月は隠れている。
 暗い空を見上げて、暗い夜としか感じない。
 いまにも雪が降りてくるような、そんな暗闇。
 この場所に音は無い。
 学校という空間は、夜に来るべきものではない。
 夜の校舎は、寂しさだけが全てを支配する。
 昼間の喧騒も、明るさも、日常も嘘になるような、寂しさ。
 電気の灯りは、道路と眼前の壁を白く染める。
 誰もいないことが、そこを廃墟のようにしか見せてくれない。
 あたしだけを照らす青白い人工の輝き。
 周囲を囲むように植えられた木々は、葉も残さず。
 あたりには何も無いゆえに、学校の近くの道路を通る車も無い。
 誰一人として、近づかない世界。
 隔離された、一面の同色に囲まれて。
 動かない自分ごと、全てを見回していた。
 冬の風が通り過ぎる時、あたしの身体から熱を奪っていく。
 時間は、止まることなく流れていく。

 待っているから、此処にいる。
 誰を待っているかは、知っている。
 だけど、理由は自分でも判らない。

 あたしの姿は、静かに佇む。
 校舎に入ることも出来ず、感慨も無くそこに立つ。
 影を落とすのは、似たような影の中に。
 何も考えていない。
 寒いな、と思いながらも、何をするわけでもなく立ち竦む。
 ふと、気付く。
 いつも、楽しかった日常に。
 誰よりも、何よりも優しい親友に。
 空虚な、自身の感情と意味。
 自分から失ったものは、取り返せない。
 捨て去った痛みは、何処に在るのか。
 思考は止まらない。
 苦しみを知らない者は、生きていくことなど出来ないのだから。
 闇は何も教えてはくれない。
 ただ、同じ姿を持った影を浮かび上がらせるだけ。
 不意に、身体を震わせる。
 熱を吐息として吐き出してみる。
 少しだけ残ったあたたかさは、冷たさを尚更強く感じさせる。
 凍て付くような、そんな寒空の下。
 あたしは、明るくもなく優しくもない、星の無い夜空を見上げていた。 
  

 いつからだろう。
 錆びついたように、
 空洞が出来たように、
 凍てついたように、
 心が、冷めていったのは。 

 ……奇跡が起こると信じていた。
 誰よりも、きっと。

 ……奇跡が起こってほしいと願っていた。
 いつも、ずっと。

 そして、
 ……奇跡が起きないと知った。
 あの日。

 あたしは、祈っていたのだろうか。
 あるいは、縋っていたのだろうか。

 奇跡に、ただ。

 たったひとりの妹の、幸せはどこにあるのだろう。

 あたしの逃げ出した弱さ。
 壁を作った心。
 あの子の強さ。
 幸せだった過去。
 なんでもない日常。
 すべてが、あたし自身を苛む。

 だからもう、信じてなどいない。
 奇跡を。
 そして、自分自身も。

 救いを求めることなど出来ない。
 
 ならば、何故?

 あたしは此処にいるのか。
 何故、あたしは、彼に電話しようとしているのか。
 何を伝えようというのか。

 妹などいない。
 妹など、いない。
 妹など……いない。
 自分から逃げたのに、今更なにが出来るというのか。

 けれど、それでも。
 真実を告げることが、あの子と彼の苦しみをやわらげることが出来るというのなら。
 未来を、少しでも後悔のないものに変えることが出来るというのなら。
 あの子の想いが、それを望んでいるのだというのなら。
 今、ひとたび……
 この苦しみを、思いだそう。

 ――――すべてを。









 『静夜』  作者:yoruha









 想いを馳せるのは、来ることはないと知っている未来に。
 過去には戻れないけれど、痛みは今も続いている。

 終わりを告げたのは十二月二十五日。

 ――――切ないほどに静かな、聖誕祭の夜に。


 その数日前。
 市内の病院にて。
 おそらく、終わりはここから始まった。


「お嬢さん……つまり、栞さんはあと……年を重ねられると思わないで下さい」
 唐突に、意識が引き戻される。
 おそらく、その言葉が向けられたのは、あたしにではない。
 だが、訊きたくもない言葉の羅列の後、それだけが耳に残る。
 この言葉は、少なくとも三人に言葉を失わせるのに十分だった。
 ひとりは、父。
 ひとりは、母。
 そして、もうひとりは……あたし。
 沈黙が部屋を満たす。
 母から伝えられていた。
 それを、あたしは知っていたはずだった。
 それでも言葉は出てこない。
 あたしはかろうじて、声を出す。
「どういう……意味ですか」
 それは、もはや声になっていなかったと思う。
 あたしの横で苦しげな顔をしているふたりの口は、開かない。
 だから、あたしが言うしかない。
 たとえその声が、無理矢理に喉の奥から吐き出した物だとしても。
 だが、目の前にいる白衣の男。
 つまりは医者――栞の担当医には、なにが言いたいのか判ったらしい。
「覚悟をしておいて下さい、ということです」
 淡々と、事実だけを述べる。
 やはり、この人も辛いのだろう。
 感情を見せないのは、医師としての義務。
 言葉の端々に、苦労が見える。
 死をその眼に、何度も見てきたからこそ。
 それでも、感情を抑えきることなどできない。
 だが、予想がついていたことでもあった。
 栞の命が、もうすぐ尽きるということは。
 いままでずっと、病院に居続けていたのだから。
 治る予感すら、なかったのだから。
 けれど……実際に言葉にされてしまうと。
 何かが、崩れ落ちたような気がした。
 最後のバランスが、音も立てずに、あまりにもあっさりと。
「じゃ、じゃあ、栞は……」
 かすれた声で、父が訊く。
 もう、判っているはずだ。
 認めたくないのだろう。
 医者が、静かにうなだれた気がした。
 現実感のないこの空間で、ふと、外を覗ける窓を見る。
 空が暗い。
 いや、暗い空を嘘のように感じた。
 現実感は、あった。
 ならば、あたしが現実逃避したがっているのだろう。
 出来ることなら、訊きたくなどなかったから。
 けど、真実を知らなければならなかった。
 それは、姉としての義務。
 美坂栞という、この世でただ独りの人間の、ただ独りの姉としての責任。
 暗い空を覗き込み、月すら出ていないことに安堵を覚えた。
 月の光でさえ、今のあたしには強すぎる。
 そう、思った。
 視線を室内に戻すと、三人が固まって話していた。
 おそらく、泣いている母を宥めているのだろう。
 嫌だった。
 こんなところで、泣くのは。
 こんなところで泣いたら、栞に会ったときどんな顔をすればいいのだろう。
 きっと見破られてしまうに違いない。
 だから、ここでは泣けなかった。
 だから、今は泣くわけにはいかなかった。
 今のあたしはどんな顔をしているのだろう。
 無表情なのかもしれない。
 睨みつけているのだろうか。
 それとも、涙を流していないだけで、泣いているのか。
 何かを医者が言っている気がするが、まったく耳に入らない。
 もう、なにもかも、どうでも良かった。
 ただ、栞のことだけが頭の中をぐるぐると回っていた。
 あの子が、窓の外をいつも楽しそうに見ていたこととか。
 少し前に渡した本を、楽しそうに読んでいた様子とか。
 その本に書いてあった言葉で、栞が何を思ったのかを知りたいと思って、
 何となく、私もその本を買ってみた。
 
 なにが正しい答えなのか、正しい答えなどあるのか。
 答えの存在すらあやふやで、
 自分にしか、解らない答え。
 何かの、名前。
 意味。

 ……そんな問いを、栞が考えていたのを知って。 


 二日間。
 栞は詳しい検査のために病院に通うことになっていた。
 平日であることは関係ない。
 この時期は既に冬休みへと入っている。
 更に付け加えるのならば、……学校に出ることも出来ないのだから同じことだ。
 両親もつきそう形で泊まっている。
 こちらにはなにも心配無いから、それは別にかまわない。
 それに、あんな話を聞いてしまえば両親の行動はよく解る。
 だけど、あたしは行けない。
 あたしには、そんなことをして普通でいられる自身がなかったことと、
 ただの検査に、あたしが泊り込むほどの不自然さを考えてしまったからだ。
 幸い、食べるものは栞が作ったおかげであり余っている料理らしきものの残骸がある。
 冬休みの課題にあたる物も、課題が発表された時点で終わらせてあったため、もう残っていない。
 やることと言えば、栞にしつこいほどに頼まれたドラマの再放送を録画するだけだ。
 それすらも、予約を入れておけばそれほど心配することも無い。
 つまりは、もうやることはないということだ。
 栞が病院にいるおかげで、自分の様子など考える必要が無いことは、少しだけ気が楽だった。
 明日と二十五日は学校へと登校しなければならないが、それほど不快ではない。
 単純に、部活の打ち合わせのためだ。
 大変な作業は無いし、部員は恋人がいても二十四日には来る必要は無いため、文句は出ない。
 あたしとしても、毎日のように陸上部の活動のある名雪と会えるのは、楽しいと思う。
 まあ、名雪とは、油断していると電話がかかってくるので会えなくてもどうということも無いが。
 ぼんやりと、昨日の出来事を思い返してみる。

 ……嘘だったら、よかったのに。

 まぎれもない現実だと、悲しいくらいすぐに確信する。
 現実が、残酷なんて知っていたけれど。
 どうしようもなく、冷たさを感じた。
 栞がいないだけの、何事も無い、ただひたすらに平凡な日。
 その、あまりに静かな一日は、長く感じた。

 
 次の日も、ぼんやりとしていた。
 終わらない思考の円環。
 考えれば考えるほど、逃れられない。
 容易に突き落とされるのは、何故だろう。
 現実が残酷になるだけなのか。
 残酷な現実があるだけなのか。
 悲劇なんて、自分を守るためには想像できない。
 奇跡なんて、残酷な現実には起こりえない。

 それでも。
 奇跡が起これば、と。


 ゆるやかに、眠りに堕ちてゆく。
 死とはどんなものなのだろう、と想像しながら。

 天使なんてモノは、本当に存在しているのだろうか。
 視えたのは、夢の中で。
 いまの自分からは正反対の笑顔を振りまく、そんな少女。
 翼だろうか。
 いや、翼と呼ぶには小さすぎる。
 はね、なのだろう。
 白い羽を、背中から生やした少女は、何かを探していた。
 それがどんなものなのかは解らない。
 ただ、必死になってそれを探す姿を見て、似ている、と思ってしまった。

 ――――誰かに。 

 夢の中だというのに。
 それは、さっきまでなんかより余程、リアルだった。
 雪が未だ解けぬ街に、何かを探し続ける少女。
 あたしの横を通り抜ける少女を見て、羨ましく思う。
 何故か、その笑顔が哀しそうに見えたけれども。

 風の流れるように、自然にその少女に近づいた。
 夢だと理解しているから。
 あたしは、訊いてみた。
 何を探しているのか、と。
 少女は、不思議そうにこちらを見た。
 軽くあたしの顔を見て、それに答えた。
 いや、答えようとしていた。
 楽しそうに。
 嬉しそうに。
 生きていることは、奇跡だとでも言うように。
 笑顔で、話し掛けたあたしを見て。
 なにかを、答えようとしていた。
 けれど、突然にノイズが響く。
 霞む夢の終わりに、少女の、

 ……酷く儚げな、それでも優しい笑顔が見えた。

 夢はあっさりと消え去って、涼やかな風が入り込む世界へと還る。
 どうやら、隙間風でも入り込んでいるらしい。
 だが、それよりも前に音を止めることにした。
「もしもし」
「あっ、香里〜。元気?」
 受話器から口を離して、ため息を聞こえないように吐く。
「名雪。あんたは相手も確かめずに話し掛けるの?」
「んー。うにゅ、だって香里の声は聞こえたし」
 少しだけ呆れながら、言った。
「もしかしたら、似た声の他人かもしれないじゃない」
「えー、だって……。香里の家に掛けて、香里以外がとったことないよ〜」
 反論。
 もっともである。
 確かに、あたし以外は取らないようになっている。
 単純に掛けてくる相手が名雪がほとんどなのだから。
 そんな考えは声に乗せない。
 話が逸れそうなので、そのまま訊く。
「そうじゃなくて。間違い電話をかけるかもしれないとか考えないの?」
「あ、なるほどー。でも大丈夫だよ〜」
「何が」
 思いつかなかったので、端的に訊く。

「香里の声だったらわかるもん」

 子供のように、おそらく口を尖らせて。
 そんな姿を想像する。
 それでも、少しだけ嬉しくて。
 あたしは諦めたように、先を促す。
「まったくもう……。で、何か用?」
「香里ひどいよー。ながさないでよー」
 先程の空想のとおりに、拗ねたような声。
 ひとかけらの沈黙の後。
 電話の向こう側とこちら側では流れる空気が違うことが解った。
 おそらく、名雪は気付いてなどいないだろうけど。
 テレビや、なにか騒がしいけれど、あたたかい世界と。
 静かで、動くものも無く、寂しさに支配された冷たい世界と。
 そんな、違いに。
 気付かせないよう、すぐに言葉を繋げる。
「はいはい。ごめんごめん」
「うー、いいけど。……用が無いと電話掛けちゃいけないの?」
「まあ、あった方がいいわね」
「じゃあ。うーん。香里と話したかったから」
「わかったわかった」
「えへへー」
 何故か。
 ほっぺたを緩めて、笑みを浮かべている名雪の姿が浮かんだ。
 きっと、しあわせだおー、とかなんとか言っているに違いない。
「名雪……。なんか、やけに上機嫌ね。どうしたの?」
「わかるっ? うーん、にやけ顔が戻らないよー」
 自分で言っているのだから、相当なものなのだろう。
「それはいいから」
「じつはね。いいことがあったんだよ」
「どんな?」
「……知りたい?」
 楽しそうに。
「気になるわよ」
「ほんとーに、知りたい?」
「だから、教えてって言ってるじゃない」
「ほんとーっに、知りたい?」
「……じゃあ、いいわ」
 キャラが変わってるんじゃなかろうか。
 単に言いたいのを焦らしているだけだろうけれども。
「あああ。ごめんごめん。だって、聞いてほしいんだもん」
「で、なんなの」
「祐一が帰ってくるんだよ〜」
「……」
 唐突に固有名詞を出されても困る。
 そんなあたしの固まった様子に気付かないのか、惚けた声が訊いてくる。
「あれ? どうしたの」
「……祐一って、誰?」
 かろうじて、訊く。
「あ、香里ごめん。……えっとね。祐一はわたしのいとこで、幼なじみなんだよ」
「帰ってくるって?」
「んー、七年前まで、この街で暮らしてたんだよ。いろいろあったんで、引っ越しちゃったんだけどね」
「で、なんでそれが嬉しいの?」
 きっと、好きなんだろう。
 だって、ここまで名雪が嬉しそうな声のときはそうそうお目にかかれない。
「だってだって〜。祐一に会えるんだもん。なんかもう嬉しくて嬉しくて」
「……ふぅん。どんな人なの?」
 少しだけ、ほんの少しだけ興味があった。
 この優しい少女が、好きな人間。
 きっと、正直には言わないだろうけど。
「えっとね。なんて言うか、面白いとかー、こどもっぽいとかー」
「名雪に言われるようじゃ、凄そうね」
「えー、わたし面白くないよー、こどもっぽくなんかないもん」
 不満そうに言い返す。
 口調が子供っぽいのに、変えるつもりは無いらしい。
「他には?」
「んーと、不思議、かな」
「不思議?」
「うん。不思議」
「不思議ねぇ」
「不思議なんだよ」
「もういいから」
「うー、もういいのー?」
 うにゅう、と呟く声が聞こえる。
 このまま放っておいたら、いつまでも同じ会話を繰り返すのだろうか。
「ええ。で、いつ頃にこっちに?」
「確か、三学期の始まる前あたりには来るって。お母さんが」
「なるほど。ところで名雪」
 つい、時計を見て気が付いた。
 少しだけ、不自然なことに。
「なぁに香里」
「こんな時間まで起きてられるなんて知らなかったわ」
「わ。もうこんな時間ー。せっかくテレビ動物さん特集まで時間つぶそうと思ってたのに」
「じゃあ、もう始まってるわね」
「う、ごめん香里。もう切るね」
 本当に、申し訳なさそうに言う。
 その様子が鮮明に脳裏に浮かんで、笑いそうになった。
「はいはい。ちゃんと寝なさいよ」
「うー、ひどいよ。……香里、おやすみなさい」
「おやすみなさい」
 がちゃん、と受話器を下ろす。 

 本当に、
 なんで名雪には解ってしまうんだろう。
 電話を掛けてくるにしても、こんな時間にまで起きているなんて。
 口には出さないだけで、心配を掛けてしまっているらしい。
 深々と降る雪を、窓越しに見ながら。
 電話越しの、その優しさに気付く。
 きっと、何度も掛けてくれたのだろう。
 そうでなければ、こんな時間に掛けるほどのことではない。
 少しだけ、日常へと思考が戻った。
 
 さて、どうやらそろそろ眠る時間らしい。
 なにもする気が起きないから、寝るしかない。
 ベッドに入り、昼間の夢の続きを期待しながら目を瞑った。


 栞が帰ってきた。
 両親の顔は、作られたように崩れない、笑み。 
 
 鏡で見た自分の顔は、少なくとも、笑っていなかった。
 とりあえず、感情が麻痺しているように思える。
 麻痺してなければ、浮かべているべき表情は何なのだろう。
 躊躇か。
 憤怒か。
 焦燥か。
 それとも、悲愴か。
 もしかしたら、微笑かもしれない。
 栞の部屋の前だ。
 どうしよう。
 このまま会わずに部屋へ帰ることもできる。
 だが、栞のことだ。
 きっと、不審に思うだろう。
 あれで、頭のいい子だ。
 それに、一度決めたら、芯の強いところがある。
 ならば、あたしは……告げるべきなのだろうか。
 すべてを、栞に?
 答えは……でなかった。
 それよりも前に、ドアが開いてしまったからだ。
 答えなんて、出るはずもなかった。
 そんな答え、出したくもなかったから。
 かちゃっ、と静かな音を立ててドアが開く。
 栞が顔を出してきた。
「お姉ちゃん、ドアの前でなにやってるの?」
 この子は、なにも知らない。
 あたしは、どうしたらいいのだろう。
「お姉ちゃん?」
 栞が、あたしの服を揺する。
 ふと、我に返った。
「なんでもないわよ……」
 反射的に、言葉を返す。
 声が震えていなかっただろうか。
 それだけが気にかかる。
「それより、寝てなさい。そんなんじゃ、治るものも治らなくなるわよ」
 自分はなにを言っているのだろう。
 治ることはないと、宣告されたばかりだというのに。
 しかし、いま、それを告げられるほど、あたしは強くはなかった。
 嘘つきな自分を考えないようにして、栞を見つめる。
 栞をベッドに連れていく。
 寝かせて、布団を掛けてやる。
「……」
 栞が黙っている。
 少し訝しげな表情だ。
 何かを感づいたのだろうか。
 表情だけでは判らない。
「……どうしたの? なんか……」
 そこまで言ったところで口をつむぐ。 
 顔を伏せ、何かを考え込むような動作を見せた後、また顔を上げる。
 そして、栞は笑った。

 楽しげに、――あるいは、羨ましそうに。

「あっ、そうか。今日は二十四日だった。お姉ちゃん、彼氏のところに行きたいの?」
 そう、訊いてくる。
 あたしには彼氏などいない。
「あのねぇ、あたしは興味ないわよ、そういうの」
 呆れ顔でそう答える。
 なんとなく、ため息を大げさについてみせる。
「えっー!? でも、お姉ちゃん綺麗だし……」
「まったく……」
 そう言って、布団を掛け直す。
 手に力が入らない。
 しかし、いつもと変わらないやり取りが痛みを浮き上がらせる。
 なんでもない言葉が、痛みを鋭くする。
「明日、雪降るといいね」
 栞が、そんな事を言い出す。
 少なくとも、気付かれていないはずだ。
 だが、このままここにいると耐えられそうにない。
 今日は、早めに戻ろう。
 なんとか言い訳をひねり出し、栞にそれを告げる。
「……部屋に戻るから」
 すぐに背を向け、ドアへと向かう。
 すこし、声が震えていたのかもしれない。
 自分の様子に自信がない。
「うん……」
 栞の声に元気がない。
 どうしたのだろう。
 さっきまで笑っていたのに。
「お姉ちゃん……」
 振り向いてみる。
 栞は、微笑んでいた。
「……」
 何かを呟いていたが、あたしの耳には届かなかった。
「ん、なに?」
「ううん、なんでもない」
 笑って、栞は体をベッドに倒した。
 それを確認してから、あたしは栞の部屋を離れた。


 自分の部屋でじっとしていた。
 しばらくして部屋を出てみるが、両親は帰っていなかった。
 おそらく、栞と共に病院にいるのだろう。
 たぶん、あの親のことだ……栞には、なにも話さないだろう。
 それを愚かと見るか、賢いと見るか、あたしには判らない。
 解りたくもない。
 いま、家にいるのは、あたしひとりだけ。 
 部屋に入る。
 灯りは……付けない。
 暗闇が、痛みを和らげる。
 何も考えなくてもすむから。
 制服が眼に映った。
 少しだけ、着られ慣れた感じのある学校の制服。
 学校……栞と行くはずだった、学校。
 学校は、楽しい。
 友に逢えることが楽しい。
 あの日常の空気が楽しい。
 栞が登校できるのを待つことが、待ち遠しかった。
 あそこで、栞を待ち続けよう。
 そう、思っていた。
 だけど、これからどうしたらいいのだろう。
 不意に、感情が戻ってきた。
 忘れていたのではない。
 忘れていたかったのに、感情は停まらない。
 ベッドに突っ伏す。
 うつ伏せになって、電気も付けていない部屋からも眼を背けようとする。
 涙が、でてきた。
 今更のように。
 もう、止まらない。
 泣こう、今日は……
 声も出さずに、泣いた。
 ずっと、泣いていた。
 時間の感覚が無くなっている。
 だから、泣き疲れて寝てしまうまでそれほどかからなかった。



 夢を見ている。
 
 過ぎていく日々を見ている。

 日々は終わらない。
 日々は流れていく。
 誰もがあたりまえに持っている、
 平凡な日々が。

 夜明けが来て、
 朝の霧に包まれて、
 おはよう、と挨拶を交わした。
 
 夢を見ながら、
 夜の闇に包まれて、
 おやすみ、と挨拶を交わした。

 寒空の中、
 朝を迎えられたことが嬉しくて、 
 おはよう、と挨拶を交わそうとしていた。

 静寂に佇んで、
 明日があることを夢見ながら、
 おやすみ、と挨拶を交わそうとしていた。

 ……哀しい夢を見た。
 遠いからこそ見てしまう。
 そんな、哀しい……夢を。



 夢は終わり、涙は枯れ果ててくれた。
 朝を迎えたことに気付いて、ゆっくりと起き上がる。
 無言のまま、制服に手を掛ける。
 着替え終わると、鞄を手に持ち、階下に下りる。
 朝食を食べずに、玄関まで静かに歩いていく。
 いってきます、と振り向きもせずつぶやいてドアを開ける。
 未だ溶けぬ様子の雪を踏みしめて、陽光に輝く白を汚す。
 足元の雪に、視線を落としたまま歩く。
 学校へと逃げている。
 そんなことばかり考え続けてしまっていた。
 逃げるように家から出て、学校へと歩む足は軽い。
 学校へと着くと、いつも眠たそうにしている親友が声を掛けてくる。
 あたたかい声。
 その優しさが、痛い。
 なにかに気付いているのか。
 なにかを知っているのだろうか。
 それでも、あたしの様子を見守っている。
 包み込むように。
 けれど、傷には触れないようにして。
 優しく。
 ただ、優しく。
 気遣ってくれるその心が、苦しい。
 ありがとう、と言いたいけれど。
 全てを話してしまいたいけれど。
 それでも、親友に話せない自分の弱さが、悲しい。 
 
 学校から、帰る。
 その道はいつも通りなのに、重い。
 足取りも心も、気分も頭も。
 ゆったりと、帰り道を進むしかない。
 朝に歩いた道を辿りながら、栞のいる家へと帰る。
 ずっと、なにかを考えていたはずなのに。
 リフレイン。
 繰り返し、繰り返し、交互に足を進めるだけのみち。
 雪のいろ。
 白。
 白いまま。
 染まるほどの、何かすら無い。
 真っ白のまま、空虚を、純粋過ぎる白で満たす。
 ……なにもない。
 初めも、終わりも、白い世界。
 終わりを待つだけのリフレイン。

 空白なまま、家へと辿り着いた。

 逃げ込むようにして部屋へと入る。
 栞を避けている。
 無意識に。
 いや、無意識なんてものは理由にはならない。
 そんなモノ。
 自覚できないだけで、
 制御できないだけで、
 所詮は、自分の意志なのに。
 それでも……、逃げずにはいられない。
 
 なんて、――弱い。

 姉なんて、こんなものでしかないというのに。
 傷つきたくなくて。
 傷つけたくなくて。
 それでも、悲しまずにはいられないのだから。
  
「ごめん、なさい――」

 聴かれることすら恐れて、声も出せない。
 ベッドに顔を押し付けて、息を押し殺している。
 悔しくて。
 悲しくて。
 それでも奇跡を望んでいる自分がいて。
 空に高い太陽の光が、差し込んでいる部屋の片隅に。   
 うつむきながら、ずっと目を瞑ったまま。
 色が変わるほど、血が出るほどに、唇をかみ締めてた。


 外が暗い。
 頭が痛い。
 泣いて、泣いて、それでもまだ、涙は止まらなかった。
 目も痛い。
 少し、眼を開けるのが辛い。
 立ち上がって、電気を付ける。
 いつの間にか、陽の落ちてゆく時間になっていた。
 あたしは、目覚めたくなかったのだろう。
 だが、もう、起きてしまった。
 寝てしまえば、起きるしかない。
 それが、日常。
 あたしに与えられた、日常。
 のろのろと、ベッドまで戻る。
 力無く座り込む。
 まだぼんやりとした頭が、昨日のことを思い出させてゆく。
 栞の顔が浮かぶ。
 栞の言葉が浮かぶ。
 栞の、最後の言葉が、思い出せない。
 そうだ。
 栞は、あたしが部屋から出るとき……なんて言っていた?
 必死に思い出す。
 なにか、とても大切なことのように思えた。
 あのとき、確かに。
『ごめんね』
 口が、そう動いていた。
 聞こえなかったんじゃない。
 あたしは、聞きたくなかったんだ。
 何故、栞が謝るのだろう。
 謝るべきはあたしのほうだというのに。
 その時、ひとつだけ思い当たった。
 栞は、自分の余命を知っているのではないのか?
 そうでなくとも、自分のことだ。
 もしかしたら、気付いていたのかもしれない。
 だとしたら、それは。
 それは、あたしを苦しませていると……そう思ったのだろうか。
 あたしは、どうしたらいいのだろう。
 いま、なにをすべきだろう。

 真実を告げるのは、あたしの役目だ。
 他の誰にも、押しつけることなどできない。
 他の誰にも、譲ることなどできはしない。

 ただ、それだけがあたしを突き動かしていた。
 行くべき場所へと向かう。
 目指すのは、栞の部屋。
 歩く足取りは、とても重い。
 いつしか、足が止まっていた。
 自分ではどうにもならない、自身の感情は激しい。
 目の前にあるのは、昨日も訪れ、幾度も訪れた部屋。
 そして、これからしなければならないことがある場所。
 戸を、数度叩く。
 静寂と沈黙。
 待ちかまえていたかのように、一瞬の間を置いて栞の声がする。
「……どうぞ」
 無言で、入る。
 栞がベッドに横たわったまま、こっちを見ていた。
 紛れも無く。
 他の誰でもなく。

 あたしという、美坂香里の名を持った存在を。

 ぎこちない笑みを浮かべている。
 かすかに、小さく震えている。
 それを隠すかのようにストールをつけていた。
 けれど、その眼には強い意志の光が宿っている。
 あたしが来ることが判っていたのかもしれない。
 栞は一度だけ窓の外を見た。
 そして、あたしに対して、ゆっくりと言葉を紡ぎだした。
「お姉ちゃん、本当のこと……教えて」
 心の何処か、納得せずにはいられない。
 この娘らしい。
 昨日の笑みは、演技だったのだろうか。
 あたしを傷つけないための強がりか。
 あるいは、勇気を持つまでのひとときを手に入れるため……?
 あたしがそれを知ることはできない。
 けれど、言葉は紡がれる。
 この激情の、貫くような冷たさゆえに。

「……真実を、知りたいの?」

 もう、判っているのだろう。
 偽善なのか。
 茶番なのか。
 芝居のように、先の読めた遊戯。
 ドラマのように、現実味を失った物語。
 それでも、認めるしかないという、真実。
 感情があまりに強すぎるためか、凍りついたように抑えられた声がでる。
 言葉には、力はなく、嗚咽を漏らしそうになるのを押さえるのが精一杯。
 もう、なにも感じられないのかもしれない。
 すべては、終わってしまったのかもしれない。
 あたしの話で、終わってしまうのかもしれない。
 息を呑む音。
 それは、自身のものか、栞のものか。
 自分でも気付かぬうちに、拳を握りしめていた。
 そして、覚悟を決めたかのように穏やかな声が聞こえる。
「……うん。お願い」
 質素な部屋の中。
 そこは、やわらかい白い檻。
 終わりが来ることを、待ち続ける日常。
 その終わりが何か、知りたくもない。
 息が出来ない。
 苦しい。
 痛い、心が痛い。
 刺さったこころのとげは、抜けることはない。
 まわりは、あたし達だけ隔離されたかのように静か。
 黄昏の中に、二人だけの空間が広がるように。
 暗闇の中に、二人だけが取り残されてしまったかのように。
 ただ、静か。
 足音すら、無い。
 空気すら、動かない。
 あたしは、全てを話した。
 栞の時間。
 助からないであろうこと。
 どういう病状なのか。
 それら、全てを。
 ただひとつをも、声を震わせることもなく。
 その言葉にすら、心を凍りつかせたままで。
「……」
 一瞬の空隙。
 静かに訊いていた栞が、伏せていた顔を上げる。
 あたしは、栞の顔を見つめる。
 栞は、泣いていなかった。
 その顔は、微笑んでいた。
 あたしは、なにも言えなかった。
 そのまま時は流れていた。
 何秒、何分、そして、それ以上。
 これから先も、ずっと。
 来ないことの判っている、未来すらも。
 あたしは、耐えられなかった。
 だから、あたしは、

 ――――最悪の選択肢を選んだ。

「……あたしには、妹なんて、いない」
 栞の目を見て、言い放った。
 ただ、真っ直ぐに。
 苦しみも。
 悲しみも。
 その全てを、忘れることができるように。
 その愛しさ故の痛みを、教えないために。
「だから、悲しくもないし、苦しくもない」
 あたしは、目を逸らした。
 この眼を見つづけることなんて、耐えられない。
 狂おしいほどに身勝手な、自分の行為の結末に。
「苦しくなんて、ない……」
 それでも、視界の端に、栞の顔を捉える。
 栞が、悲しい笑みを見せた。
 全てを受け入れた、微笑みだった。
「……ごめんね」
 静かに、声だけが空っぽの心に響き渡る。
「でも……」
 言葉を停めて。
 あたしの眼を見るようにして。
 最後に、ただ一言を。

「でも、大好きだよ……お姉ちゃん」

 あとはもう、あたしに出来ることは、去るだけだった。
 逸らしたままの顔を、体ごとドアへと向ける。
 歩くことを拒否する足を、無理やりに動かして部屋から消える。
 今のあたしの顔は、おそらく幽鬼。
 廊下に置かれた鏡のような鉄製の台、それに映る自分の顔は、歪んでいる。
 栞の部屋を出て、静かに外にでた。
 雪が降っている。
 黒と白だけになった世界。
 輝くような白さが目に痛い。
 幻想すらも、信じられない。
 降りかかる雪が、溶けて、冷たい雫になる。
 顔に、白い夢が降りてくる。

 頬を、水滴が流れ落ちる。
 冷たさが、これが現実であることを告げてくる。
 真っ白な雪すらも、あたしを責めているように感じられた。

 そう言えば……今日はクリスマスだったな。
 そんな事が、頭をよぎる。
 雪は誰にでも降りそそぐ。
 けれど、あたしは雪の中で立ち尽くす。
 握った手のぬくもりは、何処へ行ったのだろうか。
 雪の冷たさに、奪われていくように。
 悲しさは、あたしからなにもかもを奪い取っていく。
 これは、神様からの贈り物なのだろうか。
 だとしたら、あまりに意味のない茶番と言うべきだろう。
 あるいは、本当の皮肉かもしれない。
 でも、栞に対してのクリスマスプレゼントは、ひどい姉からの決別。
 唯一とも言える、あたしからの裏切りという名の、救い。
 少なくとも、あたしのことに、痛みや罪悪感など抱かずにいて欲しい。
 それだけのため。
 それだけのために、あたしは姉という立場を捨てよう。
 栞の苦しさも。
 あたしの悲しさも。
 たったひとつ。
 避けられぬ残酷な現実も、張り裂けそうなほどの感情も、悲しい思い出にしてしまえばいい。
 終わってしまった出来事として。
 このひとつだけは、捨てることができたはずだ。 
 それでも、口に出さずにはいられない。

「あたしは、本当に……ばかだ」

 懺悔のように。
 解っている、そんなことは。
 傷つけないために、傷つけて。
 意味も無いため息を吐き出して、今更のように後悔して。
 後悔するのなら、こんなことをしなければよかったのに。
 だったら初めから、

 ――愛しさなど、感じなければよかったのに。 

 もう、引き返せない。
 奇跡が起きない限り。
 だけど、奇跡を待つことになんの意味があるのか。
 奇跡を待つだけの時間すら残されていないのだから。
 あたしには、何も残っていない。
 あの娘には、何も与えられなかった。  
 だから、
 せめて……苦しまないでいられる道を、と。


 ――そうして、この静かな夜を迎えた。
 痛みから目を逸らして、癒えぬ傷は深くなった。
 けれど、狂いそうなほど、心が押し潰されそう。

 ……あたしは、なんのために傷つけたのか。

 痛みを、これ以上の痛みを与えないためだったはずなのに。
 目に見えぬ痛みは、大きくなるばかり。
 道を間違えてしまったことに気づいても、どうすることもできない。
 吐く息で白やんだ視界の端には、真っ白な雪が溶けぬままに積もっている。
 何故か悔しくて、隙間も無いほどに敷き詰められた雲を見上げていた。
 
 あたしの心は、乾ききり、
 もう、涙も枯れ果てていた。
 あるいは、涙は降り積もる雪のように凍り付いていたのか。
 既に、終わってしまった出来事。
 そして、始まることすらなかった出来事。
 でも、
 あたしの瞳には、あの子の苦しむ姿が、はっきりと映っていた。
 また、同じように悲しむことも、解ってしまっていた。

 ……だったら、ただ優しく抱きしめてあげればよかったのだ、と。
 いまさらのように、そんな……つまらない感傷を、口の中だけで囁いた。

 いま、彼はどうするのだろう。
 あたしから、真実を訊いて。
 出来ることなら、栞を救ってほしかった。
 彼になら、出来そうな気がする。
 あたしにはできなかったことが、きっと。
 彼を待つ時間が、果てしなく続く気がする。
 祈るでもなく、ただ空を見上げる。
 舞い落ち始めた白い雪は、あの日のように冷たい。
 空気の動く音すら聴こえない夜の中、あたしは待つ。
 氷の棘で、心から熱が奪われたとしても、あたしは生きている。
 
 ふふっ、と小さく笑いがこみ上げてくる。
 この笑いは自嘲か、それとも希望か。

 あたしは、
 奇跡を信じられない。
 奇跡を望めない。
 奇跡を待てない。
 奇跡を知らない。
 そして、奇跡を起こせない。
 願いは叶わないと知っている。
 なのに、何故?
 彼に、希望を見いだしているのだろうか。
 名雪の言っていた不思議なひと。

 縋るわけではない。
 願うわけではない。
 祈るわけではない。
 でも、頼れる。
 彼になら。
 彼ならば、奇跡が起こせるのではないか。
 そう思える。

 だから、想いを。
 栞が、幸せでありますように。
 妹が、救われますように。
 あたしのたったひとりの……妹が。

 あたしの愛する妹に。 
 大好きな、本当に大好きな、栞に。
 奇跡が……起こりますように、と。

 

 ――――切ないほど、静かな夜。
     輝く雪を踏みしめる、彼の足音が聴こえた。


 FIN.





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