ちょっとだけドラマチック?



 由綺の手のひらの温度がやけに冷たく感じられた。それはつまり、握りしめている弥生の手が熱くなっていたことでもある。
 彼女たちは手をつないで道を歩いていた。
 いつもとどこか様子の違う弥生に対し、由綺が不思議そうに見上げた。声をかけるのを一瞬だけ躊躇った。
「弥生さん?」
「なんでもありませんわ」
 とてもそうは見えなかったのだが、弥生がそう言うならと、由綺は自分を納得させようとした。まあ、大人の女性なのだし、私には計り知れないくらい色々なことがあるのだろう。そう考えたのだ。
 しかし本来ならそうした姿を見せることのない相手である。ここで素直に頷くことは由綺にとって弥生の異変を見過ごすことに等しかった。由綺が親しい人間の不調を放置できるわけもない。
 つまりは心配だったのだ。
「えーと、弥生さん?」
 由綺はもう一度声をかけた。声をかけずにはいられなかった、と言ったほうが正しいのかもしれない。
 少しの間が空いて、ぼんやりとしていた弥生が声を返す。
「由綺さん?」
 弥生は心ここにあらずといった風に返事をし、顔を向けた。視線は確かに由綺に向いているのだが、どうもふわふわと浮いた表情がかいま見える。
 思い立って、由綺は片手はつないだまま、もう片方の手のひらで、弥生のひたいに触れる。
「いや、熱でもあるのかなあって」
「……」
「うーん、ちょっと熱いです。風邪気味ですか?」
 弥生は何事かをうめき、倒れそうになってしまった。目を丸くして一瞬棒立ちになった由綺は、慌てて自分より高い背である弥生の肩をささえた。
「……由綺さん、ありがとうございます」
「いえ。……ダメですよ、そんな無理しちゃ。もー」
 気を遣わせまいと軽い口調を意識する。そのうえでよろめく弥生に手を貸して、衆目を集めてしまっていることもかまわず歩き出す。由綺が向かっているのは自分の部屋のある方向だ。弥生は声を出さない。出せないのかもしれなかった。
「あーあ。今朝いきなり冬弥君が弥生さんの家に行ってあげてって言ってた理由がやっと分かりました。弥生さん、ただでさえ忙しいのに、最近は冬弥君の勉強まで見てあげてるんでしょう? 無理させないように、って言っておいたのになぁ」
「……よろしいのですか?」
 弥生は苦痛に耐える表情で、小さく聞いた。
 由綺は大きく頷いた。握りしめた手をさらに強く掴んで、自分の部屋まで引っ張っていこうとさえした。
「もう、なに遠慮してるんですか。大切な弥生さんをこのままにできるわけないじゃないですか」
 目に涙まで浮かべている弥生を見て、由綺はぎょっとした。
「ど、どこか痛いんですか?」
「いえ」
 由綺は急ぐために、弥生は何かに思いを馳せるようにして、しばらくのあいだ口を閉ざしていた。
 そうして由綺の家に二人して向かった。





 ――もう少し、詳しい情景を語るべきかもしれない。

 由綺の手のひらの温度が驚くほど冷たく感じられた。由綺の方からぎゅっと握りしめられたとき、弥生は笑みを浮かべずにはいられなかった。
 彼女たちは手をつないで道を歩いた。そのうちに弥生の雰囲気や仕草、そこかしこからいつもとどこか様子の違うことが伺えた。由綺は不思議そうに傍らのマネージャーの横顔をのぞき込んだ。
「あの、弥生さん?」
「なんでもありませんわ」
 弥生がそう言うならと、由綺はいったんは頷いた。
 外見からは想像もつかないかもしれない。普段は隠しきっている。しかし彼女の内面は繊細である。微塵も傷つかない鋼鉄に思われることもある。
 だが、決してそんなわけがないのだ。
 弥生は由綺のことが好きで好きで仕方ないのだ。そかし素直に言うなんてとてもじゃないができるわけがない。だって好きなのだ。
 弥生は恥ずかしがり屋で、照れ屋で、それでいて正直者なのだった。
「えーと、弥生さん?」
 由綺はもう一度声をかけた。弥生から握り替えされた手の熱さがさすがに気になったのであろう。
「大丈夫ですわ。何も問題はありません。ええ」
 聞いていないことまでしゃべり出すあたり、重傷である。ヘンな弥生さん、と由綺は思った。藪をつついて蛇を出すのも恐いので、あまり深く考えないようにした。
「由綺さん?」
 息をのみ、弥生はやっとの思いで静かに問いかけた。なにしろ片手はつないだままで、もう片方の、由綺の手のひらが、弥生のひたいに触れたのだ。
 冷たくて気持ちの良い感触だった。美しくきめ細やかな指だった。しかし、こういう状態になってしまったことで熱はさらに上がってしまった。
「いや、熱でもあるのかなあって」
「……」
「うーん、ちょっと熱いです。風邪気味ですか?」
「はうっ」
 弥生は可愛らしい声を出して倒れそうになった。すわ何事かと目を丸くして一瞬棒立ちになった由綺は、慌てて自分より高い背である弥生の肩をささえた。
「……由綺さん、ありがとうございます」
「いえ。……ダメですよ、そんな無理しちゃ。もー」
 由綺がよろめく弥生に手を貸したとき、弥生の呼吸は荒かった。寄りかかられることに慣れていない由綺は、自分の重責をひしひしと感じ取った。
 急がなければいけないと、無理をさせない程度に足を速めた。
 そのあいだ弥生は何も言わなかった。
 場を和ませようとでもいうのか、由綺が優しく語りかける。
「あーあ。今朝いきなり冬弥君が弥生さんの家に行ってあげてって言ってた理由がやっと分かりました。弥生さん、ただでさえ忙しいのに、最近は冬弥君の勉強まで見てあげてるんでしょう? 無理させないように、って言っておいたのになぁ」
「……よろしいのですか?」
 弥生は苦痛に耐える表情で、小さく聞いた。
 由綺は大きく頷いた。握りしめた手をさらに強く掴んで、自分の部屋まで引っ張っていくのが自分の義務といった表情だった。
 真剣な眼差しを受け、弥生が瞳を潤ませていた。
「もう、なに遠慮してるんですか。大切な弥生さんをこのままにできるわけないじゃないですか」
 感極まったのだ。そんな弥生を見て、由綺はぎょっとした。
「ど、どこか痛いんですか?」
「いえ」
 胸が詰まる。声が出ない。それでも、なんとか否定の言葉だけは口に出来た。由綺は急ごうと、弥生は自分の動揺を悟られまいとして、しばらく口を閉ざした。
 この、ぽわーっとしている弥生を見ることが出来た者は幸運であった。
 なにしろ乙女なのだ。
 そして二人で一緒に歩く。これを幸せと言わずなんというのであろうか。
 大切なのは愛である。
 とまあ、こんなことがあったのだった。



 自分の部屋に連れてきたはいいが、弥生の調子がひどく悪そうに見える。玄関をあがる弥生の足取りの確かさに、由綺はこの様子が病気からくるものではないのだろうと直感で見抜いた。
(……なんだか情緒不安定だもの……)
 いつもなら率先して動く弥生が由綺の一挙一動を見守っている。素直に休んでいる。しかしその瞳は潤んでいた。そして何かを隠しているのが感じ取れた。
 紅茶を入れながら、由綺は借りてきた猫のように大人しくなった弥生を盗み見て観察している。
 今日の弥生はおかしい。
 あきらかに奇妙なのだ。原因があるとすれば――と思考を巡らせる。すぐさま冬弥が関係しているに違いないと判断した。
 弥生さんの家に行ってあげてほしい。冬弥が連絡をしてきたのは朝のことだ。会って話したわけでもないだろう。
 だいいち、なぜ冬弥が弥生がおかしいと知らせて来ることが出来たのか。
 論理的に考えると、どうしても疑わざるを得ない。
 知っていたのだ。
 おそらく原因も分かっているのだ。そうでなくて、どうして由綺に連絡をしてくるというのか。つまり。
 由綺は本当に心配だった。いくつかの想像が駆けめぐり、そのうちのひとつが形をなしてふくらんだ。
(もしかして)
 その先を考えることを一瞬躊躇した。しかしつい口を衝いて出てしまった。一度発された言葉は消えることはなかった。
「妊娠……?」
 その言葉を耳にした瞬間、弥生がびくんと震えた。わなわなと震える唇で、声にならない声を出し、由綺を凝視した。
「……由綺さん……」
 由綺は弥生の反応に驚きはしたが、しかしその一方でどこか冷静に、彼女の次の言葉を待った。何かを考えている素振りのあと、かすれたような声で弥生が呟く。
 由綺はそれを聞き漏らさなかった。
「まさか、藤井さんの……?」
(え……まさか本当に、冬弥君の子が、弥生さんのお腹の中に?)
 息をのんだ。
 泣きそうな表情の由綺が、弥生の瞳を覗き込んだ。


「まさか、藤井さんの……?」
 この自分を家まで無理矢理引っ張ってくる。由綺がそこまでしてくれたことに浮かれていた弥生は、どうして自宅だったのかを考え始めた。
 ここでなければならない理由。他人に聞かれてしまうことをおそれたため?
 想像に、体がこわばったのを感じた。
(そんな……由綺さんが、藤井さんに汚されてしまった……?)
 いや、もっと大事なことがある。
 妊娠。
 どうしてそんな言葉を由綺が口にする理由がある。それもマネージャーである弥生の前で。心配事があったらいつでも私に言ってほしいとは常々話してきた。
 だからだろうか。
 妊娠。
(妊娠? どうして、なぜ!? そんな素振りはずっと無かった……いえ、私が気づかなかっただけ……そう、最近の由綺さんの私を見る目は不安で溢れていた……!)
 胸の裡では絶叫している。しかし弥生は落ち着こうとして由綺の顔を見た。由綺は泣きそうな顔で、弥生を見つめている。
(そう、なのですね。ああ、分かりました)
 弥生は言った。
 この瞬間、彼女のなかで意思は固まっていた。こんな道半ばで由綺を引退させるわけにはいかないのだ。
 由綺が呆然と見上げるのを見つめ、そっと口を開く。
(愛してみせる。由綺さんと、藤井さんの子供なら)
 そうするだけの覚悟がある。弥生は、由綺に向けてこう告げた。
「私が、育てます」


「私が、育てます」
 弥生は確かにそう告げた。よりにもよって、冬弥の恋人である由綺に。
 聞き届けた由綺は、混乱する頭を抱えることもなく、弥生の発した言葉をつなぎ合わせて、その意味を考えた。
(そっか。弥生さんは、冬弥君の子供を産むんだ……)
 これは宣戦布告なのだと思った。そうでなくて、なぜ由綺に対して宣言する必要があるだろうか。
 残酷な関係が生まれつつあった。
 冬弥を巡る三角関係が。
 それは確かにある意味では事実と等しかった。各人の思惑と真実だけがことごとく異なっていたに過ぎない。
「……うん、分かった」
 由綺は微笑んだ。
「でも、冬弥君は、あげられません」
 言い切った。
 たとえ弥生が相手でも、それだけは出来なかった。
「ええ……分かっています……」
 息を吐くようにして弥生がこう答えた。
 奇妙な三角関係はここに安定を見たのだ。真実は何一つとして表面には現れなかったのだが、これもまた人生の機微というやつであろう。



 翌日、仕事場にいる二人に呼び出されて冬弥が出てくると、弥生と由綺がとても優しい笑みを浮かべていた。
「こうなってしまった以上、仕方ありませんわね」
「うん、そういうこと」
「藤井さんには責任を取っていただきませんと」
「冬弥君、生まれてくる子供ことは、ちゃんと大事にしなきゃだめだよ」
 話の見えない冬弥は、印象的な言葉だけを拾って意味を考えた。
 子供。
 生まれてくる。
 大事にする。
「え?」
「え、じゃないの。お父さんになるんだからね」
 冬弥は呆然として天を仰いだ。
「さあ、参りましょう」
(どこへ? なにが? 俺はどこ? ここは誰? 子って、えええっ!?)
 そして冬弥は、これから先、自分があの凄まじき昼メロの世界の住人として生きることになったのだと、思い知らされるのであった。


 擦れ違いこそ、ドラマであるという言葉がある。
 お後がよろしいようで。