目覚めれば静かな光。
 私はのそのそとベッドから抜け出す。
 部屋に充満した冷たさが私から体温を奪っていく。
 朝からは、少々時間が経ちすぎていてるらしい。
 時計を見るまでもなく、太陽の色は昼を過ぎたことを表している。
 それでも雪国の空気は厳しい。
 眠気を我慢して、部屋の中を歩く。
 パジャマから着替えて、すぅ、と息を吸い込む。 
 呼吸で新鮮な空気を肺に送り込んだ。
 それを区切りにして、大切にしているものに手を伸ばす。

 ストールを手に取ると、少し胸が痛んだ。
 その傷みだけが、私に許された唯一のもので。
 私が感じられる全てなのかもしれないけれど。

 でも、その痛みを感じるのも最後だと言うように、私は立ち尽くす。
 視線を一カ所に向けると、自分のベッドはほとんど汚れていないことに気付く。
 真っ白なシーツが、ただ主人の長い不在を示すかのように整っている。
 今まで私がそこにいた形跡は、たった一瞬で消えた。跡形もなく。
 そう、私もこんなふうに消えていくのだろうか、などと思う。
 綺麗すぎる白は、雪よりもむしろ、病院の色を思い起こさせていた。
 痛みと苦しさ。悲しみと辛さ。少しだけの希望。そして絶望。
 縛り付けられたように動けない私は、視線だけを窓の外に向ける。
 切り取られた世界は、純白。
 素直にあこがれていたほどの、ただ一面の銀世界。 
 処女雪なのだろうか。足跡ひとつ見当たらない。
 その景色に、やっとの思いで私は息を吐き出した。
 感嘆なのか、羨望だったのか。私自身には、よく分からなかったけど。
 見惚れるほどのその雪と、透き通った生まれたばかりの風。
 私は、そのふたつに近づきたくて、部屋からそっと抜け出したくなった。









 『小さな決意』 作者:yoruha








 私はストールを羽織ると、足音も立てず、黙って部屋から出る。
 滅多に使うことも無かったお小遣い。
 可愛らしい財布に詰め込む。
 ちょっとだけ開けられた廊下の窓から、風が吹き抜けていった。
 冬の風に顔を撫でられ、私の体は軽く震えた。 
 ぬくもりの少しも残っていてくれれば、とストールを抱きしめる。
 冷たかった。

 玄関へと向かうと、靴がふたりぶん。
 ここにあるはずの靴は四足。残るふたつは、きっと病院。
 そして、あとのふたつは、私ともうひとりのもの。
 何年か前なら、私は孤独に耐えられなくて、きっと部屋で泣いていたのだろう。
 今は、悲しさも痛みも受け入れて、でもそれは、決して消えることはなくて。
 だからきっと、あのひとも泣いているのだ。
 悲しいくらいに、解ってしまう。
 涙を流すこともせず、優しいあのひとは声も無く泣いている。

 ドアを開ければ、痛いほどの冷たさ。私を切り付けていく。
 靴を履いて外を見渡すと、積み重なった雪が目に入った。
 独りっきりの自分には、あまりに寂しげな風景だけど。
 
 透明な空気に包まれて、意識は冴えた。
 やるべきことはわかっている。もう、恐怖も感じることはないだろう。
 傷だらけのこころは、いつの間にか痛みがなくなっていた。

 ……さて、私という存在を消そうと思う。

 運命という筋書きに踊らされる、人生と呼ばれるドラマ。
 私の場合、他のひとよりもずっと短いだけの悲劇でしかない。
 あのひとと私。
 このドラマの悲しい結末は、とっくに分かりきっている。
 長引いたなら。じわり、と拡がっていく重く鋭いこの痛み。
 おそらく私が生きている限り、いつまでも続いていくのだろう。
 だから私は、その小さな物語を終わらせるだけのことだ。
 感じていた胸の痛みも、あのひとの悲しみも、きっと一緒に消えていく。
 そうすれば、私たちの悲しみは続かない。
 ほんの少しだけ、寂しいとは感じるけれど。
 最後に私の望んだ世界、過ごしたかった街の中を見てからにしたい。
 だから、ちょっとだけ。ほんのちょっとの散歩。
 控えめな願いだと、自分でも思う。 
 手首を切るためのカッターは、家に置いてある物なんて使うわけにはいかないし。
 ついでに、ちょっとだけ。ぜいたくにお買い物をしよう。

 ……私だって、女の子なんだから。
 聴くひとも、必要もない言い訳を自分自身に向けて、独り小さく呟いた。
 

 往く道は短く長い。
 ともすれば意識の片隅にも掛からないようなものが、なんとも興味深い。
 視線を上げれば、屋根に乗った雪のかたまり。散る雪の粉。
 地に降り注いだ雫。跳ねる銀の光。
 あるいは木々。枯れた姿が寂しげに揺れている。
 そして、活気に溢れた人々の姿。
 流れていく、真っ白すぎるほどの雲。
 太陽の光に後ろから照らされて、銀色に輝いている。
 コントラストは鮮明に。狭い私の世界を笑っているかのよう。
 果てのないかのような、空の蒼。
 何もかも、どうでもよくなるくらいに真っ白な雲と光。
 空を走る風が、雲を運んでいくのが見えた。
 光の柱が、どこまでもどこまでも連なっている。
 終わりのない夢のように、ずっと。
 私は羨ましくなって、その広すぎる世界を呆然と見上げた。
 生まれてきたことも。
 今、生きていることも。
 なんて綺麗なことなんだろう。

 この世界に生きられるということは、奇跡なのだろうか。
 ならば私だけ、その奇跡からは見放されているのだろうか。

 雪に跳ねる陽光が目に入ると、そんなくだらない夢想から解き放たれた。
 大きな大きな雪だるまを作ることもできなかったな、そんな感傷が胸をこみ上げる。
 だんだんと強くなっていく、この胸の想い。
 痛みではなく。まして後悔でもなく。
 それは、他人事のような諦め。
 凍り付いた全てを、どこか遠くから見ているかのように。

 もう、終わってしまったことにして。


 あてもない道の途中、やっとコンビニを見つけた。
 ごめんなさい、と心の中で店員さんに向かって謝る。
 私がこのカッターを使う理由は、とても迷惑なことだから。
 カッターひとつを買うなんて怪しいことはするつもりはなかった。
 適当に見つくろうと、それなりの数をレジに持っていく。
 なんとなく、学校で使いそうなものを。
 未練だろうか。
 使いもしない新品の文房具を大量に買い込んだ。
 少し奇異の目で見る店員さんから逃げるように、紙袋に入れられた品物を抱える。
 店を出ると、寒さが私を包み込んだ。ストールが揺れる。
 かなり重い。自分の力では、少々歩くのが遅くなるのは仕方がないだろう。
 商店街の通りに面した店を、横目に見ていく。
 ファンシーショップ。アイスクリーム屋さん。クレープ屋さん。
 百花屋。八百屋。小さめのスーパー。軒先に肉まんの置いてある店。
 目に入る全ての店を、そのまま目に焼き付けるように。
 ゆっくりゆっくりと歩いていく。
 吐き出される息は白い。そのまま空に昇り、すぐに消えていった。

 楽しい時間はすぐ終わる。
 商店街を抜けてしまうと、遠く街並みが消えた。
 噴水のある公園への道。一度立ち止まり、紙袋を抱えなおす。
 薄い音が、くしゃりと鳴った。
 雑誌だのお菓子だのも、ついつい買い込んできたせいか。
 思ったよりも重い。力を入れて抱え込む。
 木々が立ち並ぶその道に人のいる様子はない。
 ひとつひとつが天へと伸び、雪に覆われている。
 触れれば、今にも落ちてきそうな白化粧。
 一本一本が寂しげに。風にも揺れず、ただ埋もれていた。
 根本には雪が深々と積もり、足を踏み入れれば転びそうになる。
 ちょっとだけ避けて、私は歩き出した。

 意外に長いその道で、少し疲れて立ち止まる。
 木の近くに寄って、まだ白く染まる息を吐き出した。

 と、どこかから声が聴こえてきた。
 近い。
 耳を傾けると、ふたり。男と女。
 古くさいドラマのように、再会のシーンみたいだ。
 私はそんなひとたちが羨ましくなって、黙った。
 流れる会話を聞き逃さないようにしていた。意識はしなかったけど、つい。

 感動のシーン。
 恋人である少女と少年は再会の約束をし、その約束は守られる。
 ふたりは涙に震え、ハッピーエンド。そんな気持ちのいい物語。
 そんなことが、あるんだ……本当に。
 悔しくて、下を向いた。
 前だけを見て生きられることなんて、そんなことは無いけれど。
 悲しさに染まる自分のこころが、どうしようもなく揺れた。
 奇跡なんて、どこにでも転がっているんだろうか。
 起きないはずの奇跡を望まなくなったのは、絶望を告げられたとき。
 笑ってなにもかもを受け入れることを、決意した日。
 起きないからこその奇跡だと。そう思わなければ悲しすぎる。

 けれど現実は私の予想を裏切った。
 再会を祝う音は激突音。景気のいい轟音が響き渡った。
 木に伝わる衝撃。それは、気付いたときには遅くて。

 私の真上から、大量の雪のかたまりが落ちてきた。


 話を聞けば、なんてことのない。ただの再会。
 長年の空白を挟んだ、とてもささやかな偶然だった。
 雪を落としたのには悪気はないらしい。
 謝っているのやら、それとも謝っていないのやら。
 息の合ったふたりの会話。きっと仲が良いんだろう。
 どことなく面白そうな男の人と、本当に楽しそうに笑う女の子。
 笑みをこぼして話しているふたりを見て、私はやっぱり羨ましかった。
 なんてことのないこと。
 ただ普通に生きられること。
 もしかしたらその中に、目の覚めるような出逢いもあって。
 楽しくて、嬉しくて、幸せな、そんな一生。
 このひとたちは、きっとそれを手に掴むことが出来るんだ。
 そんなことを思う。
 だからとても羨ましい。
 私は表情をつくることも忘れて、ふたりをぼんやりと見ていた。

 落ちてしまった袋。
 その中身を見られても、別に困ることはなかったけれど。
 何故か……、私はひどくうろたえた。
 すぐに消えるつもりの私が、動揺を感じる意味なんてないのに。
 
 最後に呼び止められて、商店街への道を尋ねられた。
 道に迷ったとしても、あんなところに出るあたり、運命的と言えなくもない。
 あのひとたちに、少し興味を持った。たぶん、これからどうなるのかを。
 結末を知ることは、私には出来ない。
 二度と出会うこともないだろう。
 去っていく後ろ姿。
 その楽しそうなふたつの影に、私は小さく、舌を出して見送った。

 公園に辿り着くと、風が強くなっていた。
 だんだんと暗くなっていく空。視線を送れば、薄く架かる赤い雲の橋。
 夕焼けの燃えるような赤さが目に染みた。
 噴水に目を向ければ、張った水の表面が凍り付いている。
 映る太陽を目に焼き付けて、私はその、お気に入りの場所に背を向けた。
 荷物は重さを増したかのように、手にのしかかる。
 私はぎゅっと袋を抱きしめて、歩みを進めた。
 ストールを羽織り直したけれど、少し寒い。
 
 帰り道は遠回り。
 最後の最後に、誰もいない学校を見る。
 校舎には入らないで、ぐるっと一周。
 そのまま校庭を遠目に見た。
 振り返った校舎。三階には仄かに光る非常灯が見えた。
 抜け出すように中庭。風が吹き抜けていった。
 視線を落とし、見回し、最後に中心で空想を巡らせる。

 いつかきっと、この場所で。
 そんな私の願いも、もう叶わない。

 すっぱりと諦められるわけもない。
 未練なんていくらでもある。
 奇跡が起きないのは知っていて、それでも愚かに私は願う。
 たとえばそれは、ドラマみたいに。
 救いを与えてくれる主人公はいないのだろうか、なんて。
 自分の人生の主人公は、自分でしかないのに。
 人に頼ったところで、奇跡なんて起きるわけもない。
 なにもかもを投げ出したくて、それでも耐えてきたけれど。
 終わりは近い。その終わりを自分で早めるだけのこと。
 何よりも大切な、あのひとの心を守るために。 
 絶望に耐えられない、自分の心を守るために。

 それでも私は思うのだ。
 最後の最後に、素敵な恋をしてみたかったなぁ、って。 

 
 暗くて寂しい帰り道。
 もう寄るところもなく。
 ふたりで歩くはずだった道を、独りっきりで帰る。
 無言で歩く。どうせ誰もいないから、静寂は保たれたまま。
 白いままで、夜に輝く雪を踏む。
 小さな足跡がぽつり、そこに生まれた。
 
 家が見える。
 漏れた光は、明るいような、寂しげなような。
 玄関を音も立てずに開け放ち、荷物を抱えて滑り込む。
 長い散歩は、意外に疲れるものらしい。
 大きく息を吐き出して、荷物を持つ手に力を入れた。
 ただいまという挨拶もなく。おかえりという挨拶もなく。
 自分の部屋に向かって帰る。それが最後。
 さしたる感慨もないくせに、私は、ほんの少しだけ振り返った。
 だから何が変わるというわけでもない。
 静かなままの家のなかで、自分の部屋に潜り込む。

 窓から、冷たい光が入り込む。
 反射する銀の光。私はそれを、綺麗だと思った。
 部屋の灯りは点けない。静寂が重く拡がる。
 紙袋を開くと、中身も紙の部分も多少濡れていた。
 私は何も考えないで、そのまま黄色の安っぽいカッターを手に取る。
 柔らかいプラスチックに包まれたそれを、取り出す。
 何も聞こえない。何も見えない。虚ろ。
 静かに、のどからひゅうひゅうと息が漏れる。
 何もかもどうでもよくなっているように、自然にカッターの刃を出す。

 カチリ。カチリ。カチリ。
 
 真っ直ぐに伸びた。
 そのまま自分の左手に宛う。あとはひと思いに引けばいい。
 そうすれば、ただ、死ぬだけだ。
 痛みと悲しみを、消す。それだけのことだから。
 
 薄い刃が、手首に当たる感触。
 鉄の冷たさ。
 口をついて出るのは、感謝と懺悔。


「今までありがとう。あと、ごめんね……お姉ちゃん」


 静かに、強く吐き出した言葉。
 聴かせるべき相手には、黙ったままでいたのだけれど。

 これが、最後。
 息を吸い込む。
 それをきっかけにして、力を入れる。
 
 ……けれど、その先がどうしても出来ない。
 刃が触れた部分に、血が薄く出ている。

 あとほんの少し手に力を入れれば、それで終わり。

 でも、出来ない。
 恐怖じゃない。
 恐怖なんて、もう、どうでもいいもの。
 頭の中に、昼間のふたりが浮かぶ。
 笑っていた。
 本当に楽しそうに。
 その情景が見えた途端、なにもかもが馬鹿らしくなった。
 惨めだった。
 あんなふうに笑いたかった。
 楽しそうに、笑って生きていたかった。

 頭の中に残る、あのふたりの笑みにつられて。
 私は、暗闇の中。
 たった独り、耐えきれずに笑ってしまった。

 頬を流れていくもの。
 この笑いを止められないままに、涙が、零れた。
 少しずつ、流れていく涙。
 もう出ないと思っていたそれは、笑みと同じように止まらない。
 いつまでもいつまでも、流れるままに。

 
 そして涙が終わったら、もう手首を切る気は失せていた。
 赤く滲んだ手首の痛みが、私がまだ生きていることを思い出させた。

 死んだとき、悲しんでくれるひとがいるのは幸せなことだと思う。
 私にとって、それは誰なのだろう。
 生きているだけで、大切なひとを悲しませてしまうような、こんな私を。
 それでも愛おしいと思ってくれるひとは、いるのだろうか。

 もしかしたら、いつか出逢えるのだろうか。
 この消えゆく命が、もうすぐ尽きてしまうまでに。 


 そのまま泣き疲れて寝てしまったから、ちょっとだけシーツが汚れた。


 次の日に。
 私が起きると、早朝はとうに過ぎていた。
 ベッドの上から抜け出すと、冷たさは全てを包み込んでいた。
 はっきりしない頭の中を、息を吸い込んで綺麗にする。
 誰もいない家の寂しさを気にもせず、私は着替える。
 いつものようにストールを羽織って家を出よう。
 と、部屋から出る前に立ち止まる。
 床に落とした、昨日の私を拾い上げる。
 もう使わないそれを、ごみ箱に思いっきり投げ入れた。
 硬い音が響く。金属音。
 結果は見なかったけれど、外れずに入ったらしい。良かった。

 寒空の下、空気は何もかもを凍て付かせるかのよう。
 たとえ授業に出なくとも、学校へと向かうことは可能だから。
 孤独な散歩。一人っきりで歩いていく。
 その場所に向かうのには、ほんの少しの勇気が必要だったけれど。  
 あそこには、悲しいことが待っているかもしれない。
 顔を合わせればきっと、あのひとも私も傷つく。
 けれど、歩みは堂々として。
 あのひとのいる学校へと、真っ直ぐに向かう。
 それが意味のないことだとしても。
 たとえ、辛いことだったとしても。

 私は、決めたのだから。


 中庭で、この寂しげな風景を見回す。
 例えるなら、ここは雪原の中心。
 生徒達は誰もが教室の中で笑う。
 上の階のガラスに映る、楽しそうな笑顔たち。
 ときおり聴こえる喧噪は、はるか遠いものに思えた。
 誰もここを見ていないけれど、確かに私は存在する。
 冬の、生まれたての風が流れた。
 吹く風の冷たさに、私は身を震わせて、それでもここから動かない。
 きっと、私は誰かを待っている。
 来るはずもない、待ち人を。
 そのひとは誰だろう。
 私の大切なひとだろうか。
 それとも、知らない誰かだろうか。
 私だっていっぱい遊びたい。やってみたいこともある。
 ドラマよりも何倍も素敵な恋もしてみたい。
 生きて、もっともっと今を楽しんでいたい。
 そんな私は、わがままだろうか。
 この残り短い命には、不似合いな願いだろうか。

 たとえ、運命が私を見放していたとしても。
 その運命が私の元に来るまで、私はここで待っていよう。
 白雪の冷たさに、決して負けないため。
 現実の悲しさで、決して諦めないため。
 私の想いが続く限り、いつまでも。
 最後の瞬間まで、ずっと笑っていられるように。


 少しでも後悔しないように生きたいから。


 そんな、小さな決意。
 今はただ、かすかな暖かさが生まれた、この胸の奥底に。
 私が手にした大切な想い、全て抱きしめられるように、と。



 Fin.



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