「……で、どういうことなのか説明してもらいましょうか?」
「香里、ごめんっ」
 手を合わせて謝ってくる名雪。
 とうに授業も終わり、すぐに部活の始まる時間。
 名雪は下を向いているから表情が見えない。
「どうしても抜けられない部長同士の会合が」
「ないでしょ。そんなもの」
 言い訳をひとことでばっさりと切って、詰め寄る。
 一歩。同じ距離を逃げる名雪。
 やっと顔を上げる。笑みを浮かべていた。
 あたしがもう一歩近寄ると、少し考えてから口を開く。
「じゃあ、今日は陸上部だけ特別に休んじゃいけない日なんだよー」
「『じゃあ』とか言ってる時点で嘘でしょうが」
 むー、とうなりながら名雪がこちらを伺う。
 不満顔というよりは、拗ねているような顔だ。
「香里のけちー」
「それほどでもないわよ」
 切り返し。
 名雪が、他に誰もいない教室であたしに向かって言う。
「香里の吝嗇家ー」
「……よくそんな言葉知ってるわね」
 ちなみに、吝嗇家とはケチのことである。
 閑話休題。
 名雪が思い出すように語る。
「子供の頃に、祐一がどっかの辞書から引っ張り出して言ってたんだよ」
 沈黙するしかない。
 相沢君がどういう子供だったんだか、想像に難くない。
 あたしの考えていることなどお構い無しに、説得らしき口調が来る。
「んー。せっかくだから、ね」
「困るってば」
 言うと、名雪が鞄を持って逃げる用意を済ませていた。
 逃がしてたまるか、とあたしは道をふさぐ。
「香里の照れ屋さん」
「……あ、あのね名雪」
 言葉に詰まる。
 意識してしまうと、何も出来なくなってしまう。
 にこやかに言ってくる名雪。
「早くしないと祐一帰っちゃうよ?」
「百花屋に一緒に行く約束してたのは名雪でしょ!」
 動揺を隠すように叫ぶ。
 幸い、教室に誰もいないから気にする必要はない。
 予想外。想定外。どうしたものか。
 朝のあれだけで気付かれるとは思ってなかった。
 名雪は小さく、静かな声で言ってくる。
「親友の初恋くらいは応援してあげないとね」
「名雪……」
 あたしは戸惑いながら、親友の顔を見る。
「あなた、相沢君のこと」
「うん。好きだよ」
 即答された。
「でも、もういいんだ」
 そんな言葉。
 諦めたわけではなく、終わらせた人間の顔。
 いつもより笑っている顔は、いつもの親友の顔。
 たぶん、本当に恋を終わらせたのだろう。
「……どうして?」
「うーん、なんでだろうね」
 ちょっとだけ悩んだように考え込む。
「きっと、頑張って欲しいから、かな」
「頑張るって……」
「だって、スタートラインが違うもん」
「でも」
 困ったような顔。
 言うべきか、言わざるべきか。
 そんな顔で、名雪がぽつりと漏らした。
「本当はね……少し気付いてたんだ」
 あたしは黙ったまま耳を傾ける。
「香里が男の子に名前で呼ばせたのは、祐一が初めてだったし」
「……単なる気まぐれよ」
「うん。そうかもしれないけど」
 頷いて、微笑んだ名雪の顔。
 なんて言えばいいのか解らないから、言葉を待った。
「でもね」
 嬉しそうに言った。
「いまの香里、楽しそうなんだもん」
 名雪があたしの目を覗き込んだ。
「だーかーらー。やっと自分の恋に気付いた香里に、親友からのプレゼントだよー」
「どういう理論展開よ」
 呆れたような声で、あたしはつぶやく。
 笑いながら。
「じゃあ、なゆちゃんからのごほうびってことで」
「待ちなさい」
 がしっ、と名雪の頭を掴む。
「どうしてそうなるのよ」
「むー。香里はわがままさんだよ……」
 口をとがらせて文句を言い出す名雪。

 話していて気付いたのだけれど。
 名雪は優しい目で、ずっとこちらを見つめていた。  
 見つめ返すと、名雪の真剣な顔。
 後悔なんて微塵も見せない、走りきった人間の顔。

「頑張ってね、香里」
「……ありがと」

 名雪の声に、ほんの少し勇気が出た。
 だから、素直に礼を言った。

「ふぁいとっ、だよ!」
 優しい親友の声が、あたしの背中に届いた。


 校門に寄りかかっている相沢君に声を掛ける。
 かなり待たせてしまったらしい。
「さ、行くわよ相沢君」
「香里、名雪はどうしたんだ?」
「どうしても外せない用事があるから、って逃げたわ」
「そうか……」
 ふたり、黙り込む。
 相沢君が、先行して歩き出す。
「じゃ、行くか」
「ええ」
 短い会話。
 意識してしまうと、何でもない会話がこうも難しい。
 栞の好きなドラマを馬鹿にしていたのを、少し後悔する。
 どんな会話をすればいいのか。
 どういう立ち位置で歩けばいいのか。
 どうでもいいことが、気になって仕方がない。
 相沢君からすれば、なんでもないことのはずなのに。
 気のせいか、ふたりともぎこちない。
 こちらの顔を見ようともせず、早足で歩く相沢君。
 横顔が見えて、鼓動が高鳴る。
 他に大きな音も無いから、余計に気になってしまう。
 心臓の音が聞こえるんじゃないか、とか。
 あたしの顔、ものすごく赤くなっているんじゃないだろうか、とか。
 普段の自分とかけ離れたような行動、様子、表情。
 相沢君の顔を、気付いたら見てしまっている。
 困った。どうしよう。どうすればいいの。
 口に出すわけにもいかない混乱が、頭の中をぐるぐる巡る。
 熱病に浮かされるように、顔が熱い。
 考えれば考えるほど、何も出来なくなってしまう。
 頭が働かない。相沢君の動作がひとつひとつ気になる。

 気付かなければ良かったのか。
 恋が、こんなにも制御出来ないものだったなんて思いもしなかった。
 理解するには経験しかない。

 好きという感情は、こういうことなのだ。

 なら、絶対に損だ。
 好きだと意識した瞬間から、もう逃れられない。
 それを錯覚と呼ぶ人間もいるだろう。
 それでも本当に。
 どうしようもないくらい、鼓動が抑えられそうになくて。
 足を動かしていることも、自分の身体じゃないみたいで。
 理屈じゃない。
 知識として持っていたはずの、余計な理由が消えていく。

 好き。こんなにも好き。
 とめどもなく溢れそうになる感情。
 でも、それを言うだけの勇気なんて持ってはいない。
 怖い。とても怖い。
 なんとも思われてないかもしれない。
 それが、これほどにも怖い。
 怖いくらいに、相沢君のことが好き。
 不安。この距離が離れることが。
 だから、これ以上進めない。
 近づくことが、遠ざかることのように思えて。

 永遠にも似た時間。
 あたしのこころは、ひたすらに揺れ動いていた。

「あ、着いたな」
 相沢君の言葉で我に返る。
 学校から百花屋まで、ふたりともずっと黙ったままだった。
 立ち止まる。顔が熱い。
 何か喋らないといけないような気がして。
 焦る。声が出ない。息を吸い込んで、少しだけ落ち着く。
「え、ええ。入りましょうか」
「……そうだな」
 何を意識しているの。
 自然に振る舞いなさい。
 ガラスに映った自分の顔に、そう命じる。

 ふぅ、とため息。

 カランカラン、と。
 ドアを開けたら、小さな鈴の音が鳴った。
「いらっしゃいませー」
 店員の声。
 短いやり取り。すでに常連の感覚。
 操られるように、席に向かう相沢君の後ろを追う。
 窓際にふたり。
 向かい合って、座る。
「で、どうする」
「……あたしは、珈琲とチーズケーキを」
「じゃ、俺もそうするかな」
 軽く視線を彷徨わせて、店員を見つけると手で呼び寄せる。
 ことん、と水を置いてメニューを訊いてくる。
 相沢君が言った、珈琲とチーズケーキ、ふたつづつ。
 その言葉がなんとも、……照れてしまう。
 手慣れた動きで注文を書き留める店員。
「これでよろしいでしょうか」
「はい」
 相沢君が頷いて、ぺこりと頭を下げて店員が去る。
 興味深そうにあたしたちを見ていたように思ったのは、気のせいだろうか。
 意識しすぎているかもしれない。
 途端、恥ずかしくなって衝動的に逃げ出したくなる。
 何かしていないと、落ち着かない。
 仕方ないので、代わりに水を手に取る。
 渇いたのどを潤すと、やけに冷たく感じた。
「ふぅ」
 息を吐いて、少しだけ落ち着く。
「……香里、さっきから顔が赤いけど大丈夫か?」
「大丈夫よ」
 相沢君が、少し心配そうにこちらの顔を見つめている。
 ……顔を背けるわけにもいかず、また水を手に取る。
「なら、いいけどな」
 やはり相沢君も落ち着かない様子。
 ずっとこっちを見てるわけにもいかない、と思ったのか。
 窓の外を見て、沈んでいく夕陽に視線を向けた。
 通りに面した窓。差し込む光が、相沢君の横顔を照らしている。
 雰囲気に流されるように、相沢君に向かって口を開く。
「あ、あのっ」
「な、なんだ」
 こちらを見た相沢君。
 どもる。
 視線が絡み合う。
 声が出ない。
 唐突に、口が動かなくなってしまった。
 言いたいことは、ひとつだけ。
 好き、と。
 それだけ言えばいいのに。
 あたしらしくもない。
 なんて臆病。
 恋する乙女なんて柄じゃないのに。

 ……それでも、言葉を作れない。

「あ、え、えっと……その」
 見えないけれど。
 横を向いて、ガラスに自分の顔を映したなら。
 きっと、真っ赤。
 煙が吹き出しそうなくらい、赤くなっていることだろう。
 言えない。
 どうしても、言えない。
 たったひとこと。勇気を出して。
 勢いに任せて、口走ってしまえばいい。
 そう。
 あとのことなんて、考えちゃだめなんだから。
 考えたら動けなくなってしまう――

「お待たせしましたー」
 店員の声が、テーブルに響く。
 カチャカチャと、陶器の音。
 珈琲カップと食器が置かれ、軽くテーブルが揺れる。
 固まっていた表情と視線が、一気に外れた。
 慌てて目を逸らす。あたしの視線は下に向かう。
 唇を噛み締める。
 失敗した。何も言えなかった。
 それでも、安堵の息を吐き出した。
 このままの距離。
 いつまでも同じ距離。
 まだ、それは壊れてはいない。そのはずだ。
 店員が伝票を置いて、テーブルから離れる。
 ふたり、押し黙ったまま。
 耐えきれなくなる前に、あたしは言った。
「たっ……食べましょうか相沢君」
「そうだな」
 あたしと同じような、なんとも言いようのない表情。
 困ったように、見合わせて。
 乾いた笑い。
 知らず握りしめていた自分の手を、開く。
 汗で少し、不快だった。
 それでも珈琲カップの取っ手を持つ。
 相沢君が不思議そうに訊いてきた。
「香里、お前って砂糖入れないのか」
「……あ」
 忘れていた。
 動揺しすぎ。飲めないことはないが、砂糖はあったほうがいい。
 でも、今更入れるのも何かおかしい気がする。
 そのまま飲もう。
「ほれ、砂糖」
 飲もうとしたところに、差し出してきた。
「一応な。いらないんだったら別にいいけど」
「もらうわ」
 あくまで自然に。
 正確には、自然を装って。
 一度カップを置いて、砂糖を二杯。
 銀色のスプーンで軽く混ぜる。
「ありがと」
「どういたしまして」
 とりあえず。
 珈琲に口を付けて、それからチーズケーキを見る。

 ……よくよく考えてみれば。
 相沢君とふたりっきりで百花屋に来た覚えが無いことに気付いた。

 友人同士の他愛もないおしゃべり。
 名雪がいれば、それでお茶を濁すことが出来る。
 ケーキを小さく切りながら、口に運ぶ。
 でも、ふたりだけなんて状況、慣れていない。困る。焦る。
 会話の内容が、とてもじゃないが思いつかない。
 相沢君が唐突に言った。
「あ、そういや香里とふたりで来たことなかったな」
「ええ、そういえばそうね」
 同じことを考えていたらしい。やはり焦る。
 口だけはやっと回るようになってきた。
 でも、ぎこちない会話のまま。
 間が保たないから、必死に次の言葉を探す。
「名雪とは良く来るんだが……んー」
「何?」
 その続きは、何を言いたいのか。
 会話の先読みなんて出来ないから、珈琲をかき混ぜながら言葉を待つ。
「やっぱり、あいつは違うんだよな」
「だから、何が」
 会話をしながらも、ふたりで何かきっかけを探しているような。
 そんな空気。
 珈琲を飲む。少し苦い。
 相沢君は、すでに食べ終わっている。
 あたしもケーキの最後の一切れを口に入れた。
 かちゃん、と食器のぶつかる高い音。
「いや、なんでもない。ただ、ちょっと再確認しただけだな」
「そう」
 ひとりごとのように呟く相沢君。
 話している内容が、どういう意味なのか。
 何となくは解るけれど、何も言えそうにない。
 あたしは珈琲に口を付ける。
「あ……」

 もう、空だった。


 会計を済ませて、店を出る。
 ドアを抜けて立ち止まると、風が強く吹き付けた。
 少し涼しい。
 相沢君が、背後から声を掛けてくる。

「顔、こっちに向けてくれ」

 え。
 いや。あの。その。
 なんで。どうして。あう。これは。
 相当に間抜けな顔をしていたかもしれない。
 混乱している頭と無関係に、身体は勝手に動いていた。
 相沢君の手が、顔に伸びてくる。
 心臓が、高鳴る。

 手は、そのまま額へ。

 ……はい?

「大丈夫かな」
「……あ、相沢君……いきなり、何を」
 冷たい。
 額に置かれた手が、ひんやりとしている。
 混乱しっぱなしの頭は置き去りに、とりあえず口だけが動く。
「ずっと顔が赤くて、熱っぽいように見えたんで一応」
「あ、あのねえ」
 手の重さが消える。
 恥ずかしいったらっ! 心の中で叫ぶ。
 余計に真っ赤になっているような気がする。
 だけど。
 文句も言えやしない。
 心配してくれたんだから。
 激流のように胸を跳ね続け、突き破ろうとする鼓動。
 心臓は、高鳴ったまま。音が聞こえてきそうなくらい。
「体調悪かったんだったら、無理させたかな、と思ってさ」
「……別に。そんなことはないけど」
 あたしは、まともに顔も見られない。
 相沢君は小さく笑った。
「健康には気を付けろよ」
 これだけ言って。
 そのままあたしの家とは逆方向へと帰っていった。
「……うん」
 見えなくなってから、小さく頷く。
 なんとなく嬉しかった。
 けど、それ以上に寂しさが胸を凍らせた。
 帰り道はひとりっきり。宵闇が世界を包んでいた。

 ただそれだけの事実が、なんとも言えず苦しくて。
 あたしは早足で帰った。


 夜。
 栞が帰ってきた。
 検査入院の結果は、当然のように大丈夫。
 身体そのものが弱いから、病気に気を付けましょう。
 お医者様からは、そんないつも通りの言葉。
 通院も、そろそろ期間を開けても大丈夫かもしれない。

 と、そんな話題は五分で終わった。

 わざわざあたしの部屋に来た栞。
 ベッドの上に座り込んだあたしの隣りに、腰を下ろす。
 ふぅ、と一息。
 途端、栞が今日のことを訊いてくる。
 何があったかをしつこくしつこく。

 曰く、祐一さんといい雰囲気になってるはずだから、だそうだ。
 どういう思考回路を巡ってそうなったのやら。

 半分、そのしつこさにうんざりして。
 ――もとい、熱意に押されて。

 もう半分は、相沢君が好きという事実を脅迫材料にされて。
 ――もとい、応援してくれるという説得に応じて。

 今日あったことを多少削って話すと、栞に笑われた。
 どうやら、削除した部分を勝手に脚色を加えて考えたらしい。
 ひとさし指をあたしの顔の前に突きつけて、栞が叫ぶ。
「む。それで告白しないなんて詐欺ですっ!」
 栞が何故か思いっきり不満を漏らす。
 この手の恋愛話になると、人格が変わっているみたいに。
 テンションが異様に高い。
「あのねぇ……栞」
 浮かべるのは不適な笑み。
 ドラマのように、歌劇のように。
「そんな空気ならどちらからともなく……」
 あたしの顔を、見上げる栞。
「こう、下から覗き込むようにっ!」
「……で?」
「目をうるうるとさせて、くちびるを軽く突き出して」
「へぇ」
 あたしの呆れ顔に気付いているのかいないのか。
 栞は静かにあたしの目を見て、瞳を輝かせている。

 ……演技指導かい。

「そして、優しく抱き寄せられて目を閉じるんです」
 なにを想像しているのやら、顔を上気させている。
 顔を赤くしないで。お願いだから。
 栞が好きなドラマがどういうのかは、よく分かった。
 ただし、参考になるかどうかはまた別問題。

「と、こういう雰囲気を出すのが大事なんだけど」
 栞は、唐突に表情を切り替えた。

「はぁ……で、結局何を言いたいのよ」
「お姉ちゃんは積極的に向かっていかないとダメです」
 じっとあたしの目を見たまま、栞が目を細めた。
 本当に、人格変わってるんじゃないだろうか。
「それはそうなんだけど……」
 あたしは反論出来そうにない。
 確かに、それほど難しいことではないはずの行動だ。
 普段ならなんでもないような言葉ですら、今のあたしには難しい。
 そんなことしようものなら、途端、顔から火が出る。
 ふぅ、と息を吐きながら立ち上がる栞。
 あたしはなんとはなしに、座り込んだ。
「でも、本当に羨ましいな」
 栞がちょっとだけ、寂しげに言った。
 とても、まぶしいものを見るように。
「何がよ」
 あたしは聞き返した。
 小さく、栞が口を開く。
「秘密」
「栞、似てないわよ」
 疲れたようなあたしの言葉に、栞は満足げに笑みを返した。

「うん。……分かってる」

 そう言って、背中を向けて歩き出す。
 栞があたしの部屋を出ると、ドアの外から小さく声が聞こえた。
「そんなにドキドキできるなんて、ドラマだってそうそう無いんだから」
 閉まる寸前のドア。
 その隙間から、ささやくような声が届いた。 
「頑張ってね、お姉ちゃん」
 ぱたん、小さな音。
 栞が自分の部屋に帰ったら、静寂が押し寄せた。
 窓から外を覗くと、夜空には星も見えない。
 すでに時間は、深夜。
 悶々とした夜。軽く息を吐き出す。
 電気を消すと、ほとんど何も見えない。
 棘のように残る助言だけして、あっさりと去った栞。
 ああ、胸に突き刺さっているこの棘は、とても甘美。
 今はただ、痛いだけだというのに。

 苦しくて、愛おしい痛み。

 それでも、胸の奥で疼く。
 痛みのまま、先に進めることも出来ないから。
 顔を埋めるように、ベッドに倒れ込む。
 やわらかな枕を叩く。ぽすっ、と音がした。
 脱力して、うつぶせになる。
 密やかな息づかい、自らに返るその吐息の熱さ。
 静かな空気。なにもかも黙り込んだ世界。空白。空虚。
 満たされない。
 孤独。たとえようもないほどの不安。
 苦しい苦しいと、軋むかのような。
 確かにここにある痛み。
 どうしようもないほどの渇き。
 胸が、心が、耐えきれないと悲鳴を上げている。

 身体を丸め、ベッドの上でシーツにくるまる。
 目を閉じて、脳裏に浮かぶのはひとりだけ。
 まぶたの裏に描かれた映像は、ひどく鮮明だった。

 永遠に、このままでいられるなら。
 遠ざかることはなく、ただ距離は同じまま――

 眠気も無いくせに、無理に眠る努力をする。
 鉢植えに植えられた撫子の花。
 それだけが、あたしの姿を笑いもせずに見つめていた。

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