うみのあお、こころのそら

 お願いがあるんだ。ほら、聞いてくれるかい。へんてこなひとりとひとりのお話を。そうさ、ふたりじゃなくて、ひとり同士の不思議なお話。
 なんでふたりじゃないのかって? それはね人間は、生まれた瞬間からひとりだからだよ。そして自分が母親から別れて、世界に生まれてしまったことで泣くのさ。
 誰もが独りで生まれる。誰もひとりでは生きていけないのにね。だから僕らは孤独なんだ。そして、ありもしない夢を望むんだ。
 ねえ、キミだって、僕だって、何かを忘れてしまうんだろう。いつかはね。
 だけどさ、人間はひとりとして生まれてきて泣くけれど、それは悲しくて泣くのかな。それとも嬉しくて泣くのかな。僕は聞いてみたかったんだよ。ずっと、長い間さ。
 キミは、どうして泣くんだい?


 空一面に青が広がっている。波打ち際だった。ふたりで砂浜に腰掛けている。砂に付けられた足跡はふたり分、でもひとつはもうひとつに比べて僅かに小さい。ふとした瞬間、波にさらわれて消えてしまうと、もうどっちから歩いてきたのか判然としなかった。現実感を失った空間だ。彼は靄がかった頭がはっきりするごとに、様々な疑問を脳裏に浮かべた。答えを知っているような気がして、それを隣の少女に聞くことは躊躇われた。
 大人びた口調で、彼女は質問してきた。
「こんなところで、どうしたの?」
「なんでもないよ」
「そうかな。そうは見えないけど」
 視線は重ならない。彼が見ている先には海がある。彼女が見ているのも海だった。彼は少女に聞いた。
「ここは、どんな海なのかな」
「しずかな海。深くて、やさしい場所」
「へぇ」
「あなたにはどう見えてるの?」
「なんとなく暗い場所だね。底が見えなくて、重い色だ」
「そっか。なら、悲しい海なんだろうね」
「僕とキミとはまるで違う景色を見ているのかな」
 少女は黙ってしまった。しばらく考えてから、こう答えた。
「あなたとあたしは全くおなじ景色を見て、違うって感じてるかもしれないね」
「たとえば僕があなたであるように?」
「そう。あたしをキミって呼ぶみたいに」
 海はときに凪いでいると見え、荒れ狂っているかのごとくうなり声を上げてもいた。舟は見あたらない。周囲には人間の姿は見えなかった。
「じゃあ、どっちも正解かも知れない」
「間違っているのかも知れないけど、わたしたちには関係ないんだと思うよ」
 ふうん、と彼は頷いた。
「これはたとえばの話、もしかしたらここには海と砂浜だけがあるのかもしれない。そういうことかな」
 少女は彼の問いを無視して告げた。
「ね、どうして来たの」
「どうしてって……ヒドイなぁ。僕はここに来ちゃいけなかったのかい」
「うん」
「なら、謝るよ」
「ううん、あやまらなくていいよ。ただちょっと、不思議なだけ」
「キミは彼を……」
 言いよどむ。それから時間を置かず、口は勝手に動いていた。
「――は、どうして?」
 問う声は、波の音に弾けて散った。少女は聞こえていたのかいないのか、茫洋とした瞳を海に向け波の音色に耳を澄ましている。答えが返ってくるのを辛抱強く待ち続ける。やがて水面に銀色の雲が映り込み、それが遙か遠方へと流れてゆくのを見届けてから、少女は口を開いた。
「それはあなたが一番分かっていることだよ」
 ひどく優しい声だった。衝撃を受けた風もなく、彼は言葉を風に乗せた。それで、いま気づいた。雲を運ぶようにして強い風が吹いていた。
「でも僕は」
「辛い?」
「いいや、辛くはないさ。それこそが僕の望んだことだったんだから」
「本当に?」
「本当だよ」
 それだけ答えて、ふっと黙り込んだ。
 少女は責めるでもなくつぶやいた。
「うそつき」


 空が落ちてくる。
 彼は一瞬、目を閉じた。
 錯覚かもしれなかったし、真実、そういった現象が起きたのかも知れなかった。どうやら少女はあっさりといなくなっていまったようだ。彼は困ったように頭をかいて立ち上がると、その場から歩き出した。
 目的地などなかった。
 そもそも、ここがどこだかも分からなかった。
「まいったな」
 ただひとつだけ僥倖と言えるのは、体が思うままに動くということだった。心配の必要がない健康な体とは、意識せずに行動できるだけでもありがたかった。
「仕方ない。探してみよう」
 消えてしまった少女を捜すかどうかは別として、海から離れて歩き続ければどこかには着くだろう。それに、彼には目的がなかった。ただ時間だけは存分にあるらしかった。皮肉なものだ。持っていなかったはずの、時間と不安のない体がしっかりと存在していることを考えるに、どうしても納得がいかない。
「やっぱり、僕は死んだらしいね」
 かといってここが死後の世界とも思えない。ならば答えはひとつだ。想い出と夢を寄せ集めて作った不変の楽園。想像上だけではなく、身近なものとして理解していたそこにいることを肌に感じ、彼は笑い出しそうになった。
「ああ、そうか。僕はもう」
 ――帰れない。
 口にしてしまったら、二度とは戻れない気がした。発作に似た笑えと共に内側から湧き出てくる震えがどうしてか止まらない。足が揺れ、力が入らなかった。足を動かし続けていようと決めてからまだ何分も経っていないというのに、腰を下ろし、その場から動けなくなってしまっていた。
「寂しいときに独り言が増えるっていうのは本当らしい。まったく。孤独には慣れていたつもりなんだけどね……」
 ぼんやりした表情を隠さずに空を見上げた。さきほど少女がやっていたことを真似て耳を澄ませてみる。聞こえるはずもない鳥の声を探し、見つかるはずもない虫の姿を求めるみたいに。
 どれだけ待てども音がすることはなかった。もしかしたら、ここには色もなかったのかもしれない。彼が空は青く、海もまた青いと思いこんでいただけで、それが本当だとは限らなかった。ただ彼は無言で待ち続けた。いつしか無かったはずの音が生まれていたとも気づかずに。
「なにをやってるの?」
「キミを待ってたのさ」
「口説き文句?」
「それもいいかな……、いや、想い人のいる綺麗で気高いレディーに僕は相応しくないからやめておこう」
「そう。ありがと」
「どういたしまして。お礼を言う側は逆だと思うけどね」
 肩をすくめる。少女は苦笑して、手を差し出した。
「どうぞ」
「感謝するよ」
「うん」
 ゆっくりとした空気が流れているのを感じ、彼は立ち上がった。掴んだ手を少女が離さないことを訝しみつつも、顔を向ける。少女が楽しそうに口を開いた。
「お礼、いる?」
「モノによるかな」
「あたしにできることなんて、多くないんだよ」
「じゃあお言葉に甘えさせてもらうよ」
「手、握ってて」
「これでいいかい」
「離さないでね」
「あ、うん」
 瞬きをするために目を閉じ、まぶたを押し上げるのに苦労した。ひどく光の質が違っていたことに気が付いていたからだ。太陽に近い、とでも言えば分かりやすいだろうか。海の上を歩み、わたがしじみてふわふわとした雲を容易く渡る。透明な階段を昇り、自分がどこにいるのかを見失った彼がきょろきょろを物珍しそうに上下左右を見回した。
 自失していた時間はほんの刹那だ。しかし少女はどう? と言わんばかりに手を広げて眼下に広がる光景を指し示していた。
「あたしについてきて」
「どこまで?」
「もっと、高く」
 遙かな高みへと到達すると、在るはずの大気の圧力すら薄れているようだった。いま経験した足の動きも全方位に広がった景色も、まるで夢のようであり、また現実のごとく鮮明で詳細な空気の触感に戸惑ってしまう。
「これ以上昇ったら見えないから、ここまで」
「ここに連れてきてくれた理由はなんだい」
「下、見える?」
「見えないね」
 広大な海だけが、視界いっぱいに横たわっている。この高さからでは舟の一艘や二艘が航海していたところで豆粒ほどにもならないだろう。無論、人間の姿など論外だ。何もかもスケールが違いすぎて一瞬我を失いかける。喋ることが出来たのはひとえに彼には疑問があったからだった。こんなことができる理由はどうでもよかった。ただ、どうしてこんなことをするのか、知りたかったのだ。
「どうして」
「知ってほしかったからだよ」
「僕に?」
「そう、あなたに」
 彼は息を吸い、気分を落ち着けようとした。実際、自分が幽霊等の概念、つまりは形而上の存在になっていると考えていたために、そんなことができるかできないとか、半分超越していた。あるがままに受け止めていたというよりは、自分の状態を忘れていたと言ったほうが近い。
 気の弱い人間であれば、下を見れば失神くらいしたかもしれない。足場のない不安感は死の恐怖に匹敵する感情だった。それは単純に、足場がなければ落ちるという常識に従って生きているからに過ぎない。死が未知であるがゆえに、あんなにも恐ろしいのだと気づいているからに過ぎない。やがて来るもの、知り得ぬものについて、考えることをやめてしまえば、恐怖は軽減できるようだった。
 受け入れてしまえば、それはもう流れとしか呼びようのないものなのだ。人間がいつか死ぬことも、いくら考えないようにしようとしても思考を止めることは出来ないこと、そして人間の記憶は薄れゆきやがて忘れることができたとしても、ひとたび起きてしまった出来事は決してなかったことにはならないことも、否定できない事実なのだから。
 異常なまでの高さから地上を見下ろしていると、あらゆる現実はちっぽけなものに思えてくる。それは俯瞰する人間の傲慢とは言い切れまい。世界に比して人間はとても小さく、また無力であることは真実だ。畢竟、世界はあまりに大きく、大きいがゆえにヒトなどという種族には無関係に動いている存在に、しがみついているだけ。
 何が起ころうと、起きまいと、世界は厳然と存在し、昨日から今日へと続いている。そしてたぶん、明日も明後日も、ひとりの人間が知ることの出来ないほど遠い時間――永遠に近しい時の流れは、続いてゆく。
 時の流れは記憶と過去を風化させ、砂と散った思い出と時間は、現在という瞬間から常に零れ落ち続ける。何度となく打ち立てた碑はそのたびに朽ち果て、再び幾らかの砂粒と化し、原初の世界より発生した海を取り囲む。美しい海は材料、輝く砂は残骸、であれば空は変化し続ける気まぐれな鏡か。
 すべては無意味なのだろうか。永遠の前に、人間はその小さき生を全うする価値はあるのだろうか。あるいは永遠すらも、不変ではなく、いつかは滅びのときを迎える概念に過ぎないのかも知れなかった。彼には何一つとして知る術はなく、また、その答えを知る理由も思いつかなかった。
 少女は困ったように語り出す。
「あなたも分かってるんだよね。もし誰も知らない出来事があるなら、それは起きなかったわけじゃないから。見えないことも、気づかれないことも、無いってことと等しくはないんだって」
「何の話かな」
「氷上シュンは、亡くなってるんだよ」
「そうだね」
「ねぇ」
 少女は首を傾げた。小鳥のように、という形容は当てはまらなかった。たぶん泣きそうな顔をしていたのだろう、と彼は真正面から彼女の顔を見つめて、思案した。泣きやませる方法は憶えているけれど、泣くのをこらえている相手には通用しないからだった。
 分かっているくせに、彼女は口にした。
「あなたは、だれ?」


 気が付くとまたひとりぼっちだった。所詮、フリに意味など無いのだ。分かっていたことだった。
 もう、彼は空の上にはいなかった。最初に来た砂浜で腰を抜かして座り込んでいた。立ち上がるだけの気力はなかった。傍らに少女はいなかった。見つめた海は決して明るい色に輝いてはいなかったし、砂浜は不法投棄されたゴミでいっぱいだった。
 無数の疑問が彼の頭を埋め尽くす。今まで出逢った数多くの人間が思い浮かんだ。その誰一人として彼に正しい答えを教えてくれる者はいなかった。胸が痛んだ。誰もいないこの景色が、どうしようもなく綺麗すぎたからかもしれない。たとえば人間は永遠に停止することなどできないのだ。生きている限り動いているから。心臓も、思考も、動き続けなければ生きられないから。
 海に視線をやるうちに脳裏を過ぎったのは、少女についてだった。
 太陽に大きな雲がかかる。白かった砂浜には歪な陰りが降りていた。
 思い出せないから、あの少女のことを想像してみる。あの少女の横顔は遠くを見ているようで、想いを馳せるみたいで、それなのに長く泣いていたのが分かってしまう。何度思い描いても真っ赤に泣きはらした目と、気遣うような微笑みは変わらなかった。それが胸を痛める原因だとはっとした。
 生きることは悲しいことだらけなのに、それが分かっているのに、人間が悲しみを捨てきれないのは何故だろうと、そんなことを思う。
「みさお……」
 口にした名前は懐かしいものだった。だが、彼は自ら首を振って否定した。
「違うよな……」
 あれは、みずかなのだ。
 なぜなら永遠を求めて、盟約を交わした相手は妹ではないからだ。妹の死。それは彼にとっての一番奥深くに沈められた記憶だった。重ね合わせた相手は瑞佳だったけれど、作り上げられた存在はみずかで、ずっと彼を見守り続けてくれていた。
 これで最後なのだ。そう理解できることさえも、悲しかった。
 考えてみれば、ひどく残酷なことをしていたのだと彼は思う。虚構に救いを求めて、それを作り上げてはみたものの、長い間逃げ込むことができなかったのだから。失うことが怖くなったから、永遠のある世界に行くという、その逆説の論理。
 絆が深まらねば必要とされない別れ。なんという愚かさだろう。虹を見るためには雨が降ることが必要だし、離別のため出逢わなければならないとでも言うような。それは真実ではあるけれど、考えてしまうと、ひどい空虚さにおそわれた。
 つまりは、帰るために、行くのだ。
 彼は永遠の不在を知るために、繋がった絆を確かめる。帰る意味を見失ったときこそ彼は無と帰して、永遠は確固たる現実と化す。失われたものは、失われたままだから。
 ならば永遠はあるのだ。
 どうしようもなく、悲しいことだけれど。



 記憶の中で、難しいことは何ひとつだって無いんだよ、と少女は笑った。でも生きることは容易くはないんだ、と彼は言い訳するように答えた。顔をつきつけあわせて、ひとりとひとりはにらみ合った。
 たぶん、どっちかが嘘で、どっちかが本当なんだよ。
 ふたりは口を揃えて叫んだ。
 そんなの、誰が決めるの?
 世界はずっと昔から続いている。始まりも終わりも見えないくらい遙か向こう。でもどっかから始まったのは確かなことだし、終わらないものなんてこの世には無いってこともみんな知っている。そんなあやふやなことに縛られながら、始まりをおぼえていない人間たちは、終わりだけを意識して生を求める。
 かくかくと操り糸が上から伸びて、まるで人形みたいに動いている。
 舞台の上、ひとの扮した人形は問いかける。コッペリア、コッペリア、あなたは生きてはいないし魂も持っていない。どうして人間はあなたに恋したの、あなたはなんで人形なの? コッペリアは応えない。答えられない。だって彼女は人形だから。じゃあ、問いかけた人形は生きている? 魂も持っている? いやいやその人形は人間が扮しただけ、人形の振りをした彼女は告げる。人形は決して人間と恋におちないと。
 人形は乙女に壊された。
 ――人形は、声もなく歌を唄う。
 忘れないで。
 忘れないで。
 あなたが生きているこの世界には、あなたでない誰かも生きているのよ。
 人形の歌は誰にも聞こえない。唄っていることすら、きっと知られてはいないのだ。
 かくして悲劇は喜劇にすり替わり、綺麗な結末が待っている。人形に恋した男は人形に扮した乙女に奪われ、人形を作った男はそれを許す。見まごうことなきハッピーエンドのあとには、舞台に置き去りにされた人形がひとつ。幸福な終演を見届けると、人形はすくっと立ち上がり、満足げな素振りでどこかへ去ってゆく。その行方など誰も知らない。誰も知らねど、ただ人形は壊れた体を抱えて、心の赴くままに生きてゆくのだ。
 海に揺らめくひかりが、目に入る。海は空の色を映していた。光も、その中に飲み込んでいた。
 思い出し、忘れながら、彼は目の前にいた少女に近づけないでいる。認めてしまうのが怖かった。終わってしまうのが恐ろしかった。何より、それを避け得ないことを知っている自分が何より嫌だった。
 優しい夢の終わり、記憶は、青く透明な海に行き着いた。
 たゆたう水の感触に包まれる。一艘の舟は激しい波に揺らされ、飲み込まれそうになりながら、その世界を通り抜けようとする。人間は海を捨てることは出来ない。空を映し続けることで、それを恐れないようにしてきた。
 少女は叫ぶ。
 叫ぶ。
「忘れないで!」
 誰のことを? それとも、何のことを? 口にしない問い。
「あなたが大切にした誰かのことを!」
 だけれど、あの親友はもういなくなってしまったのだ。帰ったなら、また独りになることを怯えなければならない。それが怖くないなんて彼には言えない。世界は大きく、彼は小さくて、空も海も変わり続け、いつか望んだような永遠など無いのだと気づいてしまっているために。
 肯定することも、否定することもできないのは、ひどく苦しいことだった。明けない夜は無いのかも知れない。しかし夜もまた何度だって訪れるのだ。暗闇はゆっくりと深さを増してゆき、いつかは飲み込まれ、朝を待つことが出来なくなる気がした。
 こわばった表情を解きほぐすだけの余裕はなく、彼は必死に少女に近づこうとする。体が後ろへと引っ張られ、足は地に吸い付けられたかのように鈍重で、膝から崩れ折れてしまいそうになるのを堪えるのが精一杯だった。
 それでも、海は厳然としてそこに――眼前に広がっていて、その前に、少女はまっすぐに立っている。
 少女は、さらに強く、叫んだ。
「こうへい!」
 浩平は自分の名前を呼ばれた瞬間に、この世界のことを知った。自分が誰かなんて、初めから分かっていたことだった。それでも分からないでいたかったのはその名前を呼ばれることによってこの世界が壊れるのがなによりも不安だったから。
 誰がこの少女の役割を演じているのか、知っていた。
 だけどそれももうすぐ終わりだった。安心させてあげなければと、浩平はほんの少しだけ思った。もう大丈夫だからとか、ずっと見守っていてくれてありがとうとか、そういった言葉をかけることができないことが、残念ではあったけれど。
 だから、さようなら。
 ありがとう。
 少女は、必死に叫び続けていた。祈りを捧げているみたいに見えた。
「どうか……お願いだから、どうか――」
 立ちすくんだように動かない浩平に向かって、希う。

「――生きることをあきらめないで!」



 目が覚めた。それからと、それまでのことを、浩平はよく憶えていなかった。
 シュンが長いあいだ眠っていたというベッドの前で突然、倒れたらしかった。故人を偲ぶということで気を遣われてか、彼の部屋で一人にしてもらっていたから、意識を失っていた数分間のことは気にしなくても良さそうだ。
 訃報を聞いてからすぐ来たものの、見舞いというには遅すぎる来訪だし、彼のために線香を上げるというのも何か違う気がした。友人が訪ねてきたということで彼の両親が驚いて歓迎してくれたくらいだから、あまり拘らなくていいのかもしれなかった。あまり話すような内容もなかったから、助かったとも思った。
 だからこれは単なる感傷なのだろう、と浩平は自分に言い聞かせた。
 悲しいとは思わなかった。僅かに寂しいと感じた。そんな自分の感情にはっとして、あまり物の置いていない部屋を見渡す。うっすらと埃を被った一台のピアノがつつましげに壁に沿って設置されている。机の上には教科書が無造作に積まれ、真面目に勉強していたのを示すように、数冊のノートが並んでいる。いま自分が着ているのと同じ学校の制服がきれいに折りたたまれているのを見て、浩平は長いため息を吐いた。
 知らず自分が泣いていたことに気づいたのは、ベッドにかけられた真っ白なシーツを目にしたときだ。誰のために泣いているのか、どうして泣いてしまったのか、わけのわからないままに涙は流れ続けた。腕でぬぐって部屋から出ると、お盆にコップを載せて廊下を歩いてきたシュンの母親と出くわした。冷たいものでも出してくれるつもりだったらしいが、浩平は歓談する気にはなれなかったため、頭を下げるに留める。
 氷上家を辞去し、帰り道を行く。向かい風が吹きつけ、妙に冷たかった。
 慣れない道を歩き続けているうち、やがて学校を越したあたりで、私服の瑞佳の後ろ姿が見えた。一端帰宅してからどこかに行くところらしい。浩平は声を掛けないで、そのまま通り過ぎた。
 どれだけ歩いただろうか、ようやく自分の家に着くというときになって、後ろから声が掛かった。
「まって、まってよぉ! 浩平ってばっ」
「……あれ、瑞佳か」
「ひどいよ。さっきからずっと呼んでたのに……。気づかないで行っちゃうし」
「さっきって?」
「学校の近くで、浩平がわたしの後ろを通ったでしょ?」
「ああ」
「そのときからだよ」
「でも、あそこからだとけっこうな距離だぞ?」
「だーかーらー、ずっと呼んだんだってば」
「そりゃ悪かったな」
 素直に謝ると、瑞佳が目を丸くした。
「どうしたの? 何かあったの?」
「どういう意味だ」
「だって、浩平、泣いてたじゃない」
 当然のように答える瑞佳に、刹那、返す言葉に迷う。
「……いや、泣いてないぞ」
 拭いたはずだった。涙もとうに乾いていた。
「ううん、泣いてた」
「まぁ、いいや」
「良くないよ。ねぇ浩平、何かあったんだよね?」
「あったかもしれないし、なかったかもしれない」
「またぁ、そういうふうにごまかすんだから……」
「ごまかしてないぞ。ごまかす理由なんて無いしな」
「あるよ。浩平は意地っ張りだもん。それにね、言ってくれなきゃ分からないこともあるんだよ?」
「大丈夫だって」
「ホントに?」
「たぶん」
「……でも、良かった」
「なにが」
「だって、浩平が……」
 瑞佳が言葉に詰まった。言うべき内容を見失ったというより、何かで感極まって、といった方が正解に近そうだ。
「……え、浩平?」
「オレがオレ以外に見えるなら今すぐ目の検査行ってこい」
「ちょ、ちょっと待って」
「あのな、瑞佳」
「……浩平、わたしのこと、名前で呼ぶんだ」
「あれ、前までなんて呼んでたっけ」
「ううん。いいんだよ。でも……そっかぁ、そっかあ……」
 瑞佳が、ひどく嬉しそうにしていた。
「あー、えっと、嫌なら長森に戻すけど」
「イヤじゃないよっ」
 珍しく真顔で叫ばれた。困ったように気を変えさせようとして声を張り上げるのとか、追いかけてくるときにやたらと名前を呼ぶので大声を出すことはあっても、こう真正面から真剣に言われると妙な気分になってしまう。
「そうか」
 反応に困り、なんとか頷いた。言わなきゃいいのに余計なことを付け加えた。
「まあ、なんというか、だ。瑞佳がオレのことをめちゃくちゃ愛している、ということがハッキリしたわけだな」
「わぁーっ! こうへいっ! そういうこと道ばたで言わないでよぉー!」
「……え?」
「ダメだよ、恥ずかしいよ……もう浩平のばかっ」
「この場合オレが悪いのか?」
「そうだよっ」
「待て! いや待たなくていいから聞けっ」
「うん、聞くよ」
 口にしようとして、一端腕を組み、照れたような仕草で元に戻し、それから浩平は瑞佳に向かって告げた。
「……いつも、ありがとうな」
「え、う、うん」
 戸惑った瑞佳の手を取る。
「というわけで、金がない、カップラーメンも底を尽きた。由起子さんは今日はいない。これで言いたいこと、分かってくれるな?」
「もう……はいはい。晩ご飯、材料持って作りに行ってあげるから。はぁ……今日の浩平はちょっとヘンだけど優しいって思ったわたしがばかだったんだ……」
「あと……それからな」
「うん?」
 忘れるためには無くすのではなく、憶えていなければならないけれど。
 悲しみを知らなくても、喜ぶことは出来ることをもう知っている。未来の礎となる過去は、知らずにそこに積み重なっているものだろう。ならば対価などいらない。海にこぎ出す一艘の舟には希望だけを詰め込めばいい。
 何より、幸せになるためには、心ひとつあれば充分だった。
 笑みを浮かべて、きっぱりと口にする。
「――感謝してるのは、本当だぞ」
 それを聞いて瑞佳が赤くした顔を、浩平は素直に可愛いと思った。

(了)

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