ずだだだだっ。
足音を響かせながら、廊下を走っているのは三澤羽居。
彼女はとりあえず追われていた。
「待ていそこっ! 逃げるなぁーッ!!」
後ろから追いかけてくるルームメイト、月姫蒼香の形相はまさしく鬼だった。
現在帰宅中の遠野秋葉が怒ったときとも通じるほどに。
とりあえず写真取ったら魔よけに使われることうけあいだった。
――ことの起こりは約一時間前に遡る。
羽居は同室の人間に菓子を持ってきた。
ふところに隠すくらいの芸当をしなければ、この世界では生きていけない。
なにせ食料は自給自足。無ければ奪うのが当たり前なのである。
食券を手にしても、食堂に行ったとしても、配給される列は二十人ほどでうち切られてしまう。
まさに弱肉強食の世界であった。
……などということは一切無く、ひたすらにお嬢様のためのお嬢様によるお嬢様の学園。
某合衆国の政治みたいな台詞だが、一応の真実を掠めなくもない一個の認識だった。
そう。普通なら食事が出るのである。そこは紛れもなく寮なのだから。
その日は違った。いつも通りの量だったが、受け取ることができなかった人物がいた。
蒼香である。
何故か? それは羽居の仕業である、と蒼香は答えるだろう。
「いや、なんか眠いな……」
「蒼ちゃん、少し寝るのー?」
「そうだね。んじゃちょっと寝る。一時間後くらいに起こして」
「うーん。眠いんだったらちゃんと寝なくちゃだめだよー」
「つってもねえ……メシが」
「我が侭言ってないで寝るのっ! 蒼ちゃん! えーいっ」
ドンっ。そんな音がした。勢いは並みかそれ以上だっただろう。運動神経を語るべくもなく。
タイミングが悪かった。
蒼香の首筋を映画風に狙って気絶させようとした羽居。
普通、その手の技は素人がやっても危険なだけである。そんな技を羽居は成功させた。
「……お、おぃ……うぅ」
「あれー? 秘孔はそこじゃなかったのかな」
「って殺す気だったんかい……ぐふっ!?」
ばたんきゅう。
お約束すぎる断末魔の声であった。
そのまま眠りに落ちた蒼香が起きたのは食事時間が終わる二分前。微妙な時間だ。
当然、遅刻扱い。さらに食事抜き。
食い物の恨みはおそろしいのである。
羽居は思い知った。
後ろから走り寄るあの突風。そう、蒼香は疾風(かぜ)になったのだ――
というようなことを三度ほど繰り返した揚げ句、こういった状況に陥ったのである。
仏の顔も三度まで、という言葉を実践するととりあえず怒られるらしい。
さすがに蒼香でなくとも怒るので、羽居の自業自得とも言う。
とりあえず本人は楽しみながら逃走中。
追いかけっこと思っているふしがあった。
廊下を走るとシスターに怒られるので、人の目が無いところだけ本気で遁走。
「待てって言ってるだろうがぁっ!」
「そんな怖い顔、蒼ちゃんじゃないなっ。ホンモノはどこにいったのー?」
「……羽居、絶対に蹴ってやろう。そこを動くな」
「わぁっ、ホンモノー」
「……わざとやってるだろ?」
走る。追いかける。
意外に羽居は早かった。ゆっくりと走っているようなのに、その動きには無駄がない。
ひとの間をすり抜けていく。廊下に埋め尽くされていた人波を、かきわけていく。
隙間が無かった。足を止めざるを得ない状況に追い込まれた羽居は、振り返る。
様子を見て取った蒼香は、覚悟を決めたらしき羽居に歩み寄っていく。
とある下級生を挟んで、ふたりは対峙した。
下級生の名は、瀬尾晶という。
「……え?」
「さぁて、羽居、そろそろ大人しくお縄につこうなー」
「うーん。蒼ちゃん、痛いことする?」
「する」
「じゃあいやー」
「えー犯人に告ぐ。お前さんに黙秘権は無いし、弁護士を呼ぶ権利も無い。選択権はもっと無い」
「横暴だーっ」
「うっさい。さっさととっつかまれ」
「ふっふっふ」
含み笑い。羽居が不敵に微笑んだ。晶の背後から。
『何故か』巻き込まれたらしき晶はええっ?と前を後ろに交互に視線をやる。
そして『何故か』がっちりと腕を掴まれていた。逃げられない。
さらには、『何故か』羽居が盾のように全面に押し出してくる。目前には怖い顔。
「……あのー」
「わたしには心強い味方がいるということを忘れてもらってわ困るな。へっへっへー」
「ほう。そんな物好きがいるとは思わなかった。いったいどこの命知らずだ?」
「目の前に、わたしの盾になってくれようとずっといる晶ちゃん」
「……え、あの、へっ?」
「ほう。アキラ、お前はあたしに逆らうのか。まあ、それは自由だが……覚悟はいいよな?」
「うん」
「……あ、あのー。三澤先輩も月姫先輩も……なにを」
流される人生。晶はとりあえず話題の渦中にいた。
「ていっ」
「……とうっ!」
「うわわわわわぁっ!」
初めのかけ声は羽居である。とりあえず押してみた。後ろに退くことができないのなら、と。
突進気味に蒼香に向けて発射された小柄な体は、実に真っ直ぐに飛んだ。
ふたつめのかけ声は蒼香であった。ひらりと避けたその動きは、まさに闘牛士の装い。
華麗なステップを踏んで、特攻してきた鉄砲玉を危なげなく避けたのだった。
三つ目の悲痛な叫びは晶である。不運にも人間の詰まった廊下へと撃ち込まれた弾丸。
そのまま止まることもできずに、一気に周囲の人間を巻き込んで倒れてしまった。
お嬢様といえど、お嬢様学校といえど、その内情はどろどろとした場所である。
所詮は、人間。
殴られれば痛いし、怒りもする。でも、先輩は怖い。
どうなるか。
建築に於いては、最も弱い部分にその荷重が掛かることになるという――
至極当然、瀬尾晶が追いかけられた。後ろからスカートを翻して迫り来る悪鬼の群れ。
激流のように留まることを知らぬ足音の連弾は、優美さの欠片も持ち合わせてない。
勢いに驚いた羽居が逃げた。
それを蒼香が追いかけた。
その後ろから晶が付いていくように後ろを走る。
数十人単位の暴徒(但し、皆お嬢様)が目をつり上げ髪を逆立てていた。
追いかけられるうちに、晶はふと思った。
ランナーズハイ。
それは、そろそろ酸素が尽きるころに見る幻覚なんだ、と。
羽居の後ろには数十人の怒りの顔があった。
特に、蒼香は真剣な表情だった。必死の形相だった。
「待て羽居ーっ!」
叫び。真摯なまでに熱の篭もった声と視線。
怒りに顔を赤らめている蒼香の様子に、羽居はふと振り返り、手をあごに当てる。
得意げな顔だった。
「……愛の告白ー?」
「違うわっ!」
「えええっ! 先輩がたってそういう趣味だったんですかっ!?」
立ち止まりどよめく後輩一同。
何故か頬を赤らめる人間が続出していた。耳まで真っ赤。
「こうして世界は愛に包まれて平和になるのでしたー。えへへー、愛って偉大だねー」
「なってたまるかーっ!」
「えーでもー」
ほらっ、と指差した方向には、蒼香に向けて熱い視線を送ってくる後輩たち。
「え?」
「ほら。いまの流行はソフト百合だよー?」
「蒼香お姉さまって呼ばせてください! お姉さまっ」
「待て、お前らーっ!」
「その怒ったお顔も素敵……」
「お姉さまは渡さないわっ」
「わたくしたちの誰をお選びになられるのか、蒼香お姉さまにお聞きしませんこと?」
こうして浅上女学院には姉妹(スール)制度ができたとかなんとか。
「晶ちゃんはー?」
「あ、えっと……わたしはっ――」
「くしゅんっ」
遠野の屋敷で、紅茶を飲みながらくつろいでいる秋葉。
その背筋に、ぞくり、とやたら冷たいものが走ったそうな。
完。
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