「灯る月の下で」(後編)







 単調というには、あまりに違いすぎていた授業が終わる。
 有彦のわけの解らない突発的な思いつきのせいで、ごたごたしているうちに一時間が終わった。
 思いつき――奇声をあげて立ち上がり、机を倒して、
 先生に冷たい眼で見られてからクラスの全員へともう一回叫んだこと、なのだが。
 教室は騒がしい。
 授業中にいきなり叫んだ渦中の人物に冷たい目を向けるのは、クラスのほぼ全員。
 机の上に立って、事態の中心、乾有彦は弁明を繰り返す。
「いや、ホントだって。いまそこから人が飛んでたんだって」
「おいおい。とうとう幻覚まで見始めたのか?」
 クラスメイトたちの暖かい声に、涙する有彦。
「なんか、金髪の人間がシュタッなんて音を立てて、そこの窓に張り付いてたんだーッ」
 金髪。
 そんなことをするのは、ひとりしかいないのは解ってるから今更どうということもない。
 どうやって誤魔化すか。
 考えていると、有彦が天を仰ぐ振りをした。
 机の上から飛び降り、周りの人間を跳ね飛ばし、俺の前まで来る。
 肩を掴んでがくがくと揺すって、それでも足りないとでも言うように頭を掴んだ。
 とりあえず、手を払いのけて避けておく。
「まあ、そういったものを見ることも」
「さすが、遠野なら解ってくれると思っていたナリよ、さすが親友」
 言いかけた言葉を遮って、握手を求めてくる。
 伸ばされた手に視線を下げて見て、そのまま顔を上げてクラス全体を見回す。
 固まったままの有彦。
 とりあえず、取り合わずに言葉を続けてみようと思う。
「有彦だったら、きっとあるに違いないと思うひと手を挙げてー」
 はーいと、いるひと全員が手を挙げる。
 やっぱり。
 クラスメイト一同、全員一致。
「何故なのだ? 何が悪いのだ? オレが何をしたというのだーッ!?」
「色々」
 俺の言葉にクラスの全員が頷く。
 ああ、やっぱりこのクラスだなぁと思ってみたり。
「最近は、花瓶の中にウツボカヅラを入れたくらいだぞ」
「……やっぱさ、おまえはそういうヤツだよ」
 心からの俺の台詞にみんながうんうんと頷く。
 まあ、いいけど。
「ところでみんな、いつまで教室にいるつもりなんだろう」
「さあな」
 とっくに放課後なのに。
 つぶやきに反応してか、教室から出て行く一同。
「あー、早く帰ってほうき少女まじかるアンバーでも見よ」
「そうするか。今日はなんだっけ?」
「たしか、クスリをいかにして効率よく使い、且つ人を思い通りに動かすか、だったハズ」
「え、ほうきで飛ぶためにクスリの実験台を用意するって話じゃなかったっけ?」
「ちがうちがう。割烹着の正義の名のもとに、悪の紅髪女を倒そうとする仲間を募る、だろ?」
「そうそう、それでおさかなくわえた白い泥棒ネコを追っかけるんだ」
 おいおい。
 どんな内容なんだか。
 ガヤガヤと騒がしいまま、廊下へと消えていく。
 気付くと、何時の間にやら誰もいなくなってしまった。
「えーと先輩は、っと。いたいた」
 先輩が誰もいなくなったクラスに入りながら、不思議そうに出て行った人を見ている。
「あれ? このクラスだけ、なんでホームルーム終わってなかったんですか?」
「ホームルームは終わってたんだけどね。コレのせいで、みんな帰らなかったんだ」
 コレ、つまり有彦を呼ぶ。
「きっと先輩は信じてくれるのダ……」
「何かあったんですか? 乾くん」
「そうなのダ。
 そこに金髪の女がいて、どこかに飛んでいったのを見たのに、誰も信じてくれないダ」
 微妙に語尾がおかしいことを気にもせず、先輩は考え込む。
 いや、微妙でもないか。
「金髪で、飛ぶ女ですか?」
 む、と顔をしかめる先輩。
「シエル先輩。気にしないでください」
「そうですね。きっと気のせいです。これの見た幻覚です」
 そう言って、有彦を指差す。
 顔をしかめながら、大袈裟に言ってくる。
「うわ。遠野、さっきからヒドイぞ」
「有彦。気のせいだといったら気のせいだ。気のせいだから忘れた方がいいと思うよ」
 なんとなく、冷や汗が出てる気がする。
 こっちは、気のせいじゃないし。
「んー」
 じっとこちらを見ている有彦。
 めんどくさくなったのか、視線を外す。
「まあ、いいけどな。んじゃ、行くか」
 意外にあっさりと引き下がった。
 ま、オカルト関係はあんまり信じてないヤツだから、
 人が飛んでいる時点で眼を疑っていたのかもしれない。
 都合がいいから、そのままにしておこう。
「じゃ、いきましょうっ」
 シエル先輩の楽しそうな声が、俺たちふたりにかけられる。
「そうっすねー!」
 元気よく叫ぶ有彦。
 昼の光が重なる公園へと。
 カバンを持って、教室を出た。 


 と、いうわけで。
「遠野、オマエとは決着をつけなければイケナイと思ってたが、どうやら今がその時らしいな」
「奇遇だね。俺も、そういう気分なんだ」
 フフフ、と無気味な笑いでお互いを睨む。
 当然、有彦と俺だ。
 先輩がこんな会話をするわけもない。
 いや、先輩はアルクェイド相手ならこんな感じか……?
「オレとしては、優等生ちっくな遠野がそういうモノにせこい、なんて噂を立てたくはないぞ」
 優等生、ふむ、有彦に比べれば誰でもそうなるか。
「金がないのを知ってて言うんだからなー、有彦らしいよ」
 反論してみる。
「えーい、単なる言い争いじゃ決着がつかんッ! 先輩に決めてもらおう」
「ああ、いいよ」
 同時に振り向いて、先輩に訊いてみる。
「で、先輩としてはどっちがいいの?」
 視線を向けて、答えを待つ。
 公園には、まだ人が多い。
 ふらふらと来たはいいが、不良の代名詞……
 いや、固有名詞みたいな有彦が一緒にいるから子供連れの親たちが逃げていく。
 ちらり、と有彦の方を向いてみる。
 そんな公園の様子に気付いた様子も無く、先輩の答えを待っている。
 まあ、そーゆーヤツだし。
「ええと、どっちか選ばないといけないんですか?」
「いけないです」
 即答する俺。
「このふたつからですか?」
「そうそう、そりゃもう、ぱぱっと決めてください、先輩のコト信じてますからッ」
 これは有彦。
 こっちは、先輩をキラキラ光る瞳で見ている。
 うわ、不気味ー。
 ふたりの視線の先にあるのは、焼きソバ屋とたい焼き屋。
 まあ、焼きソバなら一人あたりひとつ。
 たい焼きなら一人あたり二個づつ。
 選ばれなかった方が奢る、というなんともデンジャラスあんどクリティカルな試みだ。
 あ、ちなみに俺は焼きソバね。
 先輩の食に対する性格から、量の多いほうを選ぶだろう、という高度な心理作戦だ。
 先輩の食べる量は、半端じゃないからな。
 ん、でも、どっちに転んでも先輩は払わないのか。
 ……誰が言い出したんだったっけ。
 なんとなく、先輩の眼を見てはイケナイと思った。
 それはともかく、答えが出そうだ。
「んで、どっち?」
「そーですねぇ。どっちも魅力的なんですけど。あえて選ぶなら、」
 言葉を少しだけ切って、焦らす。
 顔の前で手を組んで、にこっと微笑む。
「くー、生きてて良かった」
 有彦がつぶやく。
 うん。それには賛成。
「やき――」
 おっしゃ勝った。ざまみろ有彦。
 しかし、そこで動きが止まる。
 ぴたり、と形容するのが一番正しい。
 視線の先にあるのは、公園の入り口。
 追うようにして、そっちに目を向ける。
 トンデモナイものが目に入ってきた。
 少し時期がずれているようだが、それでもやはり。
 これには、かなうまい。
「えとですね。やっぱり焼きイモということで……」
 シエル先輩の声が遠い。
 あの聴き慣れた声が、あたりを埋め尽くす。
 あーあ、と有彦とふたりで顔を見合わせて、がくっ、と崩れ落ちてみた。
 あれは、反則だよぅ。


 陽の光が、何にも隠されない。
 あたりは、静か。
 子供の声も、その子を心配する親達の声も。
 あるいは、そこを通る全ての足音も。
 騒がしく、その雑踏は暖かい。
 陽光は降り注ぎ、この光景を作り出す。
 平和な世界。
 そこは、何にも冒されることのない。
 ただ、静かで騒がしい、日常という平穏の体現。
 そこに、三人で何をするでもなく、ただベンチに座り込んで、ぼーっとしていた。
 幸せな瞬間。
 流れる時の中で、そんな瞬間が続いている。
 太陽の光が目に差し込む。
 子供達が、目の前を走り抜けてゆく。
 先輩は、それを見て微笑んでいる。
 そんな、幸せな瞬間。
 っと、有彦がこんな静かにしているのは、当然居眠りしてるから。
 ベンチの背にもたれたまま、顔だけは真上を向いていた。
 くすくすと笑う先輩の姿を横目に、立ち上がる。
 あれ? と先輩の表情が変わる。
 こんな静かな時間、ゆっくりと感じていたいけど、状況が許さないみたいだ。
 なんていうか、必然にも似た偶然。
 あるいは、策略か陰謀か。
 幸せそうな有彦が寝ているのが、ものすごーく腹が立つ。
 可愛らしい笑みを浮かべている影。
 にこやかに抱きついてきた。
 あーあ、静かな時間は終わったと悟る。
 えへへー、と有彦よりも幸せそうに顔を寄せるその影。
 太陽の光の下、ベンチの前に立っている月の姫。
 アルクェイドが体勢だけ変えて、ベンチに一緒に座ってきた。
「志貴、ひまそうだねー。遊ぼうよぉー」
 えと、アルクェイドさん……
 この状態でこんな時にこんなことするのは、もしかして嫌がらせですか?
 声にならない叫びを誰はばかることなく心の中で思いっきり叫んで、どうにか口を開く。
「アルクェイド、もしかして、わざとか?」
「んー? なにが?」
 その様子は楽しそうだ。
 あたかも、敵を怒らせて喜んでいるような。
 そんなことを考えていると、にやけたまま、ほほをすり寄せてくる。
 ……有彦が起きてなくて良かった。
「えへへ。ここでこうやってるのも、いっか」
 ……いや、焼けつくような凍てつくような、突き刺さるような視線がある。
 安堵したのは意味がなかったみたいだ。
「ねーねー、志貴どうしたの? 難しい顔して」
「いや、あのな。……どうしたんだこんな昼間から」
 とりあえず、当り障りのなさそうな質問をして誤魔化す。
 直接に横にいる御方のことを出したら、どちらともやばそうだ。
「えーとね。志貴に逢いたかったから。ダメ?」
「い、いや、嬉しいけどさ」
 視線が、より危なくなっている。
 殺気とか、殺意とかそんな気配だ。
「それに、ね」
「ん?」
「志貴を探してる時に、なんか、いい匂いもしたし。
 なんとなくそれにつられてこっちの方に来たら、志貴がいるんだもん。
 なんか、嬉しくなっちゃって」
「そ、そうか」
「ええ。
 まあ、見つけたときに高校生のフリをしたコスプレ女もいたけど、気にならなかったな」
「……」
 そろそろ、暴れだしそうな気配がする。
 逃げるか? それとも止めるか?
 いや、止められるのか?
 ……無理っぽいし、逃げることにしておこう。
 様子を窺おうと、先輩の方を見てみる。
 げ。
 微笑んでる。
 絶対零度の笑みを浮かべて、こっちを見てる。
 口元が引きつって、震えている。
「黙れ、吸血ヒル女」
「消えなさい、似非女子高生」
「ふ、ふふふふ、ふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふ」
 こっちは、昏い含み笑いを響かせて、震える先輩の声。
「あはははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは」 
 それに重なるのは、笑顔のままシエル先輩を見て、爽やかに笑うアルクェイド。
 異様な雰囲気に、辺りにいた子供も大人も動物も、みんなまとめて消えていた。
 うわ、紛れて逃げることも不可能だし。
「ぶっ殺すッ!!」
「わー、若作りが怒ったーっ」
 ぷぷっ、と吹き出すアルクェイド。
 なんか、先輩との喧嘩で怒らせ方が上手くなってるような。
 誰もいなくなった公園だから、何をするか解ったもんじゃない。
 やばい。
 適当な理由つけて、ふたりを離さないと。
 ジャキン、と黒鍵を取り出すシエル先輩。
 ……いま、何処から取り出したんだっ?
 む、とちょっとだけ真顔になるアルクェイド。
 だー、駄目だってば、こんなところでっ。
「ふたりとも、いい加減にしないか」
「志貴は黙ってて」
「遠野くんは黙っていてください」
 いつのまにやら、太陽が出ているわりには暗い空になっている。
 アルクェイドが喋ってる間に先輩が結界を張ったらしい。
 ってことは、このまま戦闘開始する可能性があるってことじゃん。
 どうしろってんだ……
「さて、いい加減この辺りで決着をつけないと、いつまでも同じことの繰り返しですね」
「望むところよ。でも、貴方がわたしに勝てるとでも?」
「そんなことは関係ありません。貴女は敵です。ええ、敵ですから。
 徹底的にこれ以上ないってくらい滅ぼして滅ぼして、滅ぼし尽くします」
「へー、さすが埋葬者は言うこと違うねーっ。
 じゃあ、どうしてとっとと他の国へ仕事に行かないのかな」
「そんなことあなたに言う必要はありませんし、
 貴女もとっとと他の死徒を滅ぼしに行ってなさい。
 ……ここで、遠野くんと一緒に応援しててあげますから」
 にべもない。
 睨み合ったまま、互いを見つめ合う。
 びりびりと、緊張と殺気の気配が背中を撫でる。
 
 ぐー。

 やる気を殺ぐような音が、辺り一面、決壊内の公園の隅ーにまで響きわたった。
 見れば、互いに目を逸らしあっているふたりの姿。
 ……お腹の音らしい。なんか、恥ずかしそうにしている。
 えーと、どうしたもんかな。
「……えーと。とりあえず、焼きいもでいいね……ふたりとも……」
「あ、あの。……ハイ」
「う、うん」
 殺気がなくなってしまった。
 同時に頷くふたり。
 とりあえず、最悪の事態は免れたらしい。
 でも、先輩はさっき食べたばかりだし、
 アルクェイドは食う必要ないはずなんだけどな……?
 どうにも納得がいかないが、
 泣く泣く自分の財布を取り出して、そこにいる焼きいも屋台へ買いに行った。


 戻ってきて、アルクェイドに焼きいもを渡して、シエル先輩に渡したところで有彦が起きた。
「有彦、寝てていいよ」
「遠野、そんなこと言って先輩と二人きりになろうという腹だろっ」
 びしっ、と効果音をつけながら指を突きつけてくる。
「は? いまはアルクェイドもいたハズ……」
 ぐるり、と見回しても、どこにもいなかった。
 いつの間にやら消えていた。
 ありがたい。
 有彦に見咎められてたら、厄介なことになるところだった。
「オイ遠野。誰だそのアルクェイドって」
 代わりにばっちり聞き咎められていた。
「さあ? 誰のことやらさっぱり」
 とぼけておく。
 シエル先輩は焼きいもをおいしそうに食べてるし、ばれる心配は無い。
 すっとぼけた方がいいに決まってる。
「外人っぽいな……。
 遠野、まさか外人美人金髪のオネーサンと知り合いになってたりしないだろーな」
 じーっ、と睨まれる。
 どきどきどきどき。
「外人までは解るが、なんなんだその美人金髪のオネーサンってのは。
 どっから出てきたんだよ」
「ふん。
 オマエは意外とにぶそうに見えて、そーゆーヒトといちゃいちゃしてるタイプだからだ」
 鋭い。
 そんな動揺は表に出さないようにしつつ、有彦の言葉を逸らす。
「あーあ、先輩がおいしそうに焼きいもを食べてる姿が終わっちゃった。
 有彦、見てないんだろ? 残念だったな」
「なにッ?」
 慌てて後ろを向いて、先輩を見る。
 当然、食べ終わっていた。
 その機に乗じて、戦線を離脱するとしよう。
「すこしだけ、二人っきりにさせてあげよう」
「……親友よっ! いや、心の友と書いて、心友よーっ!」
 抱きついてこようとした有彦に、
 朝に開発した強制沈黙くん一号(手加減なしの右ストレート)を叩き込んで、離れる。
 ずるずると地に伏している有彦を茂みに隠して、公園の入り口を探す。
 先輩は、食後のまったりとした表情のままでぽけーっとベンチに正座してる。
 そのままにしておいても大丈夫だろう。


 って、公園から出て真横にアルクェイドの姿があった。
 なるほど、木陰で隠れてたわけね。
「あ、志貴。どしたの?」
「んー。どこいったのかと思って」
「わたしを探しに?」
 キラキラと眼を輝かせている。
 なんだかなぁ。
「まあ、そうなるかな」
「うんうん。……ありがと」
 にこにこと笑っている。
 その手には、さっき渡したばっかりの焼きいも。
「あれ。それ、食わなかったのか?」
「う、うん」
 恥ずかしそうに照れている。
「いっしょに、食べたいなーっ、て」
 視線を逸らして、ぶっきらぼうに言っている。
「それでこんなところにいたのか?」
「……だめ、かな?」
 そんな眼で見られたら……。
「じゃ、食べようか」
 気付いたら、言っていた。
 アルクェイドは、嬉しそうに頷いた。
「うんっ」
「あ、そうするともう一本買って来ないと」
 一緒に食べるには、少なくともふたつはないと駄目だろう。
 べつに、それ以上あってもいいけど。
 アルクェイドの分と、俺の分。
「えっと、これを割って食べる?」
「アルクェイド、……いいのか」 
「ええ。わたしはかまわないけど、志貴は?」
「俺もいいぞ」
 答えを聞くとすぐにふたつにして、片方を差し出してくる。
「じゃ、食べよっ」
「ああ」
 はむっ、と冷めかけた焼きいもをくわえるアルクェイド。
 それにならって、俺も食べ始める。
 静かな、人影の少ない通りで、二人で並んで焼きいもを食べる。
 無言で、まだ少しあたたかい焼きいもを食べながら、どちらからともなく空を見上げる。

 空は高く。
 天には、光の柱が連なったまま。
 その、何もかもを鮮明に白へと染め上げる光の中で。
 ただひたすらに、吸血の姫は輝いている。
 白く。
 ただ、白く。
 この平穏なる世界のなかで、唯一とも言える瞬間の如く。
 透明な光に、その微笑みを浮かべながら。

 雲もないためか、影がない。
 この太陽の中を帰っていくのは、アルクェイドにとっては少しだるくなるかもしれない。
 少しの時間を迷って、ちらりと公園のほうを見てみる。
 幸せそうな有彦の気配がするだけだ。シエル先輩は、まだぼんやりしてるに違いない。
 もう少し放っておいても大丈夫だ。
 こんな幸せな時間を、静かに過ごしていられる。
 それすらも、嬉しくなってしまった。

 アルクェイドを家まで送り、
 公園へ戻り先輩を正気に返らせて、
 有彦の目を覚まし、少し三人でぶらぶら遊んで、それから帰って九時ごろ。
 玄関に出迎えにきてくれた翡翠が、どことなく心配そうな顔で立っている。
「ただいま、翡翠。どうしたんだ? そんな顔して」
 挨拶を交わす。
 ちらり、と後ろを向いて小声で返してくる。
 うつむいているのは、声を響かせないためか、それとも心配している顔を見られたくないのか。
「志貴さま、おかえりなさいませ。……いえ、また今日もお出掛けになられるのですか、と」
「ああ、そうか」
 翡翠は、気付いてたのか……。
「すまない。秋葉たちには黙っていてくれたのか……」
 朝、何も言われなかったということは、翡翠は黙っていてくれたということだろう。
 下手にばらされていたら、どうなっていたやら。
「はい。どうやら怪我もなかったご様子でしたし、
 無意味にことを荒げるよりは良いと判断しました」
 冷静に言って来る。
 しかし、その顔は曇ったままだ。
「ありがとう。助かったよ」
「いえ……。それよりも、差し出がましいことなのですが」
「ん? なに?」
 声だけは平静を保ったままの翡翠が、さらに顔を曇らせて訊いてきた。
「今日も行かれるのですか?」
「ばれちゃってたか……。うん、まあ、そうするつもりだけど」
「危険、ではないのですか?」
 本当に困った顔で、目を覗き込むように訊いてくる。
 その様子が、あまりに真剣だったため誤魔化すことも出来やしない。
「ゴメン。たぶん、安全じゃないと思う」
「……志貴さま」
 翡翠は少しだけ、何かに耐えるような顔をする。
 そろそろ、玄関先なんかにいて小声で話していては秋葉たちに気付かれかねない。
 少々強引に話を切り上げてしまおうか、と考えていた。
 翡翠の方を見た瞬間、ちょうど顔を上げたところに目が合った。
 眼を見たままに、翡翠が口を開く。
「判りました。ですが、出来るだけ御早めにお帰りください」
「え?」
「酒類を用意して、ちょっとしたパーティを開こうかと、
 姉さんが含み笑いを漏らしておりましたので」
 ……含み笑い、ってのが気になるが、
 それよりも翡翠が止めないのが不思議と言えば、かなり不思議だ。
「止めないのか?」
「はい。主人である志貴さまが、
 かすり傷のただ一つもない状態で帰ってきてくれさえすれば、それでかまいません」
 成程。返す言葉もない。
「では、のちほど玄関にて帰りをお待ちしています」
 切り返す暇もなく、さっさと奥へと消えていった。
 ……ずるい。

 足音が廊下で弾む。
 ぴたり、と居間へと向かうその足を止める。
 だが、足音は続く。
 琥珀さんと秋葉がこちらに向かってくることに気付いても、遅かった。
「兄さんッ!」
 急に強い口調で叫んでくる秋葉。
 その眼には、強い意志の光。
 怒ったような顔のままで、そのまま一息に吐き出す。
「あの方の言っていた吸血鬼、本当に探す気ですか?」
 言い切ったあと、少し落ち着いたのか息を吸う。
 怒気を含んでいるとはいえ、その声には心配の色の方が強い。
「兄さん」
「ああ、そのつもりだけど。だからといって、秋葉。一緒に探すとか言うなよ?」
 秋葉の言葉に答えつつ、からかうように釘をさしておく。
 この様子じゃ、付いてきかねない。
 こんな言い方をしておけば、意地になって放っておいてくれるはずだ。
「……解りました。本気なんですね」
 ちらり、と含んだ視線をぶつけてくる。
 隣りに並んだ琥珀さんは、静かに見守っている。
「心配してくれるのは嬉しいけど。こればっかりは、本気だ」
「だっ、だれが兄さんの心配なんてしてるというんですかっ」
 いちいち言葉に敏感に反応する秋葉。
 少しだけ顔を逸らして、拗ねたように口を曲げている。
「今日は琥珀がなにかパーティでもしようか、
 と言っているから遅くなって欲しくないだけですッ!」
 目を逸らしたまま、きっぱりと言い切る。
 と、ここで琥珀さんが口をはさんできた。
「いえ。秋葉さまったら、
 何がなんでも志貴さんを家のなかで足止めしよう、って鎖を用意しろとか言うんですよー」
「そこっ、黙ってなさいッ」
 キッ、と琥珀さんを睨みつける。
 鎖って……オイ。
「と言うのは嘘ですが、パーティのほうは本当です」
「まったく……」
 琥珀ったら、などとぶつぶつ文句を言っている。
 それにはかまわずに琥珀さんに言葉を投げかける。
「いつものやつですか? それともアルコールも入った」
「いえ。今回はちょっと料理も豪華です。アルコールもちゃんとありますけど」
「そうか……」
 そんなパーティを企画されても、決着をつけるつもりだしな。
 出れそうにないのは謝っておくかな。
「ちなみに……」
 話そうとした瞬間を見計らってか、琥珀さんの言葉が遮る。
「アルクェイドさんとシエルさんも呼ぶつもりです」
「……はい?」
 一瞬、頭の中が混乱した。
 秋葉が許すとは思えない。 
「せっかくですから、この機会にどーんと親交を深めようではないか、と」
「ちょっと待ちなさい琥珀。訊いてないわよ私は」
「言ってませんから」
 ひとことで主人の言葉を流して、先を続ける。
「で、お二人の都合も考えて深夜の十二時以降、ということで」
「十二時以降……」 
 つぶやきながら考える。
 どうも、そのくらいの時間にする理由がひとつしか思いつかない。
「楽しみですねー」
 わーい、などと最後に付け加える。
 その隣りでは、秋葉が肩を震わせている。
「琥珀」
「はい、なんでしょう秋葉さま?」
「この私に言わずにそういうことをどうしてしたのかしら」
「言ったら許してくれないからに決まってるじゃありませんか」
 にこにこと秋葉の問いに普通に返す。
「……へえ」
 笑ったまま、納得したような声でつぶやく。
「じゃあ、十二時以降っていうのはどういうことかしら?
 一応、出歩いてはいけないという規則にしてあるんだけど?」
「規則なんて破るためにあるんですよー。……あれ? どうかしましたか秋葉さま?」
「……いいえ」
 頭を抱える姿が、なんとも……。
「……冗談ですよ?」
 琥珀さんが秋葉に向かって話し掛ける。
「いいわ、好きにしなさい」
 呆れているのか、頭を支えながらその言葉に返す。
「まあ、実際のところ、出来るだけ早く帰ってきてくださいね。
 怪我をするなんてのも、パーティどころじゃなくなっちゃうから、はっきり言って論外ですよ?」
「うん……解ってる」
 まあ、琥珀さんなりに気を使ってくれたのだろう。
 ありがたい。
 どうにも照れくさいので、さっさと外に出て時間をつぶしてくることにしよう。
 ドアを開けながら、行ってきますと二人に告げる。
 外に出る足を一瞬止めて、振り返って言う。
「じゃ、出来るだけ早めに帰ってくるよ。心配してくれてありがとう。ふたりとも」
「はい。いってらっしゃい志貴さん。お土産お待ちしてますよー」
「ちょっと兄さんっ。だから心配なんてしてないって言ってるじゃ――」
 バタン。 
 強く閉める音とともに、秋葉の説得力の皆無な言い訳も聞こえない。
 さてと、じゃ、行くとするか。


 昨日と同じように、勘のままに夜の街を探す。
 靴音と、喧騒が流れる世界を、横目で見ながら歩いていく。
 視界の中には、透明な人々。
 見えているけど、見ていない。
 注視することはない。
 風景の一部の如く、通り抜ける。
 寒空に凍える身体を叱り付けるように、真っ直ぐに前だけを目指している。
 人の集まる場所にはいないだろう。
 それでも、ひととおり見るコトをして踵を返す。
 ダッ、ダダダダダッ、と靴の音が辺りを支配する。
 どこかで誰かが慌てているような騒がしい音だ。
 唐突に景色の一箇所が近づいてくる。
 通行人のひとつでしかなかったはずのひとりが、
 こちらを目指しているように見えるのは、錯覚ではないだろう。
 目の前に、来た。
「遠野先輩のお兄さん……じゃなくって、志貴さんっ!」
「あ、ああ。アキラちゃんか。こんばんは」
「ハ、ハイっ。こんばんはですっ」
 ぜーはーぜーはー言いながら、荒い息を必死に抑えようとしている。
 胸に手を当てて、ふぅ、と息を吐き出す。
「あの、さ。アキラちゃん、ちょっと落ち着こうか?」
「え、え、あの、その……はい」
 恥ずかしそうに表情を変えたあとに、小さく頷いたのを確認してから座れそうなところを探す。
 よっぽど慌てていたんだろう。
 息を大きく吸って、吐き出す。
 何度かその作業をしたあとに、近くのベンチに二人で並んで座り込む。
 ちょこん、と座るその姿は可愛らしい。
「あ、そういえば。アキラちゃん、なんでこんな時間にこの街に?
 そんなに気軽に来れるほど近くないだろ?」
「それは、そうなんですが……
 志貴さんにお知らせしないといけないことがあったので、
 つい慌てて電車に飛び乗って来ちゃいました」
「学校、いいの?」
 秋葉の学校は、夜間に抜け出して来れるようなところではないはずだし。
 だいたい、外出そのものがマズイだろう。
 秋葉は例外だし。
「規則規則で縛られていても、いろいろと手段なんて探せばあるんです」
 にこりという笑いに、なんと言うか、オタクな笑みが重なって見える気がする。
「そっか。でも、可愛い女の子がこんな時間にこんなところにいたら危ないだろ?」
「あ、はい……。それもそうですね……気をつけます」
 アキラちゃんは、少し赤くなりながら、傍目にも判るほど落ち込んでいる。
 ああ、秋葉にも見習って欲しい素直さだなぁ。
「でも、伝えておいた方がいいと思ったんです」
 そう言えば、俺に知らせたいことってのは、なんだろう。
 わざわざ秋葉の学校での様子なんてことを伝えたいわけでもないだろうし、
 急いで俺に伝える必要のあること……?
「未来視……ッ!」
 そうだ、アキラちゃんは断片的でも未来が見えるんだ。
 なんで思いつかなかったんだろう。
「はい。志貴さんの姿が視えたので、たぶん知らせた方がいいかなって……」
「そうか。ありがとうアキラちゃん」
 なにか、吸血鬼の居場所のヒントになるかもしれない。
 感謝をしつつ、アキラちゃんに微笑んで礼を言う。
 えへへー、と笑って照れているみたいだ。
 だが、途端に真剣な顔になって未来視の内容を話してくる。
「で、内容なんですけど。
 志貴さんがどこかで立って前を睨んでいる様子が見えるんです」
「うん」
「それで、私はその後ろで立ってました」
「他に誰かいた?」
「……はい。なんか、怖い感じの綺麗な女の人でした」
「ひとりだけかな?」
「そうです」
「怖い感じって……、どんな風に怖いの?」
 うーん、と唸りながら悩んで、虚空に視線を合わす。
「あ、遠野先輩が本気で怒っているとあんな状態なんだろう、みたいな」
「秋葉が本気で?」
 そんなことになったら、この街は簡単に征服されてしまうことだろう。
「いえ、その、そんな風に見えるというだけで……
 遠野先輩ほど余裕がないように思いますけど、その人」
 秋葉に余裕があるかどうかはこの際置いておこう。
「ふうん。他に気付いたコトは?」
「そうですね、月が綺麗でした」
「月が綺麗って、もしかして、今日みたいに?」
 遥か頭上に見える月は、満月。
 今宵の空は、澄んでいる。
「あの月と同じ……だったと思います。
 少しだけ広い場所で、月を見上げると、遮るものがないような感じでした」
「公園か……」
 この街で、吸血鬼と対峙するには其処しかない。
 そんな、確信を持った。
 まあ、それはともかく――。
「お礼といっちゃなんだけど、おいしい蕎麦でも食べにいかない?」
「あの、いいんですか?」
「わざわざ来てくれたしね。それくらいしか奢れないけど」
 財布を開けてみる。
 昼間のおやつその他で、いつもより減りが早い。
 蕎麦が、もてなせる精一杯だ。
 ごめん、アキラちゃん。
 心のなかで、謝る。
「ありがとうございます。志貴さんっ」
 真っ直ぐに笑みを浮かべている。
 理想的妹ちっくな娘だなぁ。

「で、どれにする?」
「えーと、あ、これにします」
 そう言って指したのは、一番安いもの。
 気を遣ってくれているらしい。
「同じもの、ふたつね」
 心のなかで感謝しつつ、注文をする。
 アキラちゃんの言葉を聞いていた店員が営業用の笑みを浮かべて、奥へと引っ込む。
 向かい合うようにして、席に座っていると、アキラちゃんのほうから話し掛けてきた。
「志貴さん。あの、遠野先輩には……」
「黙っておいてくれ、だね。解ってるよ。ただでさえ睨まれることが多いから大変だね」
「うぅ。そうなんですぅ。
 あの、笑っているのになんか睨まれているような、
 それでいて小動物を可愛がっているかのようなあの眼で見られると、
 身体が金縛りにあったかのようになっちゃうんです」
 急に早口気味になったアキラちゃんに口を挟まないようにしてみる。
 コトンッ、と横から店員が蕎麦を置いていく。
 それに気付かないようなまま、アキラちゃんは話し続けている。
「それで、『瀬尾。もう少し真っ直ぐに目を見て話しなさい』
 ……なんて言いながら笑みを浮かべるんですよっ。
 いえ、でも、遠野先輩が怖いとかそういうわけではなく、あの瞬間が苦手と言うか……」
 そろそろ止めた方がいいのかな。
 フォローを自分で入れてるし。
「遠野先輩が睨めば悪魔も逃げる、って言われてるくらいですからっ。
 それでも、遠野先輩を尊敬してますけど、時々怖くなるのも……」
「おーい。アキラちゃん、戻ってこーい」
「あ、すみません。つい」
 あーあー、顔を真っ赤にしちゃって。
「いいんだけどさ。秋葉って、学校じゃそんな感じなの?」
 う、と困った顔になったあと、小さな声になる。
「いえ、あの、その、しかし、なんと言いましょうか、えっとですね。
 畏れの対象って言うか、何をやっても完璧って言うか」
「へぇ。目に浮かぶような」
 ズズゥッと、音を立ててそばをすする。
 あー、おいしい。
「ええ、そりゃもう。凄いんですよー、遠野先輩」
「影の大番長とか、そんな感じもありかな、って思ってたけど」
「生徒会副会長やってますけど」
「ああ、やっぱそんな役職付きか……」 
 うーん、非常に解りやすい。
 権力握るの好きそうだしなー。
「でも、浅上女学院の最高権力者は誰だ、って聞いたら。
 みんな遠野先輩って答えると思います」
 ……あれは、もう地だな。
 これ以上訊いても、だんだん深みに嵌まるだけみたいだし、止めておこう。  
 それよりも、アキラちゃん、時間大丈夫なのかな。
 いつの間にか話しながら食べ終わってたし。
 訊いておこう。
「そろそろ遅いけど、大丈夫?」
 出てきた時間を考えると、見つかったらさすがに怒られるんじゃないだろうか。
「え……? もっ、もうこんな時間ですかっ!? もう行かないとっ」
「行く? 帰るじゃなくて?」
「あ、あはは、……知らせるだけなら電話でも良かったんですけど。
 少し、夜遅くにやるイベントが近くであるんです。
 来るきっかけができたんで、どうせだから」
「成る程。じゃ、急がないと」
 立ち上がって、勘定を持ってレジへと向かう。
 このくらいなら、十分に足りる。
「ありがとうございましたーっ」
 アキラちゃんが後ろから着いてくるのを確認する。
「で、そこってどこなのかな?」
 隣りまで来たところで声を掛ける。
「あ、あの、送ってもらっちゃうなんて、
 そんな遠野先輩の反応が恐い……じゃなかった、気を遣ってもらわなくても」
 いや、まあ、言いたいコトは解るけどね。
「こんな時間に女の子を放っておけるわけないだろ?」
「でも……」
「あ、帰りはタクシーかなんかで帰るようにね」
「……はい」
 どことなく、さっきから照れた様子で後ろにいる。
 ちょうど、子犬がとことこと後ろを追ってくるような感じだ。
 しばらく歩いて、大通りに面した建物に着いた。
 どうやら、ここらしい。
「あ、ありがとうございましたっ」
 えへへ、と頭をかいている。
「じゃ、気をつけるんだよ」
 そう言って、建物を離れる。
 さすがに、急いで公園に向かいたかったけれども。
 吸血鬼のいる街を独りで行かせるよりはいいだろう。
 そろそろ、月の輝く時間だ。
 完全な月が、晧晧として空を穿つ。
 未来視は、公園に、アキラちゃんと一緒にでもいた俺の姿が視えたのだろう。
 おそらく、アキラちゃんは自分の姿を鏡か何かで見たときに、視えたはずだ。
 情報の断片は、そこに立ち竦む俺の姿。
 結末がどうなるかなんて知らない。
 変えられる未来は、もう変えた。
 ここから先は、俺の領域だ。  


 暗闇が深くなっていく。
 街から、小さく離れて公園へと向かう。
 悲しいくらい、未来が視える。
 公園の入り口で、中を窺う。
 誰もいない。
 キィッ、と風に揺れるなにかの音。
 静けさの中で、自分の歩く足音だけが耳を跳ねる。
 止まる。
 公園の中心に、月を見上げて立つ。
 月明かりに、眩む。
 ただひたすらに、円い月の下で。
 眼を閉じて、その時を待っていた。


 ……死が、満ちている。
 この公園は、夜に飲み込まれているのか、夜を飲み込んでいるのか。
 陰を引き寄せやすい場所、そんなところなのかもしれない。
 眩しいほどに陽の当たる場所、だがそれ故に、夜の闇は遮られることがない。
 ただひたすらに、深淵の闇。

 ぞくり、と。
 肌が、震えた。
 或る感情の延長にある殺意も、行動の発端にある意志としての殺気も、無い。
 在るのは、ただ、どうしようもなく本能が叫んでいる言葉だけ。
 逃げろ、と。
 それは、自分という存在そのものがしていた判断。
 肉体の全てが、判断を肯定する。
 一瞬の中で、身体が反応する。
 どうしようもない悪寒は、自分の意志などお構いなしに横へ飛ぶように筋肉を弾けさせる。
 予感は、的中していた。
 一瞬前と、今の瞬間との間隙。その狭間に在った場所は、抉られていた。
 雷光のように純粋な速さを持った一撃が、向かってくる。
 考える前に、理性を喰いつぶしている本能が跳ね回る。
 数個の間隙と、数個の死線が重なる。
 その全てをやり過ごし、どうにか離れる。
 俺の視線の先には、避けられて驚愕の表情のまま固まっている吸血鬼の姿。
 表情は見えない。
 姿は、美しく。
 闇の狭間に在る魔の姿として、当然の如く艶然として。
 仄かな月闇、その光に映される魔として、あまりに輝いていて。
 暗闇と、感情の闇と、ふたつに遮られている。
 ただ、その姿は、哀しそうでは、あった。
「あなたは、何?」
 心底不思議そうな顔をして、訊いてくる。
「君を止めようと思って」
 視線をはずさないまま、俺は答える。
「ふぅん」
 気のない返事をして、何処か遠くを視ている。
 儚げで、幽か。
「あのさ……どうにか、ヒトを殺さずにはいられないのか?」
「無理なの。この躯も、本能も、何もかもが血を欲しているから」
 意外に、答えは割合あっさりと返ってきた。
「それは、どうにかできたかもしれないことだろう?」
 そう、人を殺さなくとも、生きていける。
 先輩の話では、最早支配はされてはいないのだから。
 必要な量の血があれば、それでいいはず。
「無理よ。だって……殺していたのは私の意志。生きることが、退屈なんだもの」
「そう、か」
 そこまで、堕ちていたのか。
 そこまで、吸血の闇に囚われていたのか。
 そこまで、人であることを止めてしまっていたのか。
 吸血鬼になったことに、溺れてしまった少女。
 吸血の衝動を、抑えようともしなかったのか。
 ならば、君の所為でもある、――なんて、皮肉。
 持たざるをえなかった闇、それを受け入れたのではなく、ただ飲まれただけなんて。
 混ざってしまったのか、混ざろうとしたのか。
 血を吸う鬼として、眼前の少女は生きている。
 ならば、もう、人として戻ることはない。
 眼鏡を、外す。
 月明かりが眼に入る。
 痛い。
 蒼く、蒼く、月の灯る姿が映った。
 真っ直ぐに、眼前の吸血鬼を見つめる。
 何度も何度も、無意識に避けようとしてきた意志を、言葉にする。
「キミは、俺が殺すよ」
 それが、決意。


 ふん、と鼻で笑う、その影。
「何で、こんなことになったんだか、解らない。
 ――でも、血を吸わなければ生きられないのだけは知っているの」
「耐えようとはしなかったのか?」
「耐える? 何故? 吸血の徒がそんなことをする必要がどこにあるというの?」
「キミは……」
「私には、ヒトより上にいるという権利がある。力がある。
 夜を生きる吸血鬼として、血を吸い、ヒトを殺すのは当然でしょう?」
 愉悦。
 禍禍しく形作られた笑み。
 その眼は弓塚の眼と、重ならない。
 想いから、吸血の衝動をその身に受け入れた少女と。
 弱さから、吸血の衝動に負けてしまった少女と。
 弓塚の言葉のひとつひとつが、脳裏をよぎっていた。
 逃げられない衝動を、初めから諦めていたのか。
 吸血の衝動に負けた、少女。
 あまりに、ヒトの心のように。
 弱く、脆く、臆病で。
 かなしい、世界の姿。

「あとひとつだけ、訊かせて欲しい」
「ええ、月並みだけど……冥土のみやげで良いのなら」
 クッ、と嗤った。
 感情が毀れているかのように。
 それでも、俺の言葉が届いているのは、何故だろうか。
「なんで、この街に来た?」
「……」
 唐突に押し黙った。
 不自然なまでに、口を歪めている。
「答えてくれるんだろう?」
「私を、」
 躊躇い。
 言葉に乗った感情は、悲愴と悔恨、そして喜悦。
 相克する感情の中心には、場違いなまでの戸惑いが在る。
「私を殺したアイツを殺したのが誰なのか、ソレを知りたいと思って――」
 そこまで言って、恍惚の表情を浮かべた。
 矛盾している。
 言葉も、意志も、おそらく願望も。
「殺した……って言っても、別に言葉通りの意味じゃないわ。
 単に人間としては生きていけなくさせてくれただけ」
 そんなコトを言って、笑顔でこっちを見つめた。
「誰もアイツを本当に殺せるなんて思ってもみなかったの。
 私のつたない知識でさえ、あれを殺せる――
 本当の意味で滅ぼせる相手がいたことは無かったんだから」
 笑みは深く。
 笑い声は、明るく。
 その眼の奥には、笑みとは違って――本当に深い、暗闇。
「私は憎んでいる。恨んでいる。呪っている。
 私の存在をヒトではなくしたアイツを」
「それなら、なんで……」
 喉が渇いている。
 額面通りに受け取ったなら、わざわざ死んだ相手のいた場所にくる必要など無い。
 それでも、このヒトは此処にいる。
「そして私は、」
 このヒトは、こころから囁いた。
「――愛している」
 さっき浮かべた恍惚とした表情を再度、顔に貼り付けて。
「ヒトから違うモノにしたあの方を。
 ヒトとは違うモノにしてくれたあの方を。――あの、冷たい瞳を」
 ぞっとするような笑み。
 そこに憎しみなんて見えない。
 けれど、それでも。

 ――あの、凍りついた月のような銀色の瞳が。 

 表情は、仮面のように動かなくなった。
 紅い唇からは数篇の懺悔。
「死せし貴方を守れなかったコトを、お赦し下さい」
「キミは――」
 俺の言葉は、もう届かない。
 悲しみか、悦びか。
 どちらかなんて解らない。
 解らない。
 このヒトは、もう自分を呪ってしまっている。
 逃れられない、逃れるつもりも無い。
 ならば、救われることなんて望んでいないのだろう。
「死せし貴方に望まれなかったコトを、お赦し下さい」
「……その人の名は?」
 訊かないわけにはいかない。
 死なない?
 本当の意味で殺せない?
 そんな相手は、知っている。
 なら、キミは弓塚と同じ――
「死せし貴方を自らの手で、」
「なんで、こんなトコロに――」
「殺すことができなかったコトを、お赦し下さい」
 壊れた。
 世界が。
 自分を守るために、自分以外を壊すのか。
 自分を守るために、自分の心を壊すのか。
 どちらにしても、その瞳は俺を見つめていた。

 見開かれた瞳に、魔が宿る。
 純粋に魅了する力と、別の闇。
 暗い瞳から、魔が這い出す。

 ──その眼を見てはいけない。

 だが、そんな意思とは無関係に闇は瞳に移りこむ。
 眩病が、月の光と混ざる。
 呑まれる。
 飲まれる。
 その瞳に吸い込まれる。
 何も無い、何も映っていない。
 月影すらも、歪む。
 命の流れが逆流する。
 血が沸騰し、脳が逆転し、意思が反転する。
 公園という景色が、色を失い、空の黒と混ざり、何もかもが真っ暗。
 潰された空と地の隙間、その中で、視えた。
 今にも、泣き出しそうな吸血鬼の、笑顔。
 穏やかな微笑に彩られる狂喜。
 螺旋に崩れていく視界と、塔の如く聳え立つ瘴気。
 鮮明として茫洋とした、矛盾する表情。
 だけど、それが視えたときには。
 もう、影の夢へと堕ちていた。


「おはよう、遠野くんっ」
 世界のどこかで、吸血の衝動を抑えられなかった少女が呼ぶ。
 なにも、起きなかったんだ、とでも言うように。
 真っ暗な世界。
 月の無い夜にも似て、静か。
 月の消えた夜にも近く、黒一色。
 世界とジブンの間には、差異は無い。
 境界が消えて、何もかもが自身と同じ。
 ありえないことが起こる。
 リアルなユメは、全てを呑み込む。
 弓塚が生きている。
 それが当たり前な世界。
 日常という名の嘘も無く。
 常識という名の鎖も無く。
 衝動という名の真も無く。
 世界という名の枷も無く。
 そこでは、アルクェイドも。シエル先輩も。秋葉も。翡翠も。琥珀さんも。
 誰一人、何一つ欠けることなく、誰もが存在する。
 胸の傷は無く、死の線は視えることもない。
 遠野四季も反転せず、全てが理想どおり。
 何も望まずとも、何もかもが手に入る。
 当然いう常識が不自然という真実を塗りつぶす。
 意識することすら不必要。
 あらゆるものが手に入り、あらゆるものが手の中に。
 そして、弓塚さつきは生きていて。
 おはよう、なんて挨拶を交わす。

 ――そんな、都合のいいユメ。
    なんて、自分勝手なマボロシ――。

 本当に、苦しくて。
 望むが故に、ありえない世界。
 なにもかもがこの通り、嘘であることが解ってしまう。
 例えば、記憶の渦。
 嘘ばかりの記憶も、次第に気付いていく。
 過ぎ去った記憶は、このユメに書き換えられそうになる。
 秋葉と遊んだ、楽しかった時間が消し去られる。
 先生と話した、貴重な時間が無視される。
 騒がしさゆえの、日常の一瞬の輝きが隠される。
 辛いことが多いけど、それ以上の全てが心に刻み付けられた、そんな出会いが飛ばされる。
 楽しかった日ーが壊されていく。
 そんなことが出来るわけがない。
 そんなことをさせるわけにはいかない。
 ふと、あの夕陽のなかで、燃えるような太陽に照らされていた横顔が脳裏をよぎる。
 ……弓塚。
 君は、何を思った?
 消されそうになる理性を、必死に押し留める。
 その作業が、あまりにも単純で。
 何もかもがあるハズで、ただそれがないコトに気付いてしまう。
 握り締めた記憶は、たった一つの感情から姿を取り戻す。

 それは、希望。
 昨日が楽しいという、感情から繋がり、
 今日が楽しいという、記憶を通り、
 明日も楽しいという、希望へと走る。
 そんな想いが弾け、ユメを壊していく。

 夢の中。
 そう、そこは夢の中。
 連環の世界にして、連鎖の真理。
 終わりが始まりへと戻る、停まった世界。
 そこでは、なにもかもが終わらない。

 何も、無い。

 死も。
 夜も。
 闇も。
 咎も。
 罪も。
 罰も。
 影も。

 無すら、亡い――。

 けれど、そこには生が無い。
 生きる意味が無い。
 終わりが無いから、始まりも無い。
 だったら、存在すらも無いのと同じ。
 変わらない世界など、それこそ悪いユメだ。
 こんなところに何時までも居たくない。
 戻らなきゃ。
 帰らなきゃ。
 あっち側へ。
 いつも、騒がしくて、楽しい。
 陽のあたる世界へ。
 さあ、戻ろう。
 真実という、普通の日常へ。

 ……まあ、普通と言うにはちょっとだけ無理があるけどさ。


 そして、世界は色を取り戻す。
 ヒビだらけになって、そこから影の黒が浮き出してきて。
 深く暗い真の闇は、単調な黒とは違う。
 ときに、月の光を際立たせる。
 深く闇色に彩られた夜へと、世界は反転する。

 覚醒する。
 ほんの数秒。
 完全に現実から切り離されていた。
 これが、人を操る催眠の誘夢か。
 しかし、残念。
 魔眼に対抗するには、ひとつだけ気をつければいい。
 強い意志を持つこと。
 それだけで、望みの無い幻惑には惑わされない。
 だったら、迷わなければいいだけだ。
 出来ることを、すればいい。
 いま、哀れな吸血鬼の歪みを戻す。
 たった、それだけを想う。
 もう、過ちを犯させてはいけないから。

 還る意識に、呆然としていた彼女が殺気を撒き散らす。 
 何度も何度も、見えない闇が迫ってくる。
 その全てを、意志の力で殺す。
 月光の荊が公園の全てを絡めとる。
 閃光は無く、蒼光は鈍く優しく、闇は闇を塞ぐ。
 影が破るのは、静寂だけ。
 無音というひとつの世界が、切り裂く金属音に染め変えられる。
 闇を、月と火花が小さく照らす。
 影がふたつ、その篝火のような月の下で対峙する。
 影は揺らめいて、闇へと溶け、重なる。
 きぃん、と硝子のように鋭い音が響きわたる。
 それは、無限にも似た音の跳ね返り。
 幾度も爪を振る影と、全て爪で受ける影と。
 涼やかな空気と、もうすぐ血のニオイがするという予感が混同する。
 いや、死の予感か。
 幾重にも重なった刃の軌跡は、その一瞬に煌めいた。
 そして、眼前に在る影の線を切り裂く。
 通る一閃は、音も無く。
 目の前の影は訝しげな顔をした。
 凝視する。
 視たくもない世界に、月光の轍が死を浮き上がらせる。
 タンッ、と地を蹴り、小さく音を立てて走りこんだ。

 影の中へと滑り込む。
 まだ、残っていると信じているであろう、腕は無い。
 驚愕の表情と言うよりは、呆然としている顔が目に入る。
 刃の音が空虚を満たす。
 向けられる死のカタチを殺しながら。
 障害の無くなった経路をすり抜け、点までを流れるように衝く。
 暗い光が閃き、昏い光を穿つ。
 視えた点は、既に貫いた。
 走り抜けた俺の足音は、葬送の鐘音にも似て。
 闇夜に混ざるように、影が倒れた。
 吸血鬼の命は、死までの道が長い。
 人間の時間なら、一瞬であるそれが、無闇に引き延ばされる。
 残ったのは、立ち竦んだまま地を見る影と、倒れこんだまま天空の月を見る影。
 初めから最後まで、其処にはふたつの影だけだった。
 意味も無く空を見上げて、ため息を吐く。
 月は蒼く灯り、影を照らしている。
 喧騒とかけ離れた空間、夜の公園では沈黙が全て。
 そこを崩すのは、やはり影だった。
 吐き出す息は、安堵ではなく。
 ただ焦燥にも似た、無力感。

 闇色の公園で、足元に横たわる影を視る。
 もう、死は近い。
 その身は震え、その目には何も映さなくなった彼女にささやく。
「キミを殺したのは、俺だ。でも、これしか方法が無かったと思う」
「……」
 虚ろなまま、こちらへと光のない目を向ける。
「勝手なことだと知ってる。それでも、人を殺すのは許せなかったんだ」
「……ぁ」
「弱くても、生きるためでも、衝動に負けてしまったことは、キミの意志じゃない」
 なにか、口から漏れる音。
 空を満たしているかのように。
「だから、……ゴメン」
「ぁ……」
 静けさに飲まれるように、瞳を閉じていく。
 仰向けに倒れて、はるか遠い月の蒼光をその姿に浴びて。
 安堵したかのような息を吐く吸血鬼。
 微かに口を笑みの形にして、動かなくなった。

 どこか色褪せた闇。
 それまで停まっていた時間は、眼に見えずとも動き出している。
 普段は、誰も通らなくなった夜の公園で、影のひとつが消えていく。
 地に飲まれるように、塵へと帰る。
 塵は、塵に。
 名も知らぬ吸血鬼へと、静かに別れの言葉を胸のうちに浮かべる。
 そのまま、暗い世界の形をそのまま小さくしたかのような公園の中。
 残ったのは、俺ひとりになった。
 終わったのだ、という安堵と、
 助けられたか、という疑問。
 答えるものは無く。
 闇の最果ては、遠く。
 その闇に、立ち向かうように。
 ただひたすらに、其処で空を見上げていた。


 誰も通らない夜の闇の中に、場違いな足音が響きわたる。
 騒がしくなった公園の入り口に目を向けると、
 焦った顔と小憎らしいほど落ち着いた、ふたりの顔。
 先輩はこちらの姿を視認して、ほう、と安心したかのように息を吐く。
「終わった?」
 アルクェイドが、にこやかに訊いてきた。
「ああ」
 笑みは浮かべられなかったけど、それでもどうにか言葉を返す。
 こいつなりに気を遣ってくれているのだろう。
「……遠野くん。帰りましょうか」
 こちらの様子を窺うように見ていた先輩も、すぐさま笑みを浮かべて歩き出す。
「……そうだね」
 アルクェイドと一緒に、その後をついていく。
 軽く上を見上げると。
 少しだけ明るくなったように感じる頭上の月は、三人をじっと見下ろしていた。


 道を歩くと、誰の姿も見えない。
 暗闇と、寒空と。
 そのどちらにも、人は耐えられない。
 この道には、街灯もない。
 月明かりだけを頼りに、家路へと進む。
「で、今日のパーティって、どんなご飯が出るんですか?」
 目をキラキラ輝かせて、シエル先輩が聞いてくる。
 先程までの様子とは打って変わって、完全にそれしか頭にないようだ。
「カレーは出ないと思う」
 聞きたそうな答えではないが、一応答える。
「え、そうなんですか……」
 傍目にも解るほど落ち込む。
 ええと、カレーを毎日飽きもせずに食べようと思うその根性はすばらしいと思います。
「先輩、昨日食べたじゃないですか……」
「カレーは、一日三回が理想ですよ。そんなこと常識じゃないですか」
 先輩はね。
 それに、カレーパンだのカレーうどんだのカレーを毎日朝食にするのはよくないと思います。
「で、シエルインド。なんで貴女が志貴の家に来ようとしてるの?」
「それは琥珀さんに呼ばれたからで……って、誰がシエルインドですかッ」
 ムキーッ、と頭から湯気を立てて怒り出す。
 自然に反応していたのは気のせいだろうか。
「え、じゃあ。インドシエル?」
 いたって普通の反応を返すアルクェイド。
 その眼には悪意はない。
 ほら、あれ。
 ええと、そうそう……無邪気なコドモみたいな。
「逆にしたって同じです。なんで、わたしがインドなんですかっ」
「カレーの国の王女様だからに決まってるじゃない」
 態度を変えず、至極当然とでも言うようにシエルに返す。
 眼が光る。
 俺ではない。
 浄眼という言葉があるが、この場合、どっちかって言うと邪眼だと思う。
「……死ネ」
 ジャラリ。
 暗闇に、刃の反射光が映える。
 手から、あたかも手品の如く湧き出てきたその投剣に映るのは、先輩の笑み。
 かちゃかちゃと、黒鍵を鳴らしてアルクェイドに投げる準備をしている。
 えと、シエル先輩。
 なんでもいいから。
 俺を挟んでの、そーゆーことは止めてくれ。 
「そんなんだから、陰険だって言われるのよ」
 あの、アルクェイドさん。
 俺を挟んだままで、そーゆー挑発も止めてくれ。
 しかも、なんで手を掴んでるのかな。
 ああ、なんか死が近づいてくるような気がする。
 先生、ゴメンナサイ。
 なんか、俺、本人達にとっては他愛無い喧嘩程度のものに巻き込まれて死にそうです。
 ……逃げられもしねぇ。
「失せなさい。吸血コウモリ、若しくは吸血ヒル」
 笑みをそのままに、アルクェイドに話し掛ける。
「貴女こそ、カレーの国へさっさと帰れば?」
 だから、楽しそうに挑発しないでください。お願いします。
 自分の意思とは裏腹に、どんどんヒートアップしていく状況。
 ああ、死どころか天国が見えてきたような気がします、先生。
 四季が手招きしているような気がする。
 そんな笑みを浮かべて、手招きをしないでくれ。
 秋葉、琥珀さん、翡翠。
 すまない。
 俺は、ここで力尽きるかもしれない。
 ああ、すまない。
 約束、守れないと思う。
 家まで、あと数分の距離なのに、辿り着く前に跡形もなく消えるかも。
「志貴さま。早くお逃げください」
 とうとう、翡翠の声まで聞こえてきた。
 気遣ってくれる、この声は幻聴だろうか。
 こんな幻聴だったら大歓迎だ。
 早く逃げろって?
 ははっ、そんなことが出来るなら――。
 逃げる?
 ちらり、とさっきまでつかまれていた腕がいつの間にやら離されている。
 そのままぐるり、と視線をまわす。
 翡翠がいた。
「え?」
「急ぎましょう」
 嫌がりもせず、自分から俺の手を取って、屋敷の方へと走り出す。
 手を引かれるままに、足音だけが夜を起こす。 
 どうやら、助かったみたいだ。
 良かった良かった。
 安心しつつ、屋敷の門を抜け、そのまま玄関へと走りこむ。
「もう、大丈夫のようですね」
「あ、ああ。そうみたいだ」
 少し後ろを見て、安堵の息を吐く。
 どうやら、いなくなったことに気付いていないようだ。
 それよりも気付いているのかいないのかなど、どうでもいいのか。
「……?」
 翡翠の顔を見ると、不思議そうに見つめ返してくる。
 いや、気付いてないんだったらいいんだけど。
「あの、翡翠?」
 言葉に、視線をそのまま下へと動かしていく。
 掴んだままの腕。
 バッ、と慌てて手を離す。
 手を離したあとも、落ち着かないらしい。ずっと慌てっぱなしだ。
「申し訳ありませんでしたっ」
 顔まで真っ赤になりながら、謝ってくる。
「かまわないんだけど」
 一応、声に出して呟いてみる。
 そんな言葉が耳に入らないかのように、翡翠は下を見ている。
「了承もなく、勝手にお手を掴んでしまい、あまつさえそのままずっと屋敷に入ってからも……」
 唇を噛み締めている。
 だから、そんなに気にしなくていいんだけどな。
「出すぎた真似をしました……」
 ずーん、と落ち込んでいる。
 暗い顔に、どうやって慰めようかと考えていると、
 事態を悪化させるためなら苦労を惜しまないであろう人物が大声をあげた。
「あ、志貴さん。駄目ですよー。翡翠ちゃんいぢめちゃー。
 秋葉さまみたいになっちゃいますよ?」
 極めて陽気に、そんな危険な台詞を吐く。
 琥珀さん、そんなに俺を陥れるのが好きですか……?
 この遠野志貴、そこまで恨まれているんでしょうか?
 ……恨まれてても仕方ないけど。
 それでも、この状況でその台詞はやばいって。
「琥珀さん……。わざとでしょ?」
「なにがですか?
 別にわざわざ一部始終を見ていた上でこういう台詞を吐いている。
 ……なんてコトはありませんよー」
 わざとだ。絶対に判っててやってる。
「……さいですか」
 手におえない。
 仕方ないから、琥珀さんと一緒に出迎えに出てきて、今の台詞を聞いていた秋葉に話し掛ける。
「だってさ。秋葉」
「ええ。聞いてました。どうやら、いつもそういう目で私を見ていたようね、琥珀」
 ちらり、と横目で琥珀さんを軽く睨みつける。
 呆れているのか、それ以上はなにもしない。
「そんなことありませんよーっ。
 ただ、世間一般はそういう風に秋葉さまを見ているというだけです」
 力説する琥珀さん。
 その言葉に、青筋を浮かべている秋葉。
「なお悪いっ」
 げしっ、と琥珀さんの首根っこを掴んで何処かへと連れて行く。
 翡翠は、まだ顔が赤いまま。
 ……えっと、パーティは?


 心配をよそに、琥珀さんのテキパキとした動きで各自にグラスが渡されていく。
 全員に行き渡ったというところで、琥珀さんが声をあげる。
「では、乾杯しましょう」
 ぐるり、と見回した。
 中心にテーブルを囲んで、六人の声が重なる。
「乾杯ッ!」
 カチャンッ、とそれぞれのグラスが合わさって硝子の透き通った音が響きわたる。
 騒がしく、声が広がっていく。
 さあて、宴の始まりだ。
 と、アルクェイドが琥珀さんに何かを聞いている。
「ねーねー。この飲み物、なんていう名前?」
「はい? ああ、それはアムリタです」
 琥珀さんは、答えながら空になったグラスを満たしていく。
 がたんッ、と椅子を倒して立ち上がる音がした。
 驚いたような顔で、シエル先輩がこちら側を見ている。
 こちら側……正確には琥珀さんの言葉を。
「あ、あ、あむりた……アムリタって、あのそのソレ本物ですか……っ」
「いえ、偽物です」
 何事もなかったかのように、言葉を流して自分のグラスに注いでいる。
「う、本物じゃないんですか?」 
 ぺたり、とそのまま椅子に座り込む。
 急に力が抜けたらしい。
「はい。
 アムリタという名前で、遠野家のご親戚の方の作っている自家製ワインのひとつです」
「それもそうですね……あるわけないですよね」
 納得したものの、憮然とした顔つきのシエル先輩。
 ぐいっと流し込むようにアルコールをのどへと運ぶ。
「志貴。もっと飲まないと楽しくないんじゃない?」
「いや、お前ら見てるだけでも十分楽しいよ」
「そう? ならいいんだけど」
 ちびちびとワインに口をつけながら、上品そうに飲む。
 うーん、こうやってれば世間知らずのところも解らないんだけどな。
「あら兄さん。あんまり進んでないようですけど、もしかしてご気分でも?」
「いいや、大丈夫だよ。それよりも秋葉、お前は飲みすぎ」
 話しながらも、その飲む速さが落ちない。
 こちらは上品そうと言うより、上品そのものだ。
 世間知らずなのは、どちらも同じだけど。
「そうですか? 今日は……意外に楽しいからですかね」
 そう言って、なにやら話し込んでいる三人の方を見ている。
 つまみを食べながら、その輪に入っていくアルクェイド。
 オイオイ、大丈夫か?
「で、アルクェイドさん。次はどんなお酒を?」
「うーん。じゃ、これお願い」
「はい。日本酒ですね」
 ……どうやら、琥珀さんとアルクェイドで固まっているようだ。
 そのすぐ横では、残りの二人が静かにお酒を飲んでいる。
「翡翠さん。あなたも大変ですね……」
「シエル様。そのようなことは……あの、すこしペースが速いのでは?」
「大丈夫です。それよりも翡翠さん、あなたももっと飲みましょうねー」
 なんか、先輩の目が据わっている。
 おお、翡翠が一気に飲んだ。
 酔った翡翠を見てみたい気もするが、たぶんそんな醜態は表に出さないだろうな。
「志貴さん。翡翠ちゃんは可愛いですねー」
「そうですね……って、琥珀さんッ!?」
 いきなり人の後ろから声をかけるのは勘弁して欲しい。
 あー、吃驚した。
「そんな吸血鬼を見たような声をあげないでくださいよ、志貴さん」
「待てそこーッ!?」
「あら、どうしました秋葉さま。なにかいたらない点でも?」
「さっきのはどういう意味なのか、説明しなさい」
「いえ、なにやら非常に志貴さんが驚かれた様子でしたので、
 いつもの志貴さんの行動から考えて、
 現実に一番確率の高い瞬間のコトをひとことだけで表した場合、
 あのような言葉になるのが当然だと思いますが」
 飄々と赤い秋葉の言葉と視線を受け流し、なにやら翡翠ちっくな理論武装で言葉を返す。
 琥珀さん、だからなんで俺に被害の来るような台詞を使うのかな。
「兄さん。どういうことですか?
 兄さんが私のコトをそういう眼で見ていたということで間違いありませんね?」
「いえあのその……、
 答えを求めるんじゃなくて確認するような聴き方ってのは、あんまり良くないと思うんだ秋葉」
「仕方ありません。正直に答えてくれる可能性は、兄さんではありえませんから。
 いえ、違いますね。
 ……正直に答えるような兄さんは、きっと偽者に決まってます」
 そこまで信用なかったのか……。
「あの、秋葉さま。別に秋葉さまのことだけを指しているなんてコトはないです」
 おお、助け舟。
 琥珀さんの言葉でピンチになったが、助けてくれるのならありがたい。
「直接的に当てはまる方がもう一方いらっしゃいますので」
 ちらり、と何か言いたげな視線を俺に向かって流し、そのあとで逆方向を見る。
 その方向には、アルクェイドとシエル先輩。
 なるほど。フォロー入れてくれると思ったら、
 崖からロープで引っ張って最後の瞬間にソレを切るみたいなコトをするのか。
 すごいよ琥珀さん。
 なんでそんなに楽しそうなのかは、あえて聞かないけれど。

 見上げた天井は高い。
 ……少し飲みすぎたかな。
 頭を振って周りを見てみる。
 話は尽きないようだ。
 秋葉は底なしだし。
 普通の状態なら先輩もアルクェイドも酔わないのかもしれない。
 三人とも呑みつづけているが、ま、大丈夫だろう。
 なんだかんだで俺が一番酔っているみたいだ。
 塩味に飢えているから、おつまみに手を伸ばす。
 皿には、牛タンが一枚だけ。
 伸ばした先には同じような手が三つ。
 訂正。
 手が二つと箸が一本、それに加えて俺の手。
 見上げた先には眼鏡と金髪と赤い髪。
 ……さて、どうしよう。
 この膠着状態から抜け出すための三つの手段。
 効果はともかく、ためしに提案してみよう。
 一つ目。
「あのさ、これを四つに切って分ける、ってのはどうかな?」
「ハイ? 正気ですか兄さん。この大きさの物を四つに分けてどうするんです」
 あっさりと秋葉に否定された。
 お兄ちゃんは悲しいぞ。
 他の二人もうんうんと頷いている。
 どうしてこういうときだけ結託するんだか。
 しかたないから二つ目。
「じゃあ、平和的手段としてじゃんけんで決める、とか」
「いいですよー。一人だけ確実に負ける人がいるだけですから」
 にっこりとシエル先輩が微笑む。
 暗示する気満々な脅迫は止めてください。
 顔に出てないだけで酔ってるんじゃないだろうか。
 どうしようもないから、三つ目。
「ふむ。なら仕方ない。俺は戦線離脱するから三人で決めてくれ」
「あれ? 志貴食べないの、これ」
「まあ、このメンバーじゃ諦めるよ」
「じゃあ、わたしもいいや」
 アルクェイドはそんなことを言ってこっち側にくる。
 俺はくるりと背を向ける。
 それにならってついてくるアルクェイド。
 とたんに始まる醜い争い。
 そんなに牛タンを食いたいのだろうか。
 あの二人だと、意地の張り合い、かな。
 背中で感じる殺気の渦を無視を決め込んでおく。
 どうせ死なないし。
「ん? そういえばなんでこっち側に志貴が行くの?」
「ああ、それは」
 なかなか鋭い質問だアルクェイド君。
 疑問にはすぐに答えるとしよう。
「琥珀さん。余ってる牛タン分けてください」
「おや志貴さん、なんでバレたんですか?」
「いや、なんとなく」
 なんとなく、静かに飲んでいるんじゃないかな、と。
 琥珀さんの性格からして、自分達用に少しくらいは残してるはずだし。
「バレちゃったんじゃ仕方ないですね。翡翠ちゃんあれ持ってきてー」
「あ、はい。……あの、姉さん。
 秋葉さまとシエルさまの争いを止めなくてよろしいのですか?
 こちらにも十分な量がありますし」
「いいんですよ。
 あまり仲がよろしくないようですし、あの方々は本音でぶつかることが必要なんです」
 優しげな瞳で二人を見つめる。
「どうぞ。……でも姉さん、本音で嫌い合っていらっしゃるのでは?」
「ええ。そうかもしれないですね。
 でも、相手を好きとか嫌いだとかは、相手のことが憎いのとは別ですから」
 あの二人は憎み合ってるわけじゃないんですよー、とか言いながらこっち側を見た。
 なんとなく、楽しそうに見える。
 立ち上がって、料理を追加してきます、と台所へと消えていった。
「うん、おいしい」
「ほんとだー」
 極めて普通なコメントをしてみる。
「どうぞ」
「ありがとう」
 翡翠がお酌をしてくれた。
 なんというか、あんまり酔っているようには見えない。
「アルクェイドさまもどうぞ」
「えへへ。ありがと」
 おや、ここにあるお酒はもう尽きたようだ。
 取りに行くか。
「翡翠、どこにあるんだ?」
 酒瓶を示しながら聞いてみる。
「あ、ここにあるので持っていきますね」
 答えたのは琥珀さんだった。
 料理の皿を置いてから、歩いて戻る。 
 よいしょ、と高そうなお酒を引っ張り出してきて目の前に置いた。
「琥珀さん、酔ってます?」
「ええ。そうですねー。ゆっくり飲んでますから」
 にこにこしながらコップの中の液体を減らす。
「翡翠、ちゃんと飲んでる?」
「はい。頂いてます」
 訊いた言葉にはちゃんと反応しているが、なんとなくぼーっとしている。
 さて、じゃあ料理を頂きますか。
「あーおいしい」
 そういえば、と振り向いてみれば。
 アルクェイドはテーブルの上に体を伸ばしていた。
 ……くー。
 かわいい寝息である。
 なるほど、顔に出ないだけでしっかりと酔っていたらしい。
 目を瞑ったアルクェイドにそこにあった上着を掛けてやった。


 宴も終わり。
 闇に染まった世界のなかで、酔いながら眠る幸せな時間。
 なにもかもが不確かで、それでも虚ろではない。
 満ちている。
 テーブルに寄りかかるようにして、みんなが眠っている。
 大皿に盛られた料理も、ほとんど空になっている。
 楽しげな顔のまま、あるいは赤くしたままに笑みの形に固まっている。
 夢を見ているのか。
 少しだけ外は肌寒い季節、暖炉に火が灯っている。
 ――これは、翡翠か琥珀さんか。
 眠ってしまっても風邪をひかないようにという配慮だろう。
 それが必要な人間は限られてはいるけれど。
 いつの間にやら、黒猫の姿があった。
 眠りこけている猫の目の前には、小さなお皿。
 そこに入っている液体は、おそらくお酒だろう。
 入れたのは琥珀さんか、アルクェイドか、それとも。
 グラスに手を伸ばしたまま、うつ伏せになって伸びているのはアルクェイド。
 逆に、グラスを手に持ったまま酒瓶を抱いているのは、シエル先輩だ。
 ソファーに横たわって、いかにも優雅にしているのは、秋葉だ。
 酔っているわけではないのだろう。
 単に眠くなって、独りだけ部屋に戻って眠るのも煩わしかった、といったところか。
 その向かいで、深くソファーに座り込んで寝ているのは琥珀。
 その琥珀に体を預けるように寄りかかっているのは、翡翠だ。
 誰もがこの宴を楽しんで、楽しみきって、楽しみ疲れた。
 そんな感じだ。
 ああ、楽しかった。
 何の意味もなく、何のわけもなく。
 生きていることが、楽しくて。
 生きてきたことが、嬉しくて。
 この場所で、こうしていられることが幸せすぎて。
 夢にまで見そう。
 ただひたすらに、楽しすぎて――。


 涙が出そうになった。

 ゆらゆらと揺れる視界。
 上を向いて、涙を留める。
 ゆったりとした空気と、火照る頬を冷ます風が通り抜けていった。
 視界の片隅には、雲の狭間に映る月。
 冴え渡る蒼光は、流れる。
 静かに、静かに。
 玲瓏に響き渡る、風の音だけ。
 光すらも沈黙を守るかのように、在る。
 何一つとして動かない世界で、自分だけが闇に身を任せている。
 月明かりを頼りに、足音を立てないように。
 静かな世界を、壊さないように。
 幸せな夢を、この夜は見続けられるように。
 
 そして、
 この闇を、最後まで見届けるために。 


 ――月が灯るころ。
 酔ったまま、涼みに外へと歩き出す。
 冷たい風に誘われるように、ふらふらと。
 いつの間にやら、どこか知らないほど奥へと来てしまった。
 屋敷は大きく、まだ見ぬ場所があってもおかしくない。
 醒めない夢に惑わされたまま、気にもならない。
 此処は、何処かで見たような。
 其処は、何処にも無いような。
 仄かな月の夜。
 明るい闇の下。
 夢と現の狭間で、少女と話している。
「綺麗な月、こんな静かなところだと、ぼーっとしていたくなるんだ」
「そう、かも……そうかもしれない、ね」
 うんうん、と頷く少女。
 こちらの顔を覗き込むように見る。
「遠野くんはそういう人だもんね」
 少女はそんな台詞を吐き出す。
 ……少しだけ落ち込む。 
 固まったこちらを見かねてか、小さく首をかしげる。
 そのまま、上を見上げる。
「月、綺麗だね」
 別の話題を振ってきてくれた。
 うん、と頷いた。
 思ったコトを口に出す。
「なんて言うか、いまにも月に届きそうな」
「面白いコト言うんだね、やっぱり遠野くんらしいよ」
「うん、きみにも逢えたし」
「へぇ、わたしと逢うと面白いコトを言ってくれるんだ」
 意地悪な笑みを浮かべて、こっちの眼を見てくる。
「いやその、そういう意味にとられると……」
 言葉に詰まったことを、困った顔で誤魔化そうとする。
 それを見て、少女はくすくすと笑みをこぼす。
「えっと、その、さ」
「遠野くんは、そのままでいてほしいな」
 言おうとした言葉を遮って、少女は眼を見てくる。
「遠野くんは、簡単に諦めちゃいけないんだから。最後まで、そのままで頑張って」
「……うん」
「いろいろ大変だろうけど、遠野くん……ううん。志貴くんなら、きっと間違えないで歩けるから」
 静かにささやく少女。
 横顔には、凍りついた月光が照らす。
 その姿には、優しそうな笑顔がある。
 静けさに、暖かな沈黙が流れる。
 ふたりで空を見上げていた。
 けれど、夜は流れることを留めることはなく。
 いつしか、隣りに座っていた少女は、見上げた月の影を残していた。
 姿が霞む。
 闇が薄くなる。

 ――――夢が、終わる。

「……そろそろ、終わりだね」
「そうか……」
 ぱんぱんと服を叩いて立ち上がる。
「元気でね、……志貴くん」
「ああ、弓塚さんも」
 答えた言葉に、彼女は何故かいきなり笑う。
 クスクスと、涙まで浮かべて笑い出す。
 ひとしきり笑ったあとに、その最高の笑顔で応えた。
「……うんっ」
 浮かべた涙をそのままに、小さくひとことだけ。
「またいつか……っ」
 ばいばいと、声が響いて消えていった。


 人も、星も、闇も。
 何もかもが寝静まったころ。
 全てを晧晧と照らすような、灯る月の下で。

 遥か彼方の舞台は、少女の微笑みでその幕を閉じた。



 FIN.




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