「はぁいダーリン、あーん(はぁと)」

 彼らがそれを聞いたのは、教室の中だった。
 びしり。何かに致命的な罅が入る音。凍り付く空気。絶望の色。
 彼らは初めて知った。
 こんなにも――絶望はまぶしいものだったなんて。

「ああ、……あーん」

 嫉妬という名のレンズによって収束する視線の光。
 めらめらと業火が生まれるのを、彼らは自覚していた。
 この神聖な学舎にこのような悪辣なるモノ共を野放しにしておけるか!
 そう、悪は粛正せねばならない。修羅だ。我らは修羅になるのだ!
 誰がそれを否定出来る。人目も憚らず白昼の教室でこのような不埒な!
 破廉恥な! 淫靡な! つーか羨ましいに決まってんだろこの色ボケ!

 彼らの目には一組のバカップル。
 男の名は那須宗一。
 別名ナスティボーイ。超一流、トップクラスのエージェント。
 女の名は湯浅皐月。
 宗一の恋人。愛ゆえに最強にもなる、世界の命運を握る女。(他称)

 そのふたりにはさまれて羨ましそうに見てるだけの女子。
 伏見ゆかりはほえーとしてぽわーとした顔でにこにこ笑っている。

 ああ、コノヤロウ。
 学校内の二大美少女独り占めしやがって。

 半分公然の秘密と化している宗一の職業? んなもの関係ない。
 どれほど凶悪な相手であろうと――

 大敵、誅すべし。


「サンキュ」
「どう、美味しい?」
「もちろん」
「まっ、とーぜんだけどね」
「皐月は料理の腕だけは超一流だしな」
「……だけとは何よだけとは」
「いや、もちろん……夜もだが」
「ばか」
「ははは」
「皐月ちゃん顔真っ赤……ところで夜ってー?」
「……そりゃもちろん」
「宗一ー……、ゆかりに言ったら殺スわよ」
「愛してるぜ皐月」
「おっけー。誤魔化されてあげるわ」

 皐月と宗一のらぶらぶな風景が展開されている。
 煮えたぎる怨念。敵を消さねばいつまでもこの光景はここにある。
 宗一のクラスメイトその一は腕を上げた。

 ――ミッションスタート。

「……ん?」
「あれ、どーかしたの?」
「いや、殺気が」
「まあ、狙われるのは宿命ってやつだから仕方ないわよ」
「大丈夫。皐月は俺が守るから」
「ばぁか」
「でも実際、正面から狙ってくるってのはあんまり無いはずなんだが」

 殺意が膨れあがっている。
 ひゅぅ、と音を立てて宗一の机に矢が突き立った。弓道部だ。

「なっ」

 声を挙げた瞬間、黒板消しが周囲に陣取っていたクラスメイトその二から。
 弾けとんだ白煙があたりを包み込む。鉛筆が飛ぶ! ボールペンが奔る!
 その他色々当たると痛いものが飛び交う! ぶちまけろ! もっとやれ!

「――なんのつもりだあっ」

 問い掛けに返るのは、涙の混じった悲哀の怒声。

「うるせえ!」
「見せつけやがって。俺たちは……俺たちはッ!」
「お前は学校中を敵に回したんだ」
「嫉妬のぱぅわぁー! 思い知れ!」
「あ、湯浅さんと伏見さんはこちらへどーぞ」
「はい、見学用の椅子です」
「……あ、ありがと」
「どうも、ありがとうございますぅー」
「いえいえ、みんなファンクラブの人間ですから」
「『ゆかりさん親衛隊』の会員三十九番です!」
「『皐月様を見守る会』同士五十七番であります!」
「あたしの、なんか……タマちゃんみたいねえ」

 和気藹々。殺気のこちら側とあちら側が明確に分かたれている。
 言うなれば、楽園のこっち側より愛を込めて。

「それで、なんで俺を攻撃してくる必要があるんだよ」

 なんとなく悟ったのだろう。苦笑している宗一は余裕を見せて問う。
 だが、逆効果だった。

「ヘイ、ナスティボーイ!」

 エージェントとしての宗一の名。
 正体はともかく、その名を知らぬ者はないと言われた最高のエージェント。
 強さ、知名度共に折り紙付きである。

「それがどうした!」
「無茶苦茶な小僧なんぞどうでもいい」
「俺たちは」
「俺たちはな……」

 声を揃えて、
 わなわなと拳を震わせて、
 嫉妬に狂った男達は叫ばずにはいられない。

「俺たちは、チェリーボーイなんだ!」


 しーん。


「襲ってきたのはともかく、ギャグで滑るのはいただけないぞ」
「だ、誰がギャグでこんな悲しい告白するかーっ!」
「そうだそうだ!」
「ぶっ殺してやる!」
「そうだそうだ!」
「お前は学校を敵に回したんだ! 全員敵だからな!」
「長瀬校長の協力も取り付けてあるんだからな!」
「泣いて謝ったってもう遅いんだぞ!」

 宗一は冷静にツッコミをいれた。
「……いや、お前らが泣いてどーする」

 無情である。
「ところで校長って?」
「ああ、長瀬氏は美術館の館長やら色々兼任しておられる我らの長老だ!」
「おかげでこの学校にはブルマも残ってるんだぞ!」
「スパッツも選べるし」
「制服は校長が自分でデザインしたらしいし」
「スカートの長さも最適値を探して何年もの放浪した実績も」
「まさしく男のロマンを分かってらっしゃる長瀬校長に敬礼!」
「敬礼!」
「敬礼!」
「ということで、俺たちは一丸となってお前を倒すと決めたんだ!」
「どうだ!」

「いや、どうだって言われても」

「あっ、いま見下しやがったな!」
「彼女持ちのやつは……くっそう……くっそうぅっ……」
「酒だー! 酒持ってこーい!」
「泣くな。俺たちは前を見て強大な敵に挑まねばならないんだから!」
「そう、こいつは世界の敵だ! 倒さねば世界中が混乱に陥れられる」
「倒せ!」
「倒せ!」
「そして我らが女神ゆかりさんを取り戻すんだあー!」
「女王様たる皐月様を取り戻すんだあー!」

「……ねえ、ゆかり」
「んー?」
「うちの学校って、おかしいよね」
「あはは……そーかも」

「う、うわーん! 女神様に見捨てられたぞー!」
「女王様に――いじめられるならそれはそれで」
「貴様あっ、それでも盟友かっ! 裏切るのかっ!」
「だって」
「言い訳は許さーん!」

 以下、面倒だろうから読み流してください――
 クラスメイトその3がモップでクラスメイトその5を叩く。死にさらせガキァー! その4が間に入ろうとしてアゴに直撃、撃沈する。オラ、舐めてんじゃねーぞゴルァ! モップを用いての華麗な技。回転に巻き込むかの如く力を捻りあげ、一閃、真っ直ぐに振り下ろされたところに腕があった。がん、と大きな音。その一瞬に裏に回り込み肘を出すと、箒が背中から降り注ぐ。誰かの踏み込みの足にまたモップを打ち付け、その4を踏みつけ裏拳。蹴り。殴り合い。崩拳。モップに弾かれ遠ざかり、また一歩近づきストレートを一発。絡められた箒の柄で、モップと組み合う。一転し右手を出す。ジャブを弾いてさらに一歩近づく。同じように打たれたパンチを紙一重で避けた。震脚。その1が後ろから忍び寄っていて不意打ちを当てる。倒れ込むその5。獣じみた叫びをあげながらその2がその3にタックルを仕掛ける。退かぬ! 媚びぬ! 省みぬ! 崩れたバランスにその1が引っかかった。恨めしい目つきが焼き付く。キョォホホホー! わっ、こら止めろ、止め――足音を立てて騒ぎの収まる様子の無い教室に踏み込む人員。すわ救援か、と振り返ると全て暴徒と化した別クラスの生徒達。殴り合い。乱闘。すなわちバトルロワイヤル。みなさん、これから殺し合いをしてもらいます。どこからかエアガンが撃ち込まれた。バン。何故か火薬の臭いまでする。狭い教室に数十名がひしめき合って、少しずつ数が減っていった。ひとり。またひとり、と。誰もが倒れるまで闘った。いつしか残ったのは、クラスメイトその2と他クラスその24。どちらもゆかりさん親衛隊の幹部だった。その2が最後の力を賭した、渾身の右ストレートを放つ。一歩。踏み込んだ床が軋み、悲鳴を上げた。ぐぎゅるッ、と風を切る音と共に刹那の時間で距離を詰める。その24もまた、全身全霊を込めた右ストレートを打っていた。踏み入れたその領域。一瞬が永遠にも感じられるほどに引き延ばされる。景色が、ひどく緩慢に見えた。風の動きすら、音が空間を走る姿すら、見える。なんという鮮やかな世界だろう。
 ――はい、ここから続きをどうぞ。
 美しい。
 世界は、

 コイツとオレで成り立っているんだ、という感覚――

 次の瞬間、同時に放った右ストレートが頬へと突き刺さった。
 どちらも同時。寸分の狂い無く凍り付いたように動かない。
 動けない。
 静寂が、世界を埋め尽くした――

 そして、力尽きたかのごとく、くずおれる。

 残ったのは、

 ――闘いをぼけーっと見物していた宗一たちだけ。

 なんだか分からないうちに終わった。

「……なんだったんだ?」
「さあ」
「看病してあげないと……」
「ゆかりは優しすぎ。でもね、これは自業自得でしょ?」
「そうかもしれないけどー」
「ほら、心配でも馬鹿は放置しておくほうが彼らのためになるの」
「そうなの?」
「ええ。もっちろん!」

 哀れなクラスメイトたちはしくしくと泣きながら床に突っ伏していた。

「ああ……もっと言葉で嬲って……」

 訂正。『皐月様を見守る会』のメンバーは喜んでいます。

「ところでさー」
「ん?」
「長瀬さんが校長なら、ほら、壁についてるこんな赤いボタンとか押すと」

 ぽちっとな。

「押すと、……どうなるのか、分かる、よな?」

 宗一、冷や汗たらり。

「え。ええっとぉ……」
「男のロマンといえば?」

 ゆかりも皐月も答えが分かったのか、声を揃えて元気に言った。

「自爆だっ!」



 どごおおおおおおおおん!!!!!!!






 ――今では、学校のあった場所には、小さな記念碑が建てられている。
 彫り込まれた文句は、見る者の首を傾げさせるのに十分な不可解さだった。
  『最強の愚か者たち、ここより世界を手にす』
 その後、何があったのか。それは誰も知らない。
 こんにち、彼らに祝福が与えられたかどうかは、定かではない。


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