ため息とかが、出た。寒い部屋のなかで真っ白くぼやけた息がひどく冷たそうに震えて、やがて薄れて消えていった。その消失は、机の前に座ってずいぶん長いあいだ何もしていなかった私に、冬の凍えを思い出させた。
 永遠などない。すべては終わりに向かって進んでゆく。



冬のシュプール





 脚本とも言えない、ひどい文章を書いていた。頼まれていたものではなくて、ただ衝動的に書き殴っただけの。
 失恋した女が諦めきれなくて、ただ待ち続けるというプロット。組んだときには傑作めいて思えるくせに、実際に書き出してみれば思い通りに行くことなんてまずない。
 構成の仕方も雑で、思い浮かんだ流れを書き留めただけ。これを舞台でやるのは無理があるだろう。第一、展開における都合が良すぎる。誰も傷つかないなんてこと、あるわけがない。
 全員にとってのハッピーエンドなんてきっと無いのだろう。ちゃんとした結末は書けなかった。どう書いても嘘くさい気がしたからだ。だからおざなりにバッドエンドを用意した。誰もが分かりやすく納得する悲劇のかたち。
 悲恋はひとを熱中させる。とりわけ他人を。当人同士は幸福を目指していても、なかなか上手くいくものではない。
 作った役柄に愛着が無い、というわけではなかった。どうにも難しい題材というのはあるもので、私の筆が止まったのもそのせいだろう。
 パソコンを持っていないわけではないが、私は原稿用紙に文字をびっしりと書き連ねていた。いくらか横に跳ねたインクの染みが涙のように滲んでいた。腕が痺れている。ちょっと我を忘れていたらしく、気がつけば四時間ものあいだ書き続けていたらしかった。
 お腹が空いた。何か買い置きがあったろうかと、台所に向かう。その途中、かすかな寒さに襲われた。すきま風だろうか。
 窓を覗き込んでみるが、ガラス窓はきちんと閉まっていて鍵もかかっている。外にはちらちらと雪が舞っていた。夜のひそやかな暗さに合わせたように、ちっぽけな光が自分の役目を思い出したみたいに、申し訳程度に街灯の光を跳ね返している。寒々とした光景だった。
 台所の戸棚を探るといくらかの食材が見つかった。料理をする気分ではなかった。手を加えなくても食べられるものはないだろうかと思ったが、こういうときに限ってお菓子のたぐいはあらかた食べ尽くしてしまっていた。
 せいぜいが冷蔵庫の中のキュウリや、ハムくらいで、冬の夜中にそのまま食べるにはそぐわないものばかりだった。電子レンジくらいなら手間ではなかったけれど、冷凍庫に入っているのは数日前に料理する際に残った野菜ばかり。みじん切りにしたネギを暖めても意味がない。
 ごそごそと段ボール箱に手を伸ばす。茶葉が入った袋の隣にあった、小さい缶。ココアの粉だった。寒いからこれで手を打つことにした。
 ポットのお湯は少なかった。数分後、再沸騰させて一杯分だけ使うと、空っぽになったことを示すランプが付いた。水は、あとで入れることにする。砂糖を入れてかき混ぜると古木のような色合いの液体は、ほんの少し濁ったように見えた。
 居間まで戻って、こたつに入った。
 ぬくぬくとしていた。ココアの入ったカップを手にしたとき、目に入ったのはミカンの籠だった。ココアに柑橘類は合わないなと思って、私は息を吐いた。口を付けたココアは甘くて、冷え切った身体を温めてくれた。
 私はぼんやりと前を向いた。電源を切ったままのテレビの黒い画面に映った自分の顔を飽きもせず眺めている。
 また息を吐き出した。これはため息だった。行き詰まっている、とでも言えばいいのだろうか。私は自分の今について、何を考えるべきかを、考えている。
 たとえば脚本のこと。時折、演劇部からの依頼が舞い込んでくるのはありがたいのだけれど、私としてはもっと上手く書けたらといつも思う。何度か書き上げるたびに、ミステリならば多少は、といった自信が付いた。相手側も私に期待するのはその手の話だろう。そういうものは決して簡単ではないけれど、ちゃんと書ける。
 でも、私がさっき書いていたようなものは、万人には受けないだろう。登場人物たちは一癖も二癖もあるけれど、好きなキャラクタだった。なのに、そこに物語を持ち込んでしまったことで、何もかもが空回りしてしまった。そうあるべき結末でもなくて、そうあってほしい結論でもなくて、一人や二人が思うがままに動くだけで破綻してしまった。
 そういうのは、よくない。
 なのに、ラスト近くの展開からは、もうそういう流れでしか終わらせられなかった。何が悪かったのか自分でも分からない。むう、とほっぺたをふくらませてみる。かわいこぶりっこ。でも可愛くないのは分かっている。なぜだか哀しくなる。
 ミカンを手に取った。黄色が眩しかった。
 飲み干したココアの茶色が、コップの底にへばりついている。溶かしきれなかった砂糖がその隅で固まっている。私は何もしないで、ただぼんやりとしている。
「あ」
 声が出た。
 よく考えたら、課題をやるのを忘れていた。別に必須の単位ではないけれど、好きで取った科目なのだ。それをないがしろにしているのは、私として、駄目なことだった。


 チャイムの音が鳴り響いていた。授業が終わったことを示す合図だ。出席している学生はまばらで、私の斜め前の男性は講義の後半ずっと寝ていた。テキストすら出していないあたりに何をしに来ているのだろうという思いを強くする。
 手早く筆記用具をしまい、教室を出て一歩踏み出したところで私の名前を呼ぶ声が聞こえてきた。
「あ、美咲さん?」
「え。……藤井君」
 すれ違いかけた。冬弥君だった。私は努めて普通を装っておいた。冬弥君はもこもことした厚手のジャンパーを脱ぎながら、こちらに笑顔を見せてくる。
「講義が終わったところですか」
「えっと、そうだけど……。藤井君の方は?」
「今日はこれから三連続です」
 笑いながら冬弥君は今、私の出てきた教室を指さした。
「そっか。頑張ってね」
 小さく手を振ると、彼も同じようにした。廊下を歩き出すと、冬弥君はすぐに教室内へと入っていった。私はその場を離れるつもりでいたのだけれど、後ろから声が掛けられた。振り返ると見知った顔があった。
「こんにちは、美咲さん」
「……由綺ちゃん」
 なるほど、と思った。顔に出たかなと少し気になった。
「藤井君ならもう中にいるよ」
「え! あ、はい、ありがとうございます……」
 ちょっと照れたように、だんだん声が小さくなった。地味な格好をしているのはいつものことだ。私はそんな由綺ちゃんに聞いてみた。
「ちゃんと藤井君と会う時間は取ってるんだ」
 由綺ちゃんはわずかに沈んだ表情を見せたが、すぐに微笑んだ。
「実は、最近……私、ちょっと忙しくてなかなか時間が合わなくて……冬弥君に甘えてばっかりで……」
「そう……」
 こればかりは私の出る幕では無いと自覚していたから、あまり深いことを言うつもりはなかった。
 だけどつい、こんなことを言っていた。
「あのね……由綺ちゃんは、もっと甘えたほうがいいんじゃないかな。由綺ちゃんは女の子で、藤井君も男の子なんだからね……。せっかくお似合いなんだし、もっと一緒にいたほうがいいと思うの」
 分かっているんだけど……、といった雰囲気で、口が動いた。声は出ていなかった。私は自分で何を言っているんだろうと、不思議がりながら喋っていた。
「たいへんだろうけど、頑張ってね」
「はい」
 長話になってしまった。廊下の端に教授の姿が覗いたので、私は目で合図した。由綺ちゃんは慌てて教室に入った。ぺこりと会釈だけして。
 廊下を歩くあいだ、私はずっと笑顔だった。


 気の迷いという言葉がある。魔が差す、というのも合っている。
 口づけなんてものは、その程度の気持ちの盛り上がりと、ささいな切っ掛けでしてしまうものだ。
 きっと、そういうことだろう。
 好意は単なる好意に過ぎず、誤解してはいけなかった。
 私は唇に指先をそっとあてた。乾燥して少しだけ渇いたそこは、かさかさとしていた。触れ合ったときの熱さはすでに遙か遠い過去のことのようだった。
 実際、それから先のことは考えないようにしている。冬弥君だって、そうだろう。私を見る目は、どこか申し訳なさそうで、私は顔に出さないようにするので精一杯だ。
 胸が痛む。
 校舎の出入り口に溜まっている一年生たちの集団が、講義の情報を交換している。必須科目の話をしているのが耳に留まった。そのなかのひとりが私の顔を見て声を挙げた。演劇部の部員らしかった。見覚えはあるが、名前は知らない。たぶん話したことはない。
「澤倉センパイ! おはようございまっす!」
「うん、おはよう……」
「お暇ですか!」
 元気の良いことだ。私はごめんねと、手と態度で示す。
「あ、そうなんですか。お引き留めしちゃってスミマセン! あと脚本、ありがとうございました。部長がまたお願いしたいって言ってました!」
「そうなんだ……どういたしまして」
 後半部分の言葉は聞き流した。本人が言ってこないことを、一年生から聞いてどうこうするのは筋違いだろうから。
 私は挨拶もそこそこにその場を離れた。
 背後で話し声が聞こえていた。それは私に対するうわさ話だったけれど、さほど悪印象を持たれているわけではないようだった。
 時々思う。私は良い子なんかじゃない。……そんな言葉で誤魔化すのは簡単だ。でも私はこれまでずうっと良い子で通してきた。真面目な顔で、お姉さんぶって。
 ひとを傷つけると嫌われる。嫌われたくないから優しくする。優しくしていれば誰も傷つかないで済む。優しさのリフレイン。繰り返し。繰り返し。
 そうやって生きていたら、いつの間にかこんな性格になってしまった。頼み事をされるとどうしても断りきれない。面倒だなって思うことはある。嫌なことなんて放っておいても向こうからやってくる。
 時々、自分が分からなくなる。
 何をしているんだろうって、遠いどこかにいる私が、私をじっと見つめている。でも自分のことは嫌いじゃない。こんな自分でいるから、きっと今こうして大したことのない悩みを抱いたりできるのだろう。
 笑っていられるうちは大丈夫だ。そんなふうに考えた。


 大学の図書館は時間をつぶすには最適だけれども、それは普段ならの話だ。長期の休み前や、試験の前後は混み合ってしまってせわしない空気が漂い始める。
 私はひとりで本を読んでいる。
 幻想文学の棚に紛れ込んでいた、タニス・リーの本だ。ファンタジーもSFも書くひとだから、文庫の置かれているべき場所として違和感はない。
 叙情的な文章を目で追っていると、視界の隅に見知った顔が通り過ぎた。
「七瀬君?」
「え、あ、美咲さん…」
 驚いたような顔をして、すぐにいつものような笑顔になる。
「どうしたの? 七瀬君も、何か読みに来た?」
「えっと……一昨日借りた『罪の段階』を返しに来たんだ」
 そう言って私に見えるように、表紙をこちらに向けた。上下巻になっているのに、二日で読み終えたらしい。見覚えのあるタイトルだった。
「ああ、パタースンの。え、法廷物は苦手だったんじゃ…?」
「いや…その。面白いって聞いたから…」
「そっか」
 どうしようか迷っていた様子だったけれど、七瀬君は私の正面の席に腰を下ろした。何か話をしたそうな表情が垣間見えていた。
「あの。この前の劇、すごく面白かったです」
 言葉を重ねようとしたけど、少し慌てた風に声が上ずった。まわりからじろりと見られるほどの大声ではなかったけれど、私はしぃ、と指を口に当てた。
 彼の顔が赤くなった。
「そう。楽しんでもらえて良かった…」
「はい!」
 小声ではあったけど、大きく頷かれる。
「なんていうか、鬼や輪廻の部分が、どろどろした伝奇調で終わっていなくて、悲恋や悲劇を乗り越えるときの溜めになっていたのがすごくて……美咲先輩はやっぱり凄いって思って……」
「くすっ。ありがと……でも、そんなに褒められると、照れるよ……」
 七瀬君はもっと話していたかったようだけど、私が本を読んでいたことをいきなり思い出したみたいだった。急に悪いことをしたような表情になって、勢いがしぼんでいった。やっぱり可愛らしいという表現が似合う男の子だなあと、私は微笑していた。
「それより七瀬君、試験は大丈夫なの?」
「うん。僕は冬弥と違って、勉強はそれなりにやってるから。美咲さんはどう?」
「……私の場合は、今回はあんまり試験勉強はしてない、かな」
「大丈夫なの?」
「そうね。テストじゃなくて、レポートの提出が多いから……こうして息抜きしてる最中なのよ。研究室の方は卒業するのに単位が足りない友達がこもってて、ちょっとピリピリしてるし」
「そうなんだ…」
 そんな会話をしているうちに、外が暗くなってきた。日が短いからだった。話題が尽きたあたりで、図書館の前に出る。
「じゃあ、試験がんばって」
「うん。美咲さんも」
「またね。七瀬君」
 名残惜しそうにしながらも先に歩き出した彼の後ろ姿を見送った。ずっと向こう側に大きなオレンジ色の闇が広がっていた。
 七瀬君はどうやら、今日は冬弥君の話をすることをあまり好まなかったようだ。何度かそういった内容になりかけたが、その都度流れが変わった。ミステリの話もそこそこに帰ることにしたのは、たぶん含むところがあったのだろう。
 最近、色んなことが、むずかしく感じる。
 知っていることが増えると、身動きが取れなくなって。
 知らないことばかりだと、自分が何をしているのかが分からない。
 冬弥君の胸中にある真実は誰にも分からないし、私の考えていることも、他人にはきっと分かってもらえない。
 だからせめて、後悔しないようにしたかった。


 講堂の特設舞台で捻挫をしてから、冬弥君と会う機会が減った。お見舞いに来てくれるといった冬弥君を強く断ってから、何かがずれていってしまった気がした。
 もしかしたらそれは、正しかったのかもしれない。
 それまで進もうとしていた道が間違っていて、歪んでいて、崖みたいな場所で、最後まで辿り着いてしまったら、私たちは後戻りすることなんか出来ず、ひたすらに落ちてゆくことしか残されていなかったのかも、しれない。
 少しずつ、私と冬弥君の距離は、元に戻っていった。
 高校時代のあのころのような立ち位置。由綺ちゃんと冬弥君がつきあい始めて、私たちはみんなでそれを祝福したように。
 すべては上手くいくだろう。
 誰も傷つくことのないままに、日々は流れてゆくだろう。
 それでいい。
 私は帰り道、沈んでゆく巨大な太陽を見つめた。建物の隙間から漏れ出してくる、おそろしいくらいの赤。そうした炎色がゆるやかに空を溶かしてゆくのをそっと眺めた。横に伸びた巨大な雲が、暗紅色に染め上げられており、その真下の地平線に、夕陽は隠れてゆこうとする。
 雲があるから夕焼けは綺麗なのだと。そんな当たり前のことを今更に思う。
 そしてあっという間に夜が訪れるのだ。多様な色彩で塗り替えられていたはずの空を、黒一色で塗りつぶしてしまうあの夜空が。
 月の光もなく、星の瞬きも見えず、ただ暗く深い空。押し潰されてしまいそうな、重苦しい闇夜がやってくる。
 帰路の中途、数日前に降った雪の残りが、道路の隅に固められているのを見た。切れかけた街灯のちらつく光が、その白い塊を照らした。誰かの踏んだ足跡が、意味のないかたちとして残されている。ただ汚れている。
 私はその脇を通り過ぎた。夜気の冷たさに、吐き出した息の白さが際だっていた。



 七瀬君が告白をしてきたのは、図書館で話してから丁度一週間が過ぎた日だった。呼び出された場所は、高校時代よくみんなで通った公園の中だ。
 初めて出逢ってから、何年も過ぎたのだ。彼らが同じ大学に進んだとき、こんな光景が目の前で展開されることを、私は予想していた。
 公園の片隅にあるシーソーの前で、七瀬君が緊張した面持ちで、やってきた私の目を見つめた。時間よりだいぶ早くきたつもりだったが、彼はいつからいたのだろうと、少し心苦しくなった。
 だって、答えは分かっているはずだった。
 空は明るくて、寒々しかった。まだ日は高いのに、風が強くて、私たちのほか、公園には誰一人いなかった。
 彼は私の目を見て、言った。
「好きです、美咲さん」
 それだけを言おうとしていたのだろう。七瀬君は他の言葉を持ち出さなかった。私が答えを返すまでのあいだ、口をつぐんでいた。
「……ごめんね」
 それから、何分が経っただろう。
 七瀬君は頷いた。
「うん……」
「私ね、好きなひとがいるの」
「冬弥…だよね」
「そっか。知ってたんだ」
「うん。ずっと美咲さんのことを見てたから、分かるよ」
 高校の頃から、私は冬弥君のことを見つめていた。でも冬弥君が由綺ちゃんと出会い、彼らが付き合いだしたときに喜んだのも事実だった。
 みんなにとっての、良いお姉さんでいよう。
 私がそう考えたのは、間違っていなかったと今でも思う。
「ごめんね、七瀬君」
「謝らないでよ。美咲さんのこと、困らせるつもりじゃなかったから。ねぇ、美咲さん。僕は、あなたにとって、やっぱり弟みたいなものだったのかな…」
「そう、だね」
「じゃあ、由綺は、妹みたいなもの?」
「……そうね」
「なんで、冬弥だけ、そういうふうに見たの?」
 七瀬君は、聞いちゃいけないって思いながら、口にしたのだろう。その罪悪感でいっぱいになった表情を見て、私はむしろ、ほっとしていた。
「理由なんてないよ……優しくて、時々頼りになって、そうじゃないときもあって、でもやっぱり、放っておけなくて……そういうところばっかり見てたら、いつの間にか、好きになっていたの」
 困ったものだよね、と私は笑った。
 楽しかった。七瀬君に向かって、そういうことを、口にするのは、とても楽しかった。それは、だって、もう終わってしまったことだから。
「だけどね、冬弥君には、由綺ちゃんがいるって、知ってるから。もう、いいんだ。私は諦めることにしたの」
「……美咲さん」
「最初は弟みたいに見てたのに。不思議なのよね、なんで誰かのことを好きになるってことが、こんなにつらいんだろうって……ホントに好きだったのに、今はなんていうか、ぜんぶ無かったことにしたい気分になってるの。……まだ、好きなのにね。これって、なんなんだろう」
 七瀬君が困っている。
「ねえ、美咲さん。冬弥の近くにいるとき、寂しそうな顔をしてたの、気づいてた……?」
「そんな顔、してた?」
「……うん。冬弥は気づいてなかったと思うけど」
 私はシーソーに座って、空を見上げた。
 ぽっかりと空いた胸の奥の熱。その場所に残っているものは優しさだろうか。哀しみだろうか。
 空は、静かに青く澄んでいた。私の声がそこに吸い込まれてゆく。七瀬君の沈黙も、空気のなかに溶けてゆく。
「ごめんね。七瀬君」
「……うん」
「ここは寒いわね。……そろそろ帰ろっか」
 私と七瀬君は、連れだって公園から出て行った。歩き出すと、蛍ヶ崎学園の制服を着た女の子たちが、ちらちらと私たちの方を見て、内緒話をしているのが目に入った。七瀬君はうつむいてはいたが、泣いていなかった。



 二月の終わりだった。
 自分の部屋で、椅子に座って、数日前に借りておいた小説を無心で読んでいた。海外の作家の本だった。サイエンスフィクションらしからぬSFだった。
 何も考えたくなかった。ただ描写を追うことは楽しかった。まるで泉鏡花の作品を読むみたいに、なかなか頭に入ってこない。それでも透き通るような綺麗さ、連なる余韻の美しさが、私を慰めた。
 美しい宝石が並んでいるイメージ。
 その輝きには価値はなくて、宝石を美しいと思う心をこそ望むのだと。
 いくつかの短編が収録されていた。なかでも、中程にあった挿絵のページには色なんてついていなかった。宗教画のようで、みすぼらしい身なりの男が天に向かって祈りを捧げている。その描かれていた男性に降り注ぐもの。
 確かにそれは一条のまばゆい光だった。
 救いがもたらされることと、優しさが与えられること。その違いはどこにあるのか。私にはよく分からない。
 本文は、結局、神様を信じたままの男が、報われないままに死んでゆくという内容だった。そこに誰かの手がさしのべられる。すでに目が見えなくなっていた男は誰が何のために手を伸ばしたのかを知らないまま、これが神による救いなのだと信じて亡くなる。すべての人間の善意は報われて、様々な人間が勘違いだらけのまま物語は閉じてしまうのだけれども、訪れる結末は何一つとして幸福なものとは言えなかった。
 そこまで読み終えて、栞を挟んで本を閉じる。それをテーブルに置いて、強いお酒を飲むことにした。
 味も分からないのに、二千円くらいするウイスキー。
 今日はお母さんが家にいた。だから自分の部屋にこもって、ひとりで飲んでいた。誰かと話をする気分ではなかった。電話がかかってきて、お母さんが呼びに来たけれど、私は出なかった。
 誰だったんだろう。ぼんやりとして、考えないようにしている自分がいた。
 お酒は不慣れだし、あまり好きではなかった。隠している言葉を自分の意思とは無関係に話してしまいそうで怖いからだ。うちにあるアルコール類は、基本的に料理やお菓子を作るときにしか使わない。
 だからこれは私の買ってきたものではなくて、友人が家に来たときに置いていったものだった。
 寒い部屋のなかで、ポットのお湯で割って、潰れるまで飲み続けた。美味しいとは思わなかった。舌が痺れるみたいな感じがした。喉が焼ける、とはこういうことを言うのだと思った。自分が何をやっているのかと不思議で、それが妙におかしかった。くすくすと笑った。楽しかった。何にもないから、楽しかったと思った。
 涙が溢れた。
 自分が泣いている理由が分からなくて、私は呆然とした。
 気分の高揚を認めて、私は外に出ることにした。とっくに日が傾いていて、星がわずかに見える空だった。鏤められた光の粒を際だたせるみたいに、大きな空は夜らしい深い闇を湛えていた。
 突然外へと向かった私のために、お母さんは名前を呼んでいた。私はその声を聞きながら反応しなかった。
 家の近くを通っている道路まで出て行くと、何日か前に降った雪がそのままの形で残されていた。もちろんある程度は踏み固められていた。雪の表面は泥めいた茶褐色へと変わっているし、それ以外の部分は蹴散らされてしまって、地肌である濡れたアスファルトの黒が覗いている。
 車は通らない。元々、歩行者は多いが、車は少ない道なのだ。
 しかし今は、帰宅のために歩いている近所のひとの姿も見えない。まるでこの世界に一人きりになってしまったみたいな、そんな雰囲気を感じた。音がかき消されて、孤独だけがひしひしと迫ってくる。冷たい空気。あまり厚着をしてこなかったせいで、指先の感覚が鈍くなっている。もしかしたら痛いのかもしれなかった。赤くなった肌はアルコールが原因か、寒さのためか。よく分からないし、私にとっては、どれでも同じだった。
 あ。
 ひとが少ないのは、テレビを見ているからだ。
 そのことを思い出せて僥倖だった。少しふらつく足取りで、慌てて家の中に戻る。お母さんが私の顔を見て、何も言わなかった。私はちょっと頭を下げて、居間に急いだ。テレビの電源はついていた。すると、見知った背中が画面に映っていた。
 ちょうど、歌い終わったところだったのだろう。
 疲れた様子などまったく見せていない由綺ちゃんの背中が、とても綺麗だった。ライトアップされた舞台の上から、袖へと消えてゆく足取りは、軽やかだった。
 こんな友達らしいことさえちゃんとできない自分が悲しくなった。最初から聞こうと思っていたのに、すっかり忘れてしまっていたのだ。
 生中継だから、何かトラブルでもあるかと不安だったけれど、最後の歌が終わってから十分もせずに審査員の相談は終わった。緒方理奈か、森川由綺か、そのどちらかが僅差で勝つことを、司会も、観客も、当然のように語った。
 全員が結果が出るのを待っていた。
 そして由綺ちゃんが優勝し、今年の音楽祭は、大盛り上がりのうちに幕を閉じた。私はじっと、由綺ちゃんがインタビューを受けているシーンを見て、見続けた。うっすらと額に浮いた汗と、輝くような表情と、その瞳。
 きっと会場には冬弥君も一緒にいるのだろう。私の好きな由綺ちゃんは友達で、アイドルで、冬弥君の恋人で、そしてそれはとても正しくて、喜ぶべきことなのだと思った。だって二人とも幸せになれるに違いないから。
 おめでとう。由綺ちゃん。
 私はそのとき、本当に嬉しかった。
 テレビ中継が終わったころを見計らって、お母さんに叱られた。さっき心配させてしまったのだな、とそんな当たり前のことに気がついたのは、由綺ちゃんが画面から消えたときのことだった。私は泣きそうになった。でも今度は涙を流さなかった。



 冬は終わり、もう早春と呼ぶべきかも知れなかった。冬が寒ければ寒いほど、春は待ち遠しくなるものだ。
 用事も無いのに、大学に来てしまった。授業は休みの時期に入っていて、サークルや研究室にでも行かなければ、やるべきことは特に無い。
 何のために来たのか、自分でもよく分かっていなかった。
 そんなふうに校内をぶらついていると、はるかちゃんが一人で前からやってくる。
「おはよう」
「ん。おはようございます」
 ぺこり。私たちは互いに頭を下げた。はるかちゃんががさごそと鞄をあさる。私はその様子を不思議な気持ちで眺めている。
 やがて、目的のものを見つけたようだ。
「あげる」
 渡されたのは大学ノートだった。何の変哲もない、いつも使っているものとほとんど同じタイプのものだ。
「はるかちゃん…?」
「うん」
「ふふっ……ありがと」
「じゃ」
 はるかちゃんは手を挙げて、図書館の入り口を抜けていった。
「ええ。じゃ、ね」
 私も同じようにした。手元に残った一冊のノートを開いてみる。一度も使われなかったようで、すべてのページが真っ白だった。
「……これから、どうしようかな……」
 冬は終わったのだと、ふと思った。
 私はどこにも踏み出せなかった。そして思い描いた結末のすべては、夢の中に続いていた。
 たぶんこれが一番良かったのだろう。何も起きなかった。それでいいのだ。
 大学の表門から出て行くことにした。出入りする学生の数はまばらだ。暇に飽きて、宛てもなく学校にやってくる人間というのは意外に多い。サークルの部室に友人同士で集まって、それからどこかに出かけることもあるからだ。
 数人の中のひとりになって、私は歩いた。
 帰路では雪もすっかり溶けて、アスファルトから小さな芽が可愛らしく顔を出してるのを見つけた。大輪の花を咲かせるには、まだ時期が早いようだった。
 そうした春を思わせる細やかな発見を探しながら、ゆっくりとあたりを見回していると、誰かを待っているような七瀬君がいた。目があった。
 なぜだか、恋心も、憧れも、もうどこか遠い昔の出来事みたいに思えた。私たちみんなの繋がりは続いてゆくだろう。胸の奥に、ほのかな熱が残っている。体温くらいのぬくもりの。それ以上近づくことがないからこそ、そうした、親愛だとか、友情だとか、そういった言葉で表されるものすべてを、これからも抱きしめていられる。
 彼は何も言わなかった。私も黙っていた。すべては当たり前のように過ぎ去る。時は流れ、日々は季節のなかで移ろってゆく。誰もそれを止めることはできない。誰もそこに留まることはできない。
 私はいつものように彼に笑いかけた。彼も同じように微笑むと、ちょっとだけ胸が痛くなった。だけど、それはきっと気のせいだった。
「はるかちゃんなら、校内にいたわよ」
「ありがとう、美咲さん」
 七瀬君と私はすれ違って、離れてゆく。
 向こうの方から小さな雲がひとつ流れてきて、頭上にさしかかると、一瞬あたりが暗くなった。そしてまた光が漏れだしてくる。
 私は息を吐いた。寒かった季節の名残が、ゆっくりと空へと向かった。
 その場所から、白に、銀に、まぶしく輝いている雲が悠々と遠ざかってゆくさまを、私はひとりきりで、ぼんやりと眺めていた。

inserted by FC2 system