雪が降っている。この分だと朝まで止まないだろう。
 分厚い雲からこぼれ落ちてくる雪は、どうしてか純白に輝いていた。

 ところで唐突な話だけれど、緒方理奈という名前を知っているだろうか。
 芸能人に全く興味が無いなら詳しくは知らないかもしれない。それでも以前はテレビ等でよく見られた名前だし、何より一目見たなら忘れられないくらい存在感のあるアイドルだったから、だいたいのひとは分かるんじゃないかって思う。
 もちろんアイドルといっても顔だけじゃなくて、抜群の歌唱力を誇ることも有名で。アルバムがチャートの上位から外れたこともなかった。あの名曲、サウンドオブディスティニーは、今でも定番のラブソングなのは言うまでもない。まあ、もっと有名なのはホワイトアルバムの方かも知れない。あの森川由綺とのコラボレーションアルバムは、未だに売れ続けているって話だから。
 何にしろ僕にとっては思い出のある曲ばかりなわけだ。
 それで、なんで彼女のことを説明するかっていうと、……彼女に会ったことがあるんだ。引退前の彼女に。
 もちろん偶然だった。それこそ奇蹟のような出来事だったんだって、僕は今でも思っている。


 灰色の雪が、止めどなく降っていた日のことだった。大学を卒業したはいいけど、あえなく就職に失敗して、何の目的もなくフリーターをやっていた時分。昨年の今頃のことだ。
 とある女の子――ずっと気になっていた、けどお互いに一歩踏み込めない、そんな友達だった――と、初めてのデートで待ち合わせしていたときのこと。
「お互い一人っきりだし、どうかな。どっか行って遊ばない?」
 なんて、ありふれた言葉で笑いながら誘って、彼女はこくんと頷いて。
 その日、あの子に告白するつもりだったんだ。
 なんとなくじゃない。そのころには好きになっていて、きっと、もっと好きになるって確信があったから。
 だけど僕は臆病で。
 何度もそんなチャンスはあったのに、言えなくて、ずるずると引き延ばして、勇気が無くて。
 やっと、ここまで来た。この日ならと思った。ついはしゃいでしまった僕は朝のうちに家を出た。素早く待ち合わせ場所にたどり着いていた。駅前だった。そこは地元じゃなかったんだ。だから遅れるよりはいいだろうなんて浅はかにも考えたんだ。
 一時間前さ。普段ならかまいやしないけど、その日に限ってはいくらなんでも早すぎた。なにせ雪の日のことだ。寒くてどこかに逃げ込むしかなかったわけで、……言い訳はよそう。まあ、
「ごめん。待った?」
「いや、全然」
 この会話をしてみたかったんだ。嬉し恥ずかしな青いトークを。頭に雪を乗せたままでにっこり笑って、こう。今考えるとなんだそりゃ、ってなもんだけど。
 天気が崩れることは分かっていたから、僕は傘を差した。空を見上げると雪はしばらく止みそうになかった。
 嫌な雪だ。
 どんよりと曇った視界。紺色の傘が重くなる。あたりに人間の姿が無いと、やけに殺風景な場所に思えた。
 僕はとりあえず駅前から少し歩いて、一番最初に目についた喫茶店に入ることにした。
 混んではいなかった。というか外から店内を覗いたときにシックな雰囲気、客の少なさ、ついでによく掃除されていて綺麗という三点が気に入ったから、足を踏み入れたんだ。
 最初は流行ってない店に見えた。つい、あまり味に期待せずに珈琲を頼んだわけで、運ばれてきたカップに口を付けたとき、予想を裏切って美味しかったのが衝撃的だった。
 運が良かった。まあ、それだけのことかもしれない。
 しばらくちゃんとした珈琲を飲んだ憶えが無かったから、余計に嬉しかったのもある。家ではわざわざ豆を挽いたのを飲むほど財布に余裕があるわけじゃないし、インスタントコーヒーもだいぶ余っていた。近くのスーパーで安かったからまとめ買いしたのが良くなかった。
 入ってすぐに珈琲を頼んで、テーブルに向かった。席はどこも空いていた。窓ガラスの向こうには雪が張り付いていた。風が吹きつけて寒々とした空。
 切れ間のない降雪の様子を見ていたくなかったせいで、奥の席に着いた僕は、この店が喫茶店としてはかなりの穴場だってことを気付くことになった。
 暖房と珈琲で、ぬくぬくと体が暖まる。雰囲気は良いし、珈琲は美味しいし、ついでに一人だけ入っていた女性客は可愛いし、で、これから大人しい女友達に勇気を振り絞って告白しに行こうとしている僕の背中を、偶然の女神様だか運命の歯車だかが、ぐいっと押してくれてるように思えたんだ。
 ふと、女性客が喫茶店のマスターに珈琲をおかわりした。気安い様子で、慣れ親しんだ声。僕はどこかで聞き覚えのある声だな、とかるい気持ちで振り向いた。女性は見覚えのある顔だった。まじまじと見てしまって失礼だなんてそのときは考える余裕もなかった。
 緒方理奈! そのときの僕の驚きと言ったら、とても言葉に出来ないくらいだ!
 似てるだけの別人かも、なんてまるで頭の片隅にも浮かばなかった。何故って僕は、彼女がデビューしてから以降、出した全曲を欠かさず買っていたという、そこそこ熱心なファンだったんだ。容姿につられたわけじゃないとは言い切れないけど、冒頭でも言った通り、何より歌が良かった。すごく良かったんだ。あの歌声に魅了された。時々だけどライブにだって行った。流石に、バイトしてるだけの収入で追っかけをする勇気は無かったけど。
 僕は声を失った。思えば、そこで慌ててサインを貰いに行かなくて良かった。してたら、きっと後悔することになったと思う。
 彼女のプライヴェートを垣間見たんだ。でも舞い上がるより先に胃の方にふつふつと罪悪感が沸き上がってしまった。とりあえず僕も珈琲をもう一杯所望してみた。
 店員は、人の良さそうなマスターしかいなかったけど、ほとんど待たずに運ばれてくる。慣れているはずのブラックで飲もうとしたけど、思い切りむせてしまった。咳き込むのを抑えて、慌てて砂糖を入れた。
 かちゃかちゃと音を鳴らしてスプーンでかき混ぜていた。どうしても気になる。横目でのぞき見てしまう。これは仕方なかったと思う。だってそこにいるのはあの緒方理奈だ。僕の僅かな自制心も理性も生来の臆病さも、視線を向けるのを止めようとはしない。どうにか視線をそらしても、気付いたら無意識に目で追ってしまう。これは、そういうものだった。
 別に悪いことをしているわけじゃない、なんて内心で言い訳を始めている。表面上だけは平静を装っていようとした。
 裏腹に、次の瞬間、思考が吹き飛んだ。
 その珈琲を飲む仕草が、とんでもなく可愛らしかった。
 輝くような髪を、ゆっくりと梳く手の動き。しなやかで細い指。すっと唇に引かれたルージュの赤。落ち着いたファッション。
 僕は見とれていた。
 頭では分かっている。理屈では分かっている。
 彼女だって普通の人間と変わりないはずだった。どんなに凄いといっても二十代の女の子なんだ。僕と同じくらいの歳だ。それでも違うんだ、って感覚を否定できないのは、僕らみたいな人間とは異なる圧倒的な存在感があったせいだ。そう、あの子は他の誰でもない、あの緒方理奈なんだ。何万、何十万もの人たちを熱狂させる、アイドルなんだ、って。
 普通じゃない。こんなにも手の届く場所にいたって、彼女とは住む世界が違う。怖かった。怖くなった。今までにも偶然何人かの芸能人をこの目で見たことはあったけれど、彼女ほどそれを強烈に思い知らされたことはなかった。
 毅然とした態度も、気の強そうな微笑みも、全部が彼女自身の強さから来ていた。何もかもが彼女自身のものだった。他の何者かが演出した、在りもしない偶像なんかじゃなかった。
 ライトの下だけでアイドルになるんじゃないんだ。彼女に魅入られるのは、何より彼女自身が輝いているからだった。
 何考えてるんだか……僕自身、苦笑した。珈琲を口に含んで、苦くて、それでつい泣きたくなるなんて思いも寄らないことだった。
 今、僕はいったい何をしているんだろう。こんなに凄い人間が世の中にはいるのに、僕はここでぼんやりと生きている。
 たとえば彼女は芸能界に入って一年経たずしてトップに躍り出たほどの才能の持ち主だ。僕はといえば、これといって得意なこともなく、やりたいこともない。バイトだって生活に追われて仕方なく始めたものだ。情けない。比較すればするほどみじめになる。
 彼女はアイドルになってからずっと、高い場所を目指して走り続けていた。僕はぼんやりと立ち止まっているだけで、どこを目指していいのかすら分かっちゃいない。
 喫茶店の中で、数メートルしか離れていない場所で、世界がこんなにも違う。
 彼女は光の中に悠然と佇んでいる。僕は眩しげに見上げるしかない。
 緒方理奈には僕なんかは釣り合わないんだろうな――なんて、彼女の隣りにいる自分を想像して呆れた。そういう勝手な妄想をしてしまう自分の醜さもそうだし、それ以前の問題だってことも分かり切ったことだった。
 羨ましいなんて言うと誤解されるかもしれない。でも、羨ましかったんだ。
 僕は鼻水をすすって泣いた。
 カップを傾け珈琲を飲み干しながら、彼女から目を逸らそうとして、出来なくて、俯いて泣いていた。
 端から見てもおかしなやつだったはずだ。
「あら。……どうしたの、君」
 声をかけてくれたのが、不思議だった。
 普通の人間ならまず何より気味悪がるものだ。泣いている人間なんて関わるべきじゃない。そうでなくても、慮って見ないふりをしてくれる。面倒そうな他人の事情に首をつっこんであれこれと詮索するのは、余程のお人好しか、お節介焼きくらいなものだ。
 そんなひねくれたことを考えていた。顔を見上げる。僕のテーブルまで近寄ってきていた彼女の顔を間近に見てしまった。心配げな表情とは裏腹に、やはり常人よりも整っていた。きめ細かい肌に維持するのに努力しているんだろうなあ、なんて感想まで持ってしまう。
 遠い。何より先に、僕はその印象を受けた。
 悔しくなる。なんで話しかけてくるんだよ。あんたは輝かしい場所で立ってるだけでも凄いって言うのに。畜生。ふざけんな。善人ぶってんじゃねえよ。こっち見るなよ。
 僕自身、思い返してみても、彼女に対してそんな口汚い言葉を頭の中でも考えたのはこれが初めてだった。
 困った。分かっているんだ。暗い。根暗だ。卑屈だ。こんなの世の中に拗ねて背を向けるガキの戯言でしかない。それも理解しているから、口から飛び出そうになった罵詈雑言を必死に押し止めた。浮かれ気分はどこかに吹き飛んでしまっていて、なんか、どっかが麻痺していた。
 脳みそが働いていなかった。
 頭んなかが真っ白になるっていうのは、こういうことをいうんだって後で考えた。全くもって馬鹿で、自分でも嫌になる。
 目の前にいるのは憧れの歌手だ。話しかけてくれたのはあのアイドル緒方理奈だ。しかも心配してくれているんだ。
 何か言えよ僕。とりあえず反応しろ。フリーズしてんな。状況は気まずすぎて死にそうになるくらい最悪だ。身動きが取れない。パニクっている。
 こんなの、もう死ぬ。死ぬって。
「あ。もしかして、ふられた、とか」
 ふと思い立ったように口に出された言葉に僕は何も考えられない。勘弁してください。
 それをどう受け取ったのか、緒方理奈は、頭を下げた。それも絵になる。すらっとした体躯。ふわふわしたセーターを着ていた。ボディラインが出ている。えろい妄想をしそうになって慌てて振り払う。ダメだ。すげえ美人だ。やばい。もっと泣きそう。
「ごめんなさい。今のじゃ……違ったら腹立たしいだろうし、図星でも言いたくないわよね。泣きやんではくれたみたいだし、ついでに機嫌も治してくれると嬉しいんだけど。ね。紅茶の一杯でも奢るから」
 揶揄する口調でなかったのが幸いだった。どこまで本心なのかは分からない。もしかしたら全部が全部、素直な言葉だったようにも聞こえた。彼女はそこにいた。確かに。すまなそうに頭を下げて、相席いいでしょ? なんてさっと向かい側に座ってしまった。
「マスター。紅茶を彼にお願い。……あ、私のもついでに」
 覗き込むように、僕の顔を見てきた。
 恥ずかしさに押し潰されて、テーブルに力なく突っ伏す。彼女は心配げな声で、
「……ねえ、生きてる?」
「生きてます」
「良かった。ちょっと、ほっとした」
 なんてうそぶいて、緒方理奈はおどけるように笑った。


 僕は基本的に珈琲党で、喫茶店で紅茶を頼むことはまずない。のだが。運ばれてきてしまった紅茶を取りやめてくださいと追い返す厚かましさにはとんと無縁な性格だったと自覚もしている。
 頼み事は断らない良い人とはよく言われる形容だが、それがいったい褒め言葉なのか、皮肉なのかは自分では判断しづらい。やっぱりどうでもいい人の略なんだろうなあ、と思うと自己嫌悪してしまう。
 数分後、僕はすっかり落ち着きを取り戻していた。緊張を完全に拭い切れたわけじゃないけど。
 あれこれ楽しげな会話に興じていたおかげだろう。あるいは、空になった珈琲カップから飲もうとしてくすくすと笑われたのが原因かもしれない。
「……私の名前を言ってみろー」
 どっかで聞いたことのあるフレーズだ。漫画好きなのか実は。
「緒方、理奈ちゃん」
 さん付けしようか散々迷った末での選択だった。
「ん。よろしい」
「えと、紅茶ありがとうございます」
「あははっ。いいのよ。気にしないで」
 僕の方はと言えば、最後の最後まで名乗らなかった。自己紹介するなどという極めて不遜な行為に及ぶ蛮勇が無かった、というわけではない。
 単純に名乗るという行為が忘却の彼方にあったのだ。そもそも喋ったとして、まともに名を名乗れたかどうかも疑わしい。ろれつが回っていなかったのだ。アルコールも入っていないのに半分酩酊状態なのは我ながら阿呆かと苦笑いするしかない。
 しかしこんなに楽しげにふざけるひとだったのか。
 驚いた。
 単に僕を励ましてくれているだけかもしれない。その場合、ふられ男と思われているってことだけど。
 それにしても、つくづくとんでもない相手を前にしていると実感してしまう。こうして気を回してもらっているのが緒方理奈だなんて、さっきとは違う意味で泣きそうだった。
 テーブルの前でひじをつき、ふふ、なんて微笑んでいる。
 年季の入ったファンに見つかったら殺されそうな光景だ。この店のマスターは、僕の動揺を可笑しげに見守っている。止める気は皆無っぽい。というか、緒方理奈当人とそれなりに面識があるのだろう。
 それからのあいだ、僕が泣いていた理由にはこれ以上つっこまないでくれた。しばらく話を続ける。なんでもない話ばっかりだ。時折思い出したかのように、僕が突発的に彼女の曲のあれが良かったと言って、歌い手本人は『あら、ありがと』なんてさらっと受け取る。
 普通だ。すごく、普通だ。
 それが妙に変で、よく分かんなくなる。今さっきの遠い存在だという印象はまったくの錯覚だったのか。それとも実は別人だっりするのか。
 話題に出すような内容でもないからと、僕は地道に会話に間を空けないよう必死の努力をしていた。
 小粋なジョークは何度か外した。恥ずかしかったが、お兄さんのせいで慣れているからとフォローされた。兄というと、緒方英二氏か。天才とよく聞くけれど、そういうキャラなのかあのひと。知っちゃいけないことを知ってしまった気分になる。
 そういえば、と店内の時計に目を遣った。まだ時間まであと三十分近くあった。時間が経つのが早いのか、遅いのか、よくつかみ取れない。
 そもそも、こんな日に外で延々待とうとするなんてのは愚か者のやることだ(つまり僕なわけだが)し、あの子もぎりぎりに来るだろう。もう少しここにいられる。安堵する。安堵? なんで安堵するのか、考えちゃいけないような気がしてきた。
 それでふと気付いた。
 彼女も誰かを待っているのだ。だから、喫茶店で一人、優雅に珈琲を楽しんでいるのだ。
 なんで今さら気付くのだろう。僕は。
「もしかしなくても……人待ち、ですか?」
「そうよ。君も?」
「はい」
 つい、敬語調になってしまう。
 眉をひそめられたが、すぐに穏やかな声で、
「ま、こっちはもうすぐ来ると思うけどね。ところで君が待ってるのは……女の子でしょ?」
「なんで分かるんですか」
「なんだかそわそわしてるもの。じゃあ、これから告白でもするのかしら。雪まみれを嫌ってここまで避難してきた、とか。って……ええと、ごめんなさい。これも私が気にするようなことじゃないわね」
「いえ、合ってます」
「ふうん。そっかあ。……なるほどなるほど」
 そのまま、なんとなく黙る。
 静かな店内に切なげなメロディが流れてくる。選曲のセンスは店のマスターを褒めるべきなのだろう。優しい音色だ。古いレコードっぽい。
 やわらかい光が天井から降り注いでいる。
 素敵な静寂だった。
 窓から外を見る。そこら中が寂しげな暗さに満たされ始めている。まだ夕方にもなっていないのに。空が雲で敷き詰められているからだった。
 何もかもを消し去るみたいな、真っ白な世界。
 悲しい。なぜだか、とても悲しくなった。緒方理奈の横顔を見ていると、その笑顔が悲壮な雰囲気に見えてしまって。彼女も外を見ていた。いや、雪を見ていた。
 溶けない雪を。
 白。あたかも今日を終わらせてゆくような景色のなかで。
 視線に気付いて彼女はこちらに向き直る。照れたみたいな作り物の微笑みが僕にはひどく悲しく感じられた。ガラス窓に映った彼女は泣いているのだと、そのとき何となく、思った。遠い場所を見ている。ありふれたものを求めている。
「綺麗な景色ね」
「……はい」
「今日は止みそうにないわ。あーあ、明日はお仕事なのに」
 彼女はきっと、微笑んでいる。
 じっと空を見上げた。それからカップを覗き込む。テーブルを挟んで向き合っている僕の目の前で。美味しそうに紅茶を飲む彼女の姿は、幸せそうに見えた。
「あれ、理奈ちゃんって紅茶党なんですか」
「あー。普段は珈琲のほうがよく飲むかも。でもどうして?」
「砂糖とか、入れるかどうか一瞬も迷わなかったから」
「ふふっ。だってここのは美味しいんだもの。それに……珈琲はノアールじゃ飲まないから、ね」
 受け答えが楽しい。顔がほころぶ。
 だから僕は勝手に決めつけることにした。いいじゃないか。こうしている僕は本当の彼女なんて知らない。彼女の歌が好きだ。顔が可愛い。美人だ。見ていて嬉しくなる。それで十分。いくらでも羨ましがれる。彼女は望むなら、どんなものでも手に入れるだろうから。
 溶けてしまう雪を、眩しい太陽の下でいつまでも握っていられるわけがない。どんなに留めておきたいと思っても、それは熱のない光の元でしか彼女のものにはならない。
 だとすれば、それはひどく悲しいことではなかろうか。しかし持ちうる者の哀しみを、持たざる者が同情するなど、馬鹿馬鹿しいくらいに意味がない。
 強いから傷つく。傷つくことを厭わずに前に進める。その愚かさは、なんて美しいのだろう。そう、僕は弱いからそんなことはできない。そして緒方理奈は強い。ただそれだけの違いじゃないか。
 それだけの違い。
 本当に?
 それとも、その強さの正体は何か別のものなのだろうか。
 思考を顔に出さないよう努力していると、いたずらっぽい笑みで問いかけられた。
「ねえ、あなたなら」
「なんでしょう」
「何かを好きになって、それを諦めきれなくて、ひとつだけ選ぶしかなくて。そうしたら、他の何もかもを捨てられる?」
「……それは」
 よく、分からない。知らない。だから、聞き返せないまま、別の言葉で誤魔化した。
「抽象的な問いですね」
「そうね。抽象的」
 試す口調。厳しい瞳は、誰に向けられたものだろう?
 僕じゃないのは確かだ。
「でも」
 静かに、僕のことを見ている。きっと僕の向こうに、他の誰かを覗いている。
 また、悲しくなる。
 彼女の世界には僕はいない。当然だった。何もかもが違う。僕は彼女のいる場所にほんの一時、偶然に足を踏み入れたエトランジェに過ぎないのだから。
 ふたりして何も言わない。
 外にはしんしんと真白き雪が降っている。輝きで音を掻き消しながら。僕らの歩くべき道を、鮮やかな白で覆い隠すように。
 僕は目を閉じた。ゆっくりと息を吸い込む。そして、彼女の世界を想像してみる。
 そこは光に溢れた世界だった。
 ライトの輝きに反射するのは彼女自身。まさに夢の世界だ。ブラウン管の前から、僕らはそこを垣間見る。舞台の上にある、様々なものをのぞき見る。世界は彼女を中心に回っている。彼女はすべてを思うがままにできる。それは、なんて華やかな世界だろう。
 だっていうのに、そこには彼女の最も欲しいものは存在できないのだ。たとえば夜にしか生きられない夢のように。太陽の下での雪のように。
 暗い場所にいる。見上げた照明に目が眩む。そして、どんなにまぶしい光を手にしても、それが人工の光でしかないと知る。
 朝にならなければ、太陽を見ることは出来ない。それに気付いてしまったなら、立ち止まっては居られない。その場所から歩き出さなきゃ気が済まないのだ。
「やっぱり分からないです」
 ぽつりと呟く。思うように素直に応える。そうすることしかできなかったから。
「誰にも、分からないです。きっと」
「そうかしら」
「僕はあなたの歌が好きだし、ひどく羨ましいけど、僕は緒方理奈には決してなれない。あなたが何をしたいのか知らないけど、僕はたぶん、それを応援すると思います」
「……ありがとう」
「どういたしまして。なにせ、僕はあなたのファンですから」
「そっか。ごめんね」
 何に対して謝っているのか。
 僕は知らない。知りたくもない。
「いいんです。だって、ファンなんですから」
 そう言うと、なんだかすっきりした。これだってひとつの本心だ。
 彼女は迷いながら、それでも前を向いているのだ。その気高さに、ちょっと惚れてしまいそうになって、僕はひっそりとため息をついた。


 僕はこう思う。
 深い闇へと自ら踏み込もうとする冒険者に対し、かける言葉など無い。闇を抜け、その先にあるより大きな輝きを手に入れようとしている者に必要なのは、安全圏から制止する声ではないのだ。
 その闇は未知と呼ばれる。あるいは未来とも。
 緒方理奈は、ひたすらに格好良かった。すごく綺麗だった。最後まで僕は魅せられていたままだった。
 ファンとして、彼女の今後への決意を知ったという昂揚。そんなものあるわけなかった。今の会話から読み取れることがあるとすれば、緒方理奈がアイドルを辞めるであろうことだけ。
 僕は笑顔はそのままに、顔には出さないが、本気で落ち込んでしまっていた。一番好きな歌手が引退する。痛恨の出来事だ。凹む。ここ最近では就職出来なかったまま卒業したのと同程度に辛い。むしろこっちのがきついかもしれないくらいだ。
 彼女の決断には、僕がこの場にいようがいまいがきっと関係なかった。とはいえ、その情報をこうして一人だけ知ってしまったというのは、余計に痛い。胃もそうだが、胸が痛む。
 アイドルとしての緒方理奈のことは、とても好きだった。けど、これは失恋なんかじゃなかった。
 でも憧れだった。泣きたくなる。頭のなかぐるぐるしている。ショックだ。ぼーっとしている。何もかもが色褪せて見えて、けっこう困る。もうどーでもいいや。色んなことが本気でどうでもよくなってきた。嘆息も飲み込む。この気持ちをなんて呼べばいいんだろう。さみしさに似てひどく冷たいくせに、なんだか胸の奥はほんのりと暖かいんだ。
 勢いに任せて紅茶を飲んだ。少し冷めてしまっていたが、美味しかった。しょっぱくない。泣いてないぞ。泣いてない。僕はごくごく平静を装う。
 時計を見ると、そろそろ時間だった。
 店を出ることにする。
 これから告白しにいくってときに、なんというぐだぐだな僕。嫌だな。まったく。気合いを入れ直さないと。
 レジに向かう。代金を払う。
「これから告白するんでしょう。ほら、頑張りなさいよっ! それと、メリークリスマス!」
 ドアの横に置いておいた傘を握る。
 ドアを抜ける直前、背中にかけられた声は緒方理奈のものだった。僕は振り返らなった。
 だけど嬉しくて、前を向いたまま頬がゆるんだ。自分のゲンキンさにだいぶ呆れながら、未練も無くあっさりと外に出る。
 格好付けすぎたかもしんない。とにかく意気揚々とは行かないまでも背中は押して貰ったんだ。こんな幸運はそうそう無い。
 なら、あとは僕次第だ。
 外気に晒された瞬間、凍えそうになる。ここから待ち合わせの場所までは距離もほとんどない。寒さに震えつつ、雪に足跡をつけながら、僕は足早に歩いていった。


 あとはまあ、これからデートする予定のあの子のことをひたすら待った。
 待った。
 そりゃ待ったさ。
 五分前に着いて、時間になって、来ない。十分が過ぎて、二十分が過ぎて、三十分が過ぎていった。瞬く間に一時間が通り過ぎていき、これはホントにふられたかな、と不安になった。
 だいたいなんだよ。あの不気味な栗を模した銅像は。待っちクリなんて妙な名前をつけて待ち合わせ場所の目印にすんなよ。などと苛立ちを紛らわせるために毒づいてみたり。蹴ったらバランス崩して転びそうだとか軟弱な理由で身動きしなかったり。
 それでも来ない。
 どんなに遅くとも、緒方理奈はもう待ち合わせた相手と落ち合ったころだろうか。と不意に、ひとつの事実に思い至った。よくよく考えてみれば、彼女は全国を回ってのライブツアー真っ最中じゃないか。イブの日を挟んでの、八日間のコンサート。オフだとして、なんで今日、こんなところにいるんだろう。
 色々と想像して、笑ってしまった。なんだかおかしくって、笑いが止まらない。変な銅像の目の前で、一人っきり、たぶん探せば電飾で彩られた、巨大なクリスマスツリーのひとつも近くにあるだろうに。僕もこんなところで何をやっているんだか。
 妄想だった。たとえば来もしない相手が偶然にでも訪れるを待っているとか。だけど気の強そうなあの振る舞いから察するにそんな性格とも思えなかった。
 かぶりを振って変な考えに取り憑かれた自分に苦笑いする。やっぱり、そんなのありえない。だって彼女はあの緒方理奈だ。
 でも――と、考え直す。
 そうじゃないんだ。彼女だって、僕とそう違いがあるわけじゃない。ほんとうは弱くて、だから強くなりたくて、そのためにいつも前を見ているんだ。
 違うと言い切れない。
 なんだかなあ。僕も、ひとのことを考えてる場合じゃないってのに。
 顔が冷たい。やたらと寒い。笑ったまま凍り付きそうになる顔面が痛い。冷たくて痛い。というか冷たいという過程を通り越して常時ものすっごく痛い。
 駅を覗くと、どうやら電車が止まっていたらしい。運転再開とのことだ。ひと安心。しかし、そろそろ二時間が過ぎそうになっている。僕は、本格的に落ち込む用意をした。心構えだけでも平気な風を装わねばダメージが大きすぎて立ち直れそうにない。クリスマスイブにデート誘って、オーケー貰って、それで来ないって救いよう無いじゃん僕。
 一度、ちょっと向こうにある公衆電話から彼女の家に電話をかけてみた。誰も出ない。留守電にもなっていない。慌てて戻ってきたが雪の積もった道に足跡はなかった。
 ほっとするのか、悲しむべきかと惑う。来ていなかった。それで気付いた。身動きが取れない。
 というか、今この場を離れてその途端に来ちゃったりしたら、僕はもう帰ったって思われるんじゃないかという疑惑に駆られてしまった。一度不安になるとこの猜疑心はかき消せない。しかもこの疑いは来る前提だ。僕はどうやら来ない可能性なんか考えちゃいないらしい。
 体力は危険水域まで低下していた。体温が下がって、息もしづらくなって、思考能力もがんがん減っていって、なのにあの子への想いだけが胸のあたりでじんわりと熱くなっている。うわ。こんなに好きだったのか。自分でもびっくりだ。
 太陽が欲しい。二時間ちょっと前の緒方理奈の励ましプラス、自分のなけなしの根性でなんとか耐えている。
 待つぞ。
 こうなりゃまだ待つ。待ってやる。好きなひとがいて、何もかもを捨てるくらい、なんてことはないんだ。それくらいどうってことはない。それをするって決めたのは僕だ。誰にも邪魔はさせない。雪がなんだ。寒さがなんだ。他人がなんだ。知ったことか。僕がこうするのは僕のためだ。他の誰にも止められやしない。誰にも文句は言わせない。
 イブの日。メリークリスマス。ありがとうホワイトクリスマス。でも死ぬ前に告白だけはさせておくれ。彼女がここに来ないなんてことは、あり得ない。何があっても僕だけはそれを信じなきゃいけない。まだ始まってもいない恋でも、ここまで心臓がドキドキ言ってるんだ。
 僕はさっき見た緒方理奈の目を想う。あの不安げな色に揺れながら、それにもまして強さを秘めた輝くような瞳を。
 消えないものはあるのだ。絶対に。
 夢かも知れない。恋かも知れない。求める。それこそが彼女の強さなのかもしれない。彼女はきっと何者にも負けることはない。
 そうだ。僕も、負けてられない。
 闇に立ち向かう。
 彼女が来ないかも知れない。その不安を振り払う。どんなに疑っても、信じなきゃいけない。
 情熱を抱きしめたまま、僕はこの胸の鼓動を確かめる。他人が聞いたら笑われるかもしれない、うらやむようなシチュエーション。ロマンティックな場面の一コマ。
 そんなの何もかも似合わない。そぐわない。僕は何者でもないちっぽけな一般人でしかない。あたりは暗くなってしまった。もう諦めるべきなのかもしれなかった。
 雪の音は、優しいメロディ。こうしていると運命の足音が聞こえてくるようだった。何もかもが真っ白な世界で僕の行くべき場所がすぐそこにあると確信する。
 負けたくないんだ。
 あんな格好良い女の子がいるって知ってしまったら、僕なんかじゃ、もっと頑張らなきゃ追いつけやしない。
 手の感覚無くなってきたや。手袋しててもこれだとかなりやばいような。焦りも手伝って息が荒くなってくる。視界が狭い。雪はいつしか吹雪に変わってしまっていた。
「ごめんなさい」
 一瞬、幻聴かと疑った。
 あの子だ。声で分かった。振り向くのが怖かった。背中からかけられた声がひどく暗いことに僕は気付いていたから。
「ずっと待っててくれたんだよね。……本当に、ごめんなさい」
「あ……」
 声が出ない。口が動かない。というか震えている。本気でやばい気がしてきた。逢えた途端に萎えかける闘志。何か言わなきゃ。言わなきゃいけない。思いつかない。何か。何か、何でも良いから思いつけ僕! 混乱していて。ひゅう、って息が詰まりそうで。胸が苦しくて。それでもなんとか最後の意気地を発揮して、三時間近く遅れてきた彼女に振り返る。
 申し訳なさそうどころか、泣きかけている顔。
 こっちのが申し訳なくなる。
 僕は可能な限り格好付けるようにして、にっこりと笑った。
 ちゃんと言えたかどうかは分からない。ただ、無理矢理に言葉を繋いで、脳裏に描いていたシーンを伝えてみる。
「待った、って聞いてくれる?」
「どうして」
「いいから」
「……待った、よね?」
 引け目があるせいか、彼女は素直に言うことを聞いてくれる。なんだか来てくれたうれしさだけで胸一杯な僕は、大げさな素振り、体中に積もった雪を振り払って、
「いーや、全っ然!」
 なんてまるきりの本音で、弾けるように、僕はただ笑んだ。
「一度で良いから、言ってみたかったんだ。この台詞」
「……寒かったでしょう。ごめんね。でも、どうして」
 二度目のどうしては、僕の様子について。もしくは理由。こんな時間まで、ひたすら彼女を待っていた理由だろうか。
 困ったことに、僕がどれだけ待ったのか、そんなことは彼女も分かり切っている。
 タイミング良く通り過ぎていった大型車が大音量で緒方理奈の曲を流していた。サウンドオブディスティニー。踊るように。夢のように。
 泣きそうだ。まったくもって、愛しさは消えやしない。
 あたりはどこまでも雪まみれの銀世界だった。僕は上から下まで真っ白けだ。何もかもが冗談みたいな綺麗さのなか、曲が聞こえなくなると共に、すべては優しい静寂に包み込まれる。
 僕はやっぱり弱い。
 やばいくらい足ががくがく震えてる。意気地無しめ。いろんな想像が頭の中を駆けめぐる。ごめんなさいと断られるとか、ずっと友達でいましょうって逃げられるとか、そういうふうに思ったこと無いからとか、こんなにも不安、こんなにも怖いなんて。それでも彼女のことだけははっきりくっきり見えている。輝いて、あったかくて、きれいで。
 何もかもが突き刺さるみたいに、心が熱い。
 鼓動が激しい。
 彼女にも聞こえてるんじゃないかってくらい、ドキドキと心臓が鳴り響いてる。でも静か。これ以上ないってくらい、あたりはしんとしている。
 大丈夫だと思った。強くなれるんだって思った。
 震える声で、僕は言う。
「メリークリスマス」
「……うん。メリークリスマス」
「好きだよ」
「え。いやあのその。そのっ。えっと。す、好き……って」
「君に、ずっと言いたかったんだ」
 僕と彼女のあいだで、ぽっかりと空いた沈黙。絶句されてしまった。この寒さのなかで、彼女は顔に火が点いたみたいに真っ赤になる。
 まるでさっきの動揺しまくっていた僕だ。困り切っているみたいに見える。でももう言っちゃった。言っちゃったんだ。
 世界がぐるぐる回っている。
 口が勝手にしゃべり出す。勢いのまま、思った通りに。
「う。やっぱり照れる。いや、こんな雪の日じゃ、もうどこにも遊びに行けそうにないけど。とっ、とにかく来てくれてありがとう。良い喫茶店が近くにあるんだ。立ち話もなんだから、そこで話そう?」
 慌てているのが自分でも分かる。
 手を、勝手に握る。手袋ごしなのにとっても暖かかった。指先からしびれるような気分。甘い匂い。体が更に熱くなってゆくのを自分でも感じた。
 彼女はびくっと驚いて体を震わせる。どうすればいいのか分からないといった泣き顔みたいな笑顔のような、その中間の微笑みで固まっている。立ちすくんでいる。動かない。僕の方をじっと凝視する。僕と目が合う。瞳の輝きは、真剣さを秘めている。
 僕らはきっと、どんなに迷っても最後にひとつ決めたなら、あとは真っ直ぐに走り抜けてゆくしかない。
 さよなら、優しき夢の日々よ。
 僕も僕にしかなれない。
 たぶん現実は僕らに優しくなくて、ひどく厳しく振る舞うかもしれなくて。でも傷つくことなんかかまわない。求めているんだ。誰もがひとつだけのものを探し求めて、奪い合いながら。
 本当の恋はたった一度。ひとりだけ。代わりなんかどこにもなくて、情熱で心臓が止まるくらい強い想いの。あふれてくる。とめられない。とめられるもんか。
 もう、あとにはひけない。
 じわっと涙が滲んできたのを感じた。雪と混じって彼女には見えないだろうけれど。
 君がいるなら、僕は他のものなんていらない。
 彼女はそっと顔を伏せる。僕の顔から目をそらす。彼女の腕を握ったまま、僕は動けないでいる。足下の雪についたふたりぶんの足跡は、寄り添っているように見える。
 僕は想う。誰よりも強く、君のことを想っている。
 彼女は口を開く。僕を正面から見据え、潤んだ瞳のままで。
「わ、わたしは、あなたのこと――」




 今年もまた、雪が降っていた。
 例年の雪量を考えれば、三年も連続してクリスマスイブの日が雪に見舞われたのは喜ぶべきか、渋面で迎えるべきなのか、いまいち判断がつきかねる。
 BGMには、サウンドオブディスティニーが流れている。
 僕は、彼女の部屋でゆっくりとくつろいでいた。つまりは告白にオーケーをもらい、そのまま付き合い始めて早一年が過ぎたということでもある。僕と彼女はお互いを知ることで、多少幻滅する部分もあったように思うが、それ以上に好きになっていた。
 恋愛とは得てしてそういうものだろうと最近は思う。そろそろ恋が終わって、愛が始まる時期なのかもしれない。
 ……自分で考えてて恥ずかしい台詞だと思った。とにかく、何かをしてほしいから、してあげたいに変わってきた感じなわけだ。
 ちなみに彼女はと言うと、BGMに合わせて鼻歌を口ずさみながら料理を作ってくれている。肉じゃがは修行中らしく、目下何が出てくるのか予想もつかない。でもまあ、未来は少しくらい分からなくて不安なほうが楽しいような気もする。
 僕は細々としたクリスマスの飾り付けを終えたところだった。オレンジペコのティーパックで、二人分を淹れる。最近は珈琲よりも紅茶のほうがよく飲むようになった。
 それにしても、たった一年前のことなのに、とても懐かしいと感じてしまう話だ。
 あのとき緒方理奈に出逢っていなければ。そんなふうにイフの歴史を思い浮かべることが時折ある。彼女にとって僕は単なる通りすがりだっただろう。けれど僕にとって、彼女とあのとき話せたことがたぐいまれな幸運だったことは間違いない。
 アイドル、緒方理奈が引退したのは、それからしばらく経ったある日のことだった。世間的には青天の霹靂だっただろうが、僕は驚かなかった。来るべき日が来たんだ、とさえ思った。
 それでも引退のニュースを聞いたとき泣いてしまったのは、やっぱり凄く好きだったからだろう。
 恋愛感情以外でも成立する愛情はいくつも存在する。
 尊敬。憧憬。親愛。友情。そういったもののうち、どれだったのか。とりあえず、恋人と上手くいったってことなんだろうな、なんて安易に想像しておくことにする。詳しく知る必要はない。ただ、緒方理奈が幸せであるという事実さえあれば、それでいいと思う。
 そういえば、と付け加えておくけれど。
 何ヶ月か前のことだ。
 僕は、引退宣言直後から姿をくらました緒方理奈を、とある場所で見かけたことがあった。あっちは覚えていないか、気付かなかったようだが、僕は見てすぐに分かった。隣にいるのが彼女の恋人なんだ、と。
 緒方理奈の一ファンとしては複雑な気分になったのは言うまでもない。
 似合いのカップルめ、お幸せに。


 好きな誰かのために、すべてを捨てる。
 愛しさは、どんなものにも代え難い輝きに満ちている。でも、おそらく世界はそこまで綺麗には出来てはいない。
 彼女の行く手には、多くの苦痛が待ちかまえているに違いなかった。やっとこさ会社に就職できた僕にしても、最近は終電で帰宅する日が続くのが当然になっている。どんなに疲れた日でも恋人を抱きしめればやっていけるなんて強がってはみるが、やっぱり大変なことに変わりはない。
 そう、日々は終わらず、困難は何度だってやってくるのだ。
 僕らは前に歩き続けるしかない。どこにあるかもしれないゴールを目指して。
 だけど、それでも。
 歓びはそこにあるから。
 僕は信じている。彼女はどこかに通じているその道を、真っ直ぐに進んでゆくのだと。迷うことがあるとしても、決して諦めることなくその迷いを乗り越えて、いつか求める場所へ辿り着くことを。そしてアイドルでいたときより、ずっと多くの幸せを手に入れるに違いないのだと。
 緒方理奈ならそれが出来るはずだ。それも、案外簡単に。
 だから、こんな雪の日には……星に願いを。
 雪色の雲に覆われていて、なんにも見えない夜空の向こう。けれど星は、今もどこかで輝いている。消えることのない煌めきで。尽きることのない情熱で。たったひとりの誰かのために、静かに愛を唄いながら。
 紅茶の香りを楽しみつつ、僕はそっと目を閉じる。
 夢みるように。歌うように。

 ――ありがとう。それと、メリークリスマス。



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