、……ってそうじゃなくて、いやそうなんだけど。……あれれ」
「羨ましいです」
「えっと。何がかな?」
 ふふっ。
 聞こえてきた彼女の笑い方をあえて表現しようとすると、こんな感じだった。楽しそうな声。何気ない、いたずらっぽい微笑みといった風。可愛らしい。
「そうやって、素直に好きって言えることが」
 すとん、と間に落ちた。わたしと彼女のあいだに。言葉が。
「どうして?」
「私にも友達がいるんです。けど――」
 一端口籠もって、それからは滔々と語り出す彼女。その友達というのは、なかなか奔放な子のようだった。説明というか、その武勇伝を聞いた感じ、浩平君女の子版みたいな。
 んん……えと。この学校の生徒じゃないのに、入り込んでいる、とか。いかにも浩平君がやりそうなことがいくつも例として上がってくる。聞いているだけで楽しくなってくる話だった。
 人物像が形になってくると、その子とは、一昨日くらいに話したような気がしないでもなかった。たぶん澪ちゃんと食堂で偶然出会したときだろう。わたしはカレー。澪ちゃんはうどん。同じテーブルについて、ふたりで一緒に食べていたのだ。
 途中に誰も介してないから、会話を成立させるのにも一苦労だった。うんうん。大変だったけど、これも良い思い出になると思えば、悪くない。
 そんなわたしたちのあいだに、突撃してきたのが、彼女だった。
「もしかして、詩子ちゃん?」
「知ってるんですか」
 聞き返す瞬間、凄い勢いで空気がぴしりと凍り付いたのが面白かった。
「詩子、何かご迷惑をおかけしませんでしたか」
 労せず思い出せる。柚木詩子と名乗ったあの子は、澪ちゃんとわたしの通訳係を買って出てくれたのだ。
 まあ、しっかりとした会話が成立してたかどうかはともかくとして。
「ううん。それどころか、ちょっと大変だったことを手伝ってもらっちゃったよ。詩子ちゃんって実は良い子だね」
「……良かった」
 そう呟いてから、また、固まった。一呼吸、間が空いた。
「あの。今言った、実は、っていうのは」
「……えっと」
 わたしも一呼吸。置いて。考えて。
「なんとなく、浩平君みたいな子だったよ」
 主に行動などなど。食堂が騒がしくなったり。とか。いろいろ。
「やっぱり何かしたんですね……ごめんなさい。詩子、決して悪気はないんですが」
 呆れのような信頼のような、不思議な感情の混じった声。それでだろう。さっきの彼女の話にも、なるほどなるほど、とわたしはひどく納得する。
 何故なら、その口調は、よく耳にする誰かさんの言い方にそっくりなのだった。


「そういえば、浩平君。遅いね」
「来るんでしょうか」
「大丈夫。それは安心していいと思うよ。いつ来るのかまでは分からないんだけどね。そうそう。ところで、浩平君にどんな用なのかな」
「昨日、見知らぬ路地を抜けたら、とんでもなく美味しいパフェを出す喫茶店を見つけた、と」
「とんでもなく?」
「はい。とんでもなく、だそうです」
「つまり……デートかな」
「違います」
 即答だった。きっぱり。
 これは浩平君、望み薄かな。うーん。
「じゃあ、浩平君が連れていってくれるって約束してくれた?」
「そういうわけでもないです」
「そうなんだ」
「はい」
 そこで一端、会話がとぎれる。
 沈黙。風がびゅうびゅうと空から降りてきて、わたしたちの真ん中あたりを吹き抜けてゆく。やっぱり肌寒いかもしれない。時期的には、そろそろ暖かくなりはじめのころなのに。
 しばらくこうしてぼけっと突っ立っていると、寒かった風が弱まっていくのを感じられた。彼女も目の前あたりでじっと動かないままだった。考えていた以上に付き合いが良かったようだった。
「……ね」
 先に近づきながら口を開いたのは、わたしの方だった。喋っているほうが楽しいからと。
「浩平君の話でもしよっか」
 でも、よく分からない会話の糸口を見つけてしまったっぽい。


 しかし。浩平君について、かよわい女の子ふたりがこんなふうに屋上でふたりきり。頭を突きつけ合わせて、あーでもない、こーでもないと語るというのは……
 と思ったけど、それはそれで楽しいかも、などと思い直す。
 ちなみに、いつの間にやら、頑張ればキスできる距離になってたりする。それに気付くと、もうひとつのことに気付いた。彼女、風よけになってくれる位置に移動していたようだった。さっきからあんまり寒くないのはそのおかげだ。
 声で距離が分かる。どのくらい離れているか。どのくらい近いのか。
 それでつい口をついて出たのは、
「なぜかは分かんないんだけどね、浩平君の知り合いって、みんな優しいんだよ」
「浩平は変ですから」
 わたしたちも変なんだけどね、と続けてしまいそうになって、ぐっとこらえる。すごく言いたかったけど。がまんがまん。
「まあ、浩平君が変だってことは否定できない、かな」
「……私たちもきっと、どこか変です」
 わたしは、何秒か、言葉に詰まった。
 答えに窮していると、彼女は真摯な声で先を続ける。歌うように、そっと。
「でも、普通です。やっぱり、どこにでもいる女の子なんです」
「そうかもしれないね。……だけど」
「だけど?」
 さっきと違い、今度はすっと言葉が出てきた。
「みんな、変だからこそ……ひとと話すのが、こんなにも面白く感じるんだって思うよ」
 きっと誰もが普通なのだった。
 どんな苦しみであっても、自分だけの苦しさなんてもの、誰もがそれぞれに持っているのだ。それこそ変な気分になるくらい、不思議だった。忘れていたわけじゃないのに。そんなの分かっていたはずなのに。
 自分と他人という存在が同じものではないという、ただそれだけのこと。
 それを悲しいと思わなくてもよかった。孤独を感じる必要なんて、なかったんだ。人間はみんな、だからこそ、ひたすらに触れ合うことを求めるんだから。
 さみしさは、理解できる。
 言葉を交わすことから。手を繋ぐことから。ぬくもりを知ることから。すべてはそこから始まるのだ。
 なんて、考えながら。
 分かっているから、きっと、浩平君がいるときには考えないんだろう。
 そんなふうに、ちょっとだけ思った。


「ね。変なもの同士、仲良くしよう?」
「そうですね。……それも、いいかもしれません」
「じゃあ、新しい友人に」
「乾杯、しますか?」
「飲み物はないんだけどね」
「持ってます」
 がさごそと、四次元ポケットならぬ指定の学生鞄から、ひとつの魔法瓶が出てきたらしい。叩くと内側で何度も跳ねる、あのうわぁああんという変な音と、ちゃぽんちゃぽんと鳴る中身。お弁当派なんだ。
 なんともノリが良い。用意も良い。きっとその詩子ちゃんに鍛えられたのだろう。動揺の無い様子が頼もしいくらいだった。
「お昼の残りなので、量はそんなにありませんが。どうぞ」
「お茶かな」
「十分です」
「うん、そうだね。それじゃ――」
 そこで、乾杯、とやりたかったのだけれど。
 とりあえずカップというか、魔法瓶の蓋がひとつしかないので、代わりばんこに飲むことになった。
「……盃を交わしてるような気がするよ」
「気にしないほうがいいです」
 というわけで、気にしたら負けらしい。
 のどを鳴らしてこくこくと盃を――もとい、蓋コップを干す。彼女が仕舞うのを見計らって、お願いしてみた。
「とっくに気付いてたと思うけど、わたし、目が見えないんだ」
「はい。気付いてました」
「それでね、もし良かったら、顔をさわらせてくれないかな」
「かまいません」
 浩平君にもやったことだけれど。彼女に触れて、知りたかった。
 こうして知ることが、わたしには、きっと何より大切なことだった。
 お友達、だし。


 快諾を受けて、ゆっくりと手を伸ばす。……これじゃ本当にキスするみたいだ。なんて妙なことを考えてしまい、がらにもなく、わたしのほうが恥ずかしさに顔を赤らめてしまって。でもしっかり堪能した。
 思っていた以上に、素敵な顔だと思った。
「ありがとう」
「どういたしまして」
 さらりとした受け答え。こういうお願いにも慣れているようだ。そのせいか、詩子ちゃんに親近感が。でもまあ、心配する側される側は異なるかもしれないけれど。
「そうだ。今日の夕焼け、綺麗かな?」
「そうですね。……とても」
「どのくらい?」
「泣きたくなるくらいに」
 淡々とした答え方。微笑ましいくらいに、正直な声。
 好きだな、って思った。
「そっか。ロマンチックだね」
「……どうでしょう」
「いのち短し、恋せよ乙女。なーんて歌、思い出しちゃったよ」
 そのとき。バタン、とドアが思いっきり開かれた。女の子の声。えっと、乙女召還?
「あのっ、ここに折原きてませんか!?」
 ほら。こんなに違う。ドアの開き方。足音。その他もろもろ。
「……七瀬さん」
「あ。里村さん。どうも。それで……折原は、ここにはいないのよね?」
「はい」
「ありがと。それじゃ、お邪魔しましたっ」
 だだだだだ。と激しい足音。また凄い勢いで閉まるドア。鉄扉だから余計に音が響き渡った。
 遠ざかっていく七瀬さんとやら。やがて気配が階下へと消えて、もう何も聞こえなくなる。
 良い足してる。


「――浩平がなかなか現れない理由が分かりました」
「彼女に追われてる?」
「みたいです」
「うーん、困ったね」
「そうでもないです。とりあえず、まだ校内にいることだけは分かりましたから」
「えっと。どうしてかな」
「七瀬さんのことだから、靴箱くらいは確認しているはずです」
「外には出てないってことだね」
「はい。たぶん、逃げるのに疲れたか、落ち着いたらここに来ると思います」
 もう少し時間が経つと暗くなってしまって、夕焼けが見られなくなる。
 もったいないなあ、って思う。浩平君、どんなふうに思うのかな。それを聞きたかったのに。
 仕方ないから、話を続けることにした。
 違った。仕方なくないや。わたしがとても話したいから、だった。
「……ねえ、乙女といえばさ。浩平君は白馬の王子様、って感じじゃないよね」
「子供です」
「だけど好き?」
「……さあ。どうでしょう」
 はぐらかされた。
 これもまた、素直に好きと言えない、ということなのかもしれない。
 案外、本人を前にしたら、率直に言えちゃったりもするのかもしれない。
 乙女心は難しい。
 難しくて、どんなふうに出来ていて、どうやれば作ることが出来るのか、さっぱりだった。
 何故ならわたしにだって、乙女心がどんなものなのか、さっぱり分からないのだ。だから、これはもう相当に難しいものに違いなかった。


「あの……」
 わたしは先を促した。彼女が先に口を開いたから、邪魔したくなかった。
「夕焼け、好きなんですか」
「うん。すごく、好きなんだよ」
 それこそ、泣きたくなるくらいに。
 何も映らない目を向けた。空は激しく燃えているのだろう。まぶたの裏にも、真っ赤な光をほんの少し感じることが出来るように。広がっているのは赤い世界。眩い夕焼け。オレンジ色の高い空が綺麗で。雲は色鮮やかに染まっているはずで。
 そろそろ赤に紫、橙に加えて、群青も緩やかに混じり始める時刻になっている。夜はもうすぐそばまで来ているのだ。
 彼女は好きなものを挙げようとして、口籠もった。やがて、おずおずと言葉にした。
「私は、そうですね。……雨が、嫌いでした」
 そして、冒頭へと戻り。わたしは彼女の名前を思い出す。
 茜色の空を想像しながら。きっとこの空も、そんな色なんだと思いながら。
 茜ちゃんへ、ゆっくりと問いかけた。
「雨が?」
「はい。長いあいだ、傘を差し続けていたんです。もうすぐ晴れると信じながら」
 深いところは分からなかった。
 分からないように、話しているのだ。お互いに事情は知らない。誰もが自分だけの苦しみを持っていて、それは簡単に他人に見せびらかすようなものではないのだ。
 いつか話してくれる日がくるのかもしれない。なんて、思いながら、聞いていた。
「でも、最近になって、雨のことがそんなに嫌いじゃなくなったんです」
 で、理由。思い当たるフシ。ひとり。ピーンと来た。
「もしかして浩平君のせい?」
「もしかしなくても、浩平のせいです」
 浩平君のおかげと言わないあたりが、言い得て妙だった。
 ふと気付けば、茜ちゃんの抑揚のなかった口調も、どこかあたたかいものに変化していた。
 それは初めからそうだったのかもしれなくて。
 わたしは、いいな、って思った。


「わたしも、あんまり好きじゃなかったかもしれない」
「雨が、ですか。どうして」
「雨の日は夕焼けが見られないから。……目が見えなくても、嫌なものは、理屈じゃなく嫌なんだろうね。そういうふうに感じちゃうってことは、不思議かもしれないけど」
「なるほど」
「嫌いなものって、どういうキッカケがあれば好きになれるのかな」
「好きになった気がすれば、もう大丈夫です」
「気のせい?」
「かもしれませんけど」
 そんな会話をしていたおかげだろうか。
 もうちょっとの時間だけ、陽が落ちきらないといった夕焼け空のこちら側で。
 いきなり雫が落ちてきた。
 わたしの息をのむ音と、身じろぎひとつしない茜ちゃんの沈黙。そこに雨の音色がまざって来て、冷たかった。
 でも、夕陽はそのまま、真っ赤に輝いているのだろう。
 描くことが出来る。
 消えないものが、あるんだ。ちゃんと。ここに。
「お天気雨…。なんだか、嘘みたいなタイミングです」
 空を仰げば、顔を叩く雨粒たち。いくつも、いくつも。
 濡れることもかまわずに、わたしたちはここでぼうっと立ちすくんでいた。少しくらい濡れるのは気にならなかった。
「どうです? 好きになれそうですか?」
「……うん、そうだね」
 雨と夕焼け。そんなの、まったくもって不似合いな組み合わせだ。
 たった一瞬の出来事だったらしく、あの雨は、すぐに向こうの方へと通り過ぎていってしまった。だけどわたしたちはちゃんと知っている。忘れることもないだろう。
 雨の中でも、やっぱり夕焼けは綺麗なのだ。
 焼き付ける。
 それで、雨も去り、ちょうど夕陽も沈みきったころ、階段を駆け上ってくる浩平君の足音が聞こえてきた。
 それを聞いているだけで楽しかった。茜ちゃんも、吹き出すのをこらえているみたいだった。耐えられたのは何秒くらいだったんだろう。
 ふたりして、大きく声を上げて、目に涙すら溜めて、笑った。嬉しくて、あんまり嬉しかったから。
 そして力一杯ドアを開けた浩平君の、きょとんとしたその顔を茜ちゃんが見たのだろう。もう一度吹き出して、わたしはそのくすくすと漏れた笑い声を聞く。聞きながら――、すべてが、
 そう、すべてが。
 たまらなく愛おしい……なーんて、思ったのだった。
 だからいろんなものに、ありがとう。
 えへへー。



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