楽しい思い出が好きだった。
 どこまでも続く夢のなかで、幸せな一瞬を探していた。
 それはとても近くて。だからこそ、どこか遠くて。
 きっと、この両手で抱きしめられないほど大きいのだと。

 そう、思っていた。


 穏やかな空気を肌に感じる。
 とまっていた時間が動き始めたのが分かった。
 風が、頬を撫でていく。少し涼しくて、でも暖かな流れ。
 季節は春。
 道を舞うのは、雪ではなく桜の花びら。
 やわらかな太陽の光が、目に入る。とてもまぶしかった。
 踏み出した一歩が、雪解けの街に足音を響かせた。
「祐一君っ! はやく行こうっ」
「とりあえず落ち着けって」
 ぽんぽんと頭に手ではたかれる。
 祐一君の声よりも、帽子がずれそうになったことに立ち止まる。
 うぅ……はずかしい。
 そんなことを思っていると、背中から声がかかった。
「どうした?」
 言いながら、また上から手を置く祐一君。
 ボクは振り返りながら、大きめの声で叫んだ。
「わざとやってるでしょっ!」
「そんなことはない」
 しかも、頭を撫でるように動かされる。
 しばらくそのままで満足したのか、祐一君が腕を引っ込めた。
 ボクはあわてて帽子を直す。まだ少しずれてそうで、気になる。
「うぐぅ……祐一君のいじわる」
「いや、あゆの反応が楽しくてな」
 一瞬だけ、いくつか言葉が浮かんで。すぐにいつもと同じ返し方に決めた。
 はぁ、とため息。肩を小さく、すくめてみた。
「祐一君らしいよ」
「ありがとう」
「……ほめてないってば」
 呆れたように言葉を返した。目を細めて、祐一君が本当に楽しそうに笑った。
 こんなやり取りが、懐かしくて、嬉しくて。つられるように笑ってしまった。
 ベンチの前で、ふたりで笑顔。
 包み込むような日差しが、ボクたちに降り注いでいた。


 ボクの隣りに並んで、ゆっくりと歩くひと。
 商店街を抜けていくと、人々の活気がそこにはあった。
 でも、たい焼き屋さんは見当たらない。季節が終わってしまっているから。
 今が春だということを、街並みの雰囲気に感じていた。
「そうだ! 忘れてたあゆあゆ」
「あゆあゆじゃないもんっ!」
 いきなり叫んだ祐一君の言葉に、つい反応して叫び返した。
 どっちも反射的に出た声だったから、言ってから自分で驚く。
 いつもと同じやり取り。昔、何度やったかも思い出せないくらいにそのままで。
 言葉に詰まると、とりあえず口癖でごまかしてしまいたくなる。
「……うぐぅ」
「いや、うぐぅじゃなくてな。適当に時間つぶしてから家に帰るぞ」
「えっと、どうして?」
「秋子さんがたい焼き作ってくれてるはずだから、冷める前に帰りたい」
 分かったか、と続ける祐一君。
 その言葉に反応して、つい勢い込んで叫んだ。
「急ごうっ! ほら、走らないとダメだよっ!」
「そんなに慌てるな、あゆ」
 ボクは力説した。
 こぶしを握りしめ、目一杯に力を込めて。
「秋子さんが作るたい焼きだったら、走るだけの価値はあるんだよっ」
「まあ、それには同感だけど。歩いても充分に間に合うから」
「祐一君、実は走りたくないだけなんじゃ」
 ん、と手を出す祐一君。
 自然と差し出された手を取った。ぎゅっ、と握る。
 強く、握り返された。
「行くぞ」
「えっ。あ、わ、わわわっ」
 いきなり走り出した祐一君。
 思いっきり引っ張られてるから、止める言葉が出てこない。
 そのまま店が立ち並ぶ通りの中ほどまで進む。
 まあ、いいか。
「あ、そういえば」
 そんな言葉が聞こえた。不思議に思う間もなく、突然、祐一君が立ち止まった。
 うわわわわっ!
 勢いそのままに、真っ直ぐに転びそうになる。
 一応、つないだままの手で支えられて踏みとどまった。
「ひどいよっ、祐一君……、なんでいきなり止まったのっ!?」
 ここまで走ってきた距離分の息を吸って、吐き出す。
 ものすごく疲れたけど、とりあえず聞いてみた。
 落ち着いたのを見て取ったのか、手が自然と離れる。
 手が放れた瞬間、かすかに寂しさを感じた。
 涼しい風が吹いて、がさがさと葉のこすれる音が耳に届く。
 驚いて顔を上げると、遠くの木々を揺らしているのが見えた。
 離してしまった手。そこに清らかな風がぶつかって、少し冷たい。
 そのまま視線を目の前に戻す。
 すっごく真面目な口調で答える祐一君。
「いや、あゆならこのくらいの逆境に耐えられると信じてるからな」
「そういう信じ方はしないでくれると嬉しいんだけど……」
「転ぶのには耐性出来てなかったっけ?」
「そんな耐性なんてないもんっ」
 うー、と唸ると祐一君がごまかすようにこちらを向く。
 周辺のお店に対して、何かを確認したらしい。
 とても楽しそうに笑った顔を隠そうともせず、口を開いた。
「それで、止まった理由だったな」
「うん」
「ここ、見覚えないか?」
「うーん。あるような無いような……」
「ま、商店街だから見たこと自体はあるに決まってるんだけどさ」
 祐一君がどうだ、と視線でうながす。辺りをぐるりと見回して、はっ、と気付いた。
「もしかして」
「分かったか?」
「たぶん……祐一君に再会した場所、だよね」
「正解」
「そうだったね。ここでぶつかって」
「食い逃げ少女に手を引っ張られて逃亡の手伝いをさせられた、と」
「……そんなことまで思い出さなくていいよっ」
「ちなみに、気付いた理由は手を引っ張って走ったから」
 あ。
「もしかしてさっきの、前にボクがやったことのお返しだ、って何気なく言ってる?」
「ははは。そんなことないぞ」
 すごくわざとらしかった。
「それにな」
「なに?」
「昔、あゆあゆに泣きつかれたのもこの場所だ」
 あゆあゆじゃないもん、そう言い返そうかと思ったけどやめた。
 泣いていた自分。泣いているしか出来なかった自分。
 そのころを思い出したから、ボクは真っ赤になってしまった。
 熱くなる顔に気を取られているうちに、軽く抱き寄せられる。
 回りには、多くはないけど人がいて、こっちを見ている気がした。
「う、すごく恥ずかしいよ……」
「懐かしいか?」
 祐一君の声に、口を閉ざして考える。
 遠くなってしまった記憶。
 けれど、いつも胸の奥にしまっていた想い。
 鮮明によみがえる映像。だんだんと色褪せていくもの。
 だから、消えていかないように。静かに声にした。
「そうだね。あのときはずっと泣いていたから」
 祐一君に出逢えたことが、なによりの奇跡。
 あの偶然が、ボクにとっての思い出の始まりだったから。
 言葉を続けないで、黙って祐一君の言葉を待った。気遣うような声だった。
「すぐに泣かないくらいに、少しは強くなったか?」
「強いかどうかは分からないけど。ボクは、ひとりじゃないって知っているから」
「……それを強くなったって言うんだ」
 言って、くしゃり、という音。
 帽子の上から、頭を撫でてくる祐一君。
 子供じゃないもんと、口のなかだけでつぶやいて、身を任せた。
 手のぬくもりが、どこか心地良かった。
 って、忘れるところだった。祐一君に向かって詰め寄って、そのまま声を出す。
「たい焼き、冷めちゃう前に帰らないとっ!」
「あー、いや。たぶんまだ大丈夫だろ」
 足を動かし始めるボクに向かって、笑いながら祐一君が応じた。
 どうしてだろう。
「えっと」
 目の前でからかうようにさんざん笑ってから、彼は口を開く。
「秋子さんから『おやつの時間くらいまで、適当に外で時間つぶしておいてくださいね』って言われてるから」
 つまり、三時ってことらしい。まだまだ時間はある。というか有り余っているくらい。
「じゃあ、もしかしてさっき急いだのは……」
「もしかしなくても無駄だな」
 容赦のない言葉を言いつつ、祐一君は、もう一度手を握りしめてきた。
 ボクからも握り返す。しっかりと、繋いだ手を離さないように。
「ま、もうしばらく散歩してても大丈夫ってことだ」
「……うん」
 うなずいて、祐一君の顔を見る。
 ちょっとだけ照れた様子で、彼は前を向いた。
 ふたりとも黙り込む。
 顔を赤くしたまま、並んで歩き出した。
 何もいわないけれど、歩調を合わせてくれているのが、なんとなく分かった。


 思い出は、積み重なっていくものだ、と。
 そう感じることがある。
 だんだんと増えていく記憶のなかにあって、強く鮮明な色。
 音や映像、単語や言葉、そのときの空気。自分の想い。
 全てを思い出すことはできなくて、全てが楽しいとは言えなくて。
 それでも大切な日々。
 歩きながら思い返すのは、なんでもないこと。
 他愛もない話。くだらない争い。つまらない出来事。色々な考え。
 なにもかもが綺麗じゃないけれど、ちゃんと胸の奥に残っている。
 視界の端にある木々から漏れる光。青々とした大きな葉を透き通って、そのまま目に入ってきた。
 まぶたを閉じると、溢れそうなほどの、優しい純白が満ちていた。
「って、あゆ」
「……うん、なにかな」
「眠いなら寝ててもいいぞ」
「目を閉じてたんだよっ」
 座り込んだボクの隣から、いじわるな言葉をかけてくる祐一君。
 切り株に寄りかかっていたら、少し気持ち良かった。
「しっかし、本当に景色が良いな」
「うん。あの大きな木がまだあったら、もっと良かったんだけどね」
「ま、そう言うな」
「そうだね」
 切り倒されてしまった大樹は、もうここにはない。
 原因を作ったのはボクたちだけど、悲しい。
 澄み切った空気のなか。
 ボクは、この場所に何度も訪れていた。いつも涙をこらえていた。
 来てしまったら、泣きたくなる。それは分かっていたけれども。
 それでも。
 ここに、来たかったから。
「あ……」
 幼いころは、見上げてもてっぺんは見えなかった。
 あの青空に届きそうなくらいの、憧れにも似た大樹は姿を消した。
 それでも、祐一君と過ごした日々の記憶は残っている。
 散歩と称して、森の奥まで歩いてきた。
 ボクの……ううん、ボクたちの、学校だった場所に。
 お気に入りだった、思い出の世界。
 ボクたちだけの、遊び場。
「今なら、木に登らなくても景色が良く見えるな」
「うん」
 目に焼き付いていた、鮮やかな風景。
 はるか遠くの世界を見つめては、それに心を奪われていた。
 どこまでも拡がる青空と、命の芽生えている木々。
 街からは距離を置いていても、活気があるのが分かる。
 道を彩るかのように、通りに植えられた桜。歌声のような響きが聴こえて、視線を上げる。
 冬の寒さから逃れていた鳥たちは、蒼一面の空を舞っていた。楽しそうだった。
「でも、もう、春なんだね」
「ん?」
「昔は銀色の世界だったんだよ……なにもかも雪に覆われてた」
「でも、季節っていうのは巡るもんだろ」
「わかってるよ」
 解っている。
 けれど、どうしようもないくらいに。
 寂しくて、かなしくて、なつかしくて、苦しくて。
 なにもかもが、変わってしまうことが怖い。

 不意に、涙があふれそうになった。

 記憶にある光景も、現実にある情景ですら。
 流れていく季節と一緒に、どこかに置き忘れてしまう。
 どんなに大切に抱きしめていても。この両手から、零れていってしまうから。
 消えていく雪のように、流れ続ける風のように。
 いつまでも同じ場所に在り続けるものは、どこにも無いのだと。
 込み上げてくるものを必死にこらえて、笑顔をつくる。
 楽しいことがあった。
 悲しいことがあった。
 そんな思い出の場所から、音も立てずに立ち上がる。
 ボクは、ひどくささやかな笑みを浮かべていた。
 泣き顔を彼に見られないように、と。
 目を伏せると、いきなり視線の先を影が覆った。
 不思議に思って顔を上げると、祐一君の顔が目の前にあった。
 じーっ、と見つめられている。
 う。かなり恥ずかしいかもしれない。彼は口を開いた。
「……あゆ」
「祐一君、どうしたの?」
 震えそうな声を無理矢理に押し込める。
 衝動はすでに消え失せていて、少しだけ切ない気持ちが残る。
 鳥の鳴き声も空に溶けて、一瞬だけ静けさが訪れた。

「泣きそうなら、我慢するんじゃない」

 すぅ、と風が吹いて、ボクは目をつぶった。
 息を呑んで。
 言うべき言葉も見付からなくて。
 まぶたを開ける。
 ただ、ぼんやりと祐一君の顔を見上げているのが自分でも分かった。
 小さな間を空けて、すぐに感情の抑え方が分からなくなった。
 ぼろぼろと零れそうになる水滴。視界がぼやけて、透明に滲んだ。
 祐一君の顔だけが、どうしてか……はっきりと見えた。
 記憶に焼き付いているのは、心配そうな顔。辛そうな顔。苦笑。
 今はきっと、そのどれでもない。
 楽しそうに笑っている顔。
 余裕を見せることで、不安を取り除こうとしているような、笑顔。
 涙で歪む目の前は、とても優しい空気が流れているのが分かる。
「泣くなら胸を貸してやるから」
「うん……」
 ぽすっ、と顔を押しつけた。  孤独が怖いわけじゃない。祐一君が、ちゃんと、ここにいる。
 ただ、この幸せが、いつか他のものに変わっていきそうで。
 突然に崩れることも、壊れることもあるから。
 そういうこともひっくるめて、望んだ世界なんだから。
 震えだしてしまいそうなほどの、不安。
 今が楽しいから、知らない明日が来るのがおそろしかった。

 ボクは、静かに泣き続けた。

「うっ、うぅ……っ」
 嗚咽。
 止めようと、少しだけ思った。
 目が痛い。
 涙を止めたくないと、それ以上に思っていた。
「ここにいるのが辛いか?」
 祐一君が聞いてくる。泣いている顔を見ないでくれている。後ろからの、優しい声だった。
 ボクがここに行きたいと、そう言ったから来てくれただけなのに。
 気遣っている声。揺れている声。不意に、祐一君も泣きたいんじゃないかと思った。
 木から落ちた日のことを思い出しているの?
 それとも、二度目の別れのときを?
 ボクはまた、祐一君に心配をかけている。申し訳なくて。でも、まだ言葉が上手に作れそうにない。
 止めようとすればするほど、弾けそうになる。
 だから、強く泣く。涙は枯れなくても、尽きるまで泣いていたい。
 甘えても、抱きしめてくれるこのひとがいるうちに。
「泣きやむまで待ってやるから、我慢するなよ……」
 彼がささやく。慰める言葉は、今は欲しくなかった。
 涙に理由なんてない。全てが変わっていくことが怖いだけ。
 忘れられることは、なによりも辛い。胸の奥が、鈍く痛んでいる。
「おおっ!」
 祐一君がいきなり叫んだ。
 いきなりすぎて、その大声に身をすくませる。何が起きたのか分からない。
 戸惑っていると、祐一君が笑った。
「あゆ。後ろの切り株、見てみろ」
「……っ」
 ゆっくりと、斜め後ろに振り向く。
 驚いたせいで涙は途切れていた。少し落ち着く。息を吸う。
 あったのは、地面にぽつんと置き忘れたかのような、切り株。
 年輪を重ねていた、大きな……とても大きな木だった。
 懐かしい場所に、寂しく置き忘れられたもの。
 祐一君に背中を押されて、足下に気を付けながら、真っ直ぐに近づいていく。
 太い根っこの部分に転びそうになって、祐一君に支えられる。
 体勢を元に戻して、ゆっくりと覗き込んだ。
 そうしたら、自然と声が出た。まだ、かすれ気味の涙声だけど。
「芽が、出てる……っ」
 新しい命があった。
 ひび割れの隙間から、小さく顔を出している。
 あの大きな木が残したものだと、そう思った。違うかもしれないけれど、そうだと思いたい。
 変わっていくことで、生まれるものもある。
 新しい芽は、あの木よりもいつか、大きくなるのだろうか。

 胸の奥があたたかい。
 不安は、どこかに消えていた。

 彼が微笑んで、からかうように訊いてきた。
「どうだ?」
 黙っていると、切り株を見回す祐一君。さほど真剣に見ているようには感じられない。
「あれっ、さっきまで面白い虫がいたんだけどな……」
 切り株を指し示して、祐一君は悔しそうにしている。
 ボクは、口調だけは怒っているように訊いた。
「祐一君……ボクに虫を見せてどうする気だったのっ?」
「そう怒るなよ。あの虫を見て驚けば、涙も止まると思ったんだ」
 かるく笑ってから、静かに抱き寄せてくる。
 嘘。
 さっきの位置からだと、切り株の上に虫がいたって見えない。
 そのことを知らない祐一君は、笑ってとぼけている。
 あの木が切られたことで、悲しんでいると思ったんだろう。
 新しい緑が芽吹いていたことに気付いていて、元気づけようと教えてくれた。
 きっと、そういうことだ。
 祐一君の、いつも通りの優しさが嬉しい。
 涙も乾かないままに、ボクは、ただ心から笑顔を浮かべていた。


「ってどうしてボクの帽子を掴んでるのかな?」
「いやな、泣きやんだ記念にその帽子をもらってやろうと思って」
「ダメだよっ!」
「ケチ」
「ケチじゃないもんっ」
「仕方ない。あきらめてやるから感謝しろよ」

 ものすっごくえらそうに言って、祐一君は空を見上げた。
 青天からは、真っ白な陽光が降り注いでいる。

「しっかし、良く晴れてるなー」
「これなら洗濯物もちゃんと乾きそうだよ」
「洗濯したことあったか?」
「うぐぅ……いつも、ちゃんとやってるよっ!」

 いつものやり取り。楽しげに話しているボクたち。
 ありふれた、どうしようもないくらい大切な日常。

「さて、そろそろ帰るか。たい焼きも出来るころだしな」
「……うんっ」



 楽しい思い出が好きだった。
 けれど、流れていく日々こそが幸せなのだと知っていた。

 繰り返すけれど、決して同じではない今日。

 変わっていくことで、綴られる物語もある。
 変わらないことで、強くなった想いもある。
 移ろう季節のなかを、ボクはゆっくりと歩いていく。


 大好きなこの人と一緒に。
 いつか、思い出になる明日へと。


 Fin.




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