朝、千雨が早めに登校すると、座らずの席には謎の機械が鎮座ましましていた。
「……もう出来たのか」
 さよの机の上に置かれているのは、鈍く銀色に輝く物体であった。
 後ろの席から黒板が見えるように気遣ってか、あまり背が高くならないように設置されている。遠目にはノートパソコンの形状によく似ているのだが、違うのはノートパソコンであれば蓋に当たる位置にもモニターと思しきパネルが貼り付けられている点である。
 開くとタッチパネル風のキーボードが覗く。が、そこにあるのはキーボードだけではない。何やら用途の不明ないくつものセンサーのようなものが五種類ほど取り付けられており、それらしさ抜群の雰囲気を醸し出している。
「おはよう千雨サン。今日はずいぶんと早い登校ネ」
「おはよう。これか」
「ウム。我ながら良い出来ネ!」
 教室内にはクラスメイトの姿はまばらである。
「さよサン、もう近くにいるかナ。いるなら、まずこの場所を押して欲しいヨ」
 小声で呟くように声をかける。全く気配は感じられなかったが、超の指し示した場所がすぐに押されたらしかった。
 静かに機械が起動した。ほとんど待たずに使える状態になったようである。
 目を二度三度と瞬かせて、超が感嘆するような声を漏らした。
「……いるネ」
「ああ」
「じゃあ、やり方を説明するヨ。といってもチュートリアルは用意したから、まずはそれで遊んでみて欲しいナ。上手く使えるようになれば会話しているのと同じ速度で文章を作れるようになるヨ。あと、さよサンが幽霊であることは口外無用ネ。あくまで遠方で療養中の生徒という立場を崩さないで欲しいナ。これはさよサンにとっても、クラスメイトの皆にとっても必要な措置ネ。……少なくとも今は」
 説明の文面が画面上に出てきていた。使い方を確かめているのか、少しの間が空いて、
『りょうかいしました』
 と文字が出た。ブラインドタッチに慣れている千雨からすれば亀の速度ではあるのだが、それでも対話は対話である。
 ようやくまともに意思疎通が出来たことを喜んでいると、文面に変化があった。
『はせがわさん ちゃおさん ありがとうございます』
「どういたしまして。礼儀正しいクラスメイトで大変嬉しいヨ」
 超曰く、キーボードはタッチパネル風ではあるが、厳密には違うそうだ。理屈はいまいち分からないが、さよそのものではなく、さよの行動の痕跡を読み取ることで対処したらしい。つまりさよ自身がアクションを起こさない限り、この機械を以てしても認識はできないということだろう。一応カメラやらサーモグラフ、おそらく魔力感知にも対応している。
 細々とした説明はなかったが、超なりに試行錯誤したらしかった。
 千雨も返事しようとしたが、妙な視線を感じて振り返った。夕映だった。
「おはよう。どうした?」
「おはようございます。いえ。朝から超さんと千雨さんが何をしているのか気になっただけです。機械を前にするには珍しい組み合わせだと思いまして」
 確かにその通りである。
 面白機械を持ち出してくる場合、基本的に葉加瀬と超という組み合わせが大半だ。二人ともマッドサイエンティストを自称しているし、他の面子では話について行けないというのも理由なのだが。
 朝から超とつるんで動いている千雨というのは、ほとんど見られない光景ではある。
「超が面白いもんを組んでくれてな。ちょいと事情があって学校に出てこられなかった相坂ってヤツがいるんだが……ほら、昨日、朝倉が騒いでただろ?」
「ああ、エヴァンジェリンさんと何やら揉めてましたね」
「で、超の作ったこの機械を通して、相坂と話せるようにしたんだ。いまは機械のテスト中。これを使えば一緒に授業も受けられるみたいでな。相坂に色々試してもらってるところだ」
「テレビ電話、みたいなものでしょうか」
「そんな感じか。こっちの様子は向こうに見えてるし、聞こえてるらしいからな。向こうの様子が見えないのは諸事情による」
 なにしろさよはすぐそばにいるのだ。見回せばそのまま見えるし、こちらのやり取りが聞こえもする。嘘は言ってない。
 夕映は得心したように頷いた。
「初めまして、相坂さん。恥ずかしながら、今までこの席があなたのものだと知りませんでしたが……」
『は はじめまして』
「歓迎するです。これからよろしくです」
 表情がほとんど動いていない夕映であったが、
『ありがとうございますっ』
 小さい『っ』もすぐに使えるようになったようである。これなら会話には困らないだろう。
 夕映からの好きな本は、という問いかけに対して、最近の少女漫画の名前ばかり挙げるのはどうかと思われたが。どうやら文学少女ではなさそうだという夕映の残念そうな顔に反応したのか、さよは今度は昭和の最初期に出たようなタイトルを並べ出した。
 なんでも知ってそうな超すら首をかしげた、読書家でもあまり馴染みのない題名の本であった。
 が、夕映にとっては違ったらしい。顔をほころばせて、本の内容について触れた。さよの返答はお気に召すものだったらしい。そうこうしているうちにのどかも近寄ってきた。夕映の楽しげな雰囲気に釣られたようだった。
 画面上に残るさよの読書遍歴を指し示し、夕映の説明に目を輝かせるのどか。本読みにとって、読書好き仲間が増えるのは嬉しいことである。好みの本の傾向が同じならばなお良い。二人のお眼鏡に適ったらしかった。
 あっという間に得難い友情が生まれた瞬間だった。
 こうしてさよの友達が欲しいという望みは、微笑ましくもすぐさま叶えられたのだった。めでたしめでたし。


 ――とまあ、それで済まないのが麻帆良であり、A組の気質である。
「みんなで集まって、なにやってんの?」
 ハルナが好奇心に顔を輝かせて迫ってくると、後ろからぞろぞろと集まりだした。
 早朝はまばらだった教室では、ひとが増え始めるのと同時に、さよの席に凄い勢いで黒山のような人だかりが出来た。
「わ、超りんの新発明です!?」
「面白そう! ボクにも見せてよっ」
「って、そこ座らずの席じゃん。大丈夫?」
「え……!? お化け、お化けが来るですか!?」
「いやいやいや。大丈夫っしょ。ほら、そこの通信先の名前見てみなって」
「相坂さよ?」
「超さんこの機械って……へ? ふ、ふーん。なんだかよく分からないけどすごい技術なんだ、ってことは分かったわ」
「朝っぱらからなんやの? この混沌とした状況……」
「あー。昨日の柿崎と朝倉が喋ってたアレね。へえ、ずっと入院してるから顔を出せなかったと」
「申し訳ありません、さよさん。私ともあろう者が大事なクラスメイトの大変な現状を知ろうともしなかっただなんて……! 今日の放課後にでもお見舞いに伺わせていただきますわ! あ、あら、そうなんですの。ではせめてお見舞いの品をお送り……え、いえ。そこまで仰るなら……お友達、お友達に!? もちろん当然ですわ! これからよろしくお願いいたしますね、さよさん」
 上へ下への大騒ぎである。
 あんまりにも騒がしかったからか、廊下を歩いていたのだろう、新田先生が突然怒鳴り込んできた。
「コラーッ! いくらホームルーム前とはいえ騒がしすぎる! 静かにせんかッ!!」
「申し訳ございません、新田先生」
「む、雪広もいてこれか……。A組はいつも騒ぐが、今日のこの騒がしさはいったいどうしたんだ。何かあったのか?」
「それが」
 説明しようとしたあやかを手で制して、超が前に出た。
「……新田先生。私から説明させてもらうネ」
「超か。分かった、言ってみなさい」


 超の説明は完璧だった。新田先生に伝えているように見せかけて、周囲全員に聞かせるものだった。
 さよが長らく登校出来ない事情があること。そして、友達がいなくて寂しいと泣いていること。
 調べてみて、それを知った朝倉和美が、どうにかできないかと超に相談したこと。
 当人は今のところ決まった場所から動くことが出来ないため、せめてこちらの様子を見聞き出来るようにと頑張って専用の機械を作ったこと。さらに、その機械を通してさよの言葉をこのモニタに映し出すことが出来ること。
 こうすることで授業を受けることもできる。A組の皆と交流することもできる。だからこの機械を置くことを見逃してもらえないか、と。
 微妙にあれこれ誤魔化して話から嘘の総量を減らしてあるのは、さすがは超の手腕である。相手が誤解しやすい言葉をあえて選んで、あれこれ話の展開を先回りして布石を置いて、クラスのほぼ全員に病弱で寂しがり屋、でも一緒に授業を受けたい可愛らしい女の子というイメージを植え付けた。
 突っ込まれる危険性を知りつつも超が嘘を減らしたのは、さよの抱く罪悪感を少しでも軽くするためであろう。
 クラスメイトと仲良くなりたいとはいっても、幽霊であるという部分を伏せておくのは、さよとしてはあまり気楽に出来ることではない。その辺の心情を汲み取って、事情だとか療養中であるといった言葉の中に、誤魔化さなければならない話の部分を全部ひっくるめてしまった。
「なるほど。相坂の名前は確かに名簿に載っている。超、この機械に話しかければ病院にいる相坂に伝わるのか?」
「あっちが機械の前にいなければ無理だが、今はいるはずヨ。このやり取りも見えていたはずネ」
「相坂。超の言うように、クラスメイトと一緒に授業を受けたいんだな?」
 新田先生は、静かに問いかけた。
『はい! わたし、みなさんといっしょにじゅぎょうをうけたいです!』
 さよの言葉を待つように、クラス中が静まりかえっていた。
『こんなからだなので、みなさんとあそびにはいけませんが、おしゃべりして、わらいあって、そんなおともだちになりたいです!』
「よーし! ボクさよすけの友達になるよー! なっちゃうよー! 友達いっちばーん!」
「あ、ずるいです! 私もお友達になるです!」
 すでに一番の座は他に取られているのだが、そこは黙っておくのが華であろう。
 静寂に満ちていたクラスの中が妙な熱気に包まれていた。
「良い子やなぁ」
「離れてても友達にはなれるしね! じゃんじゃん作ればいいのよ!」
 次から次へと友達になろうと手を挙げる面々。ついに騒がしさが限度を超えた瞬間、教師が爆発した。
「だから静かにせんかッ!!」
 振り返り、騒がしくなった生徒達に向けて、新田先生がまた怒声を発したのである。教室はしんとした沈黙に支配された。
 さよとの会話を中断されて不満げな生徒達を一瞥すると、機械、つまりはさよの方へと向き直り、新田先生はゆっくりと話しかけた。
 今の怒声とは異なり、穏やかな声だった。
「相坂の気持ちは分かった。安心しなさい。ワシの方から、ちゃんと授業を受けられるように話は通しておこう」
 当たり前のように口にして、もう一度クラスの全員に静かにするようにと告げて、新田先生は去っていった。時計を見れば、まだホームルームまで多少時間がある。今のうちに職員室に戻って他の教師陣を説得するつもりなのだろう。表情こそ動いていなかったが、万難を排してさよが授業を受けられるように環境を整えてくれるつもりのようだった。
 怒ると怖いが、生徒想いの非常に良い先生なのである。
 新田先生は真面目な生徒と卒業生からは根強い人気がある、麻帆良の名物教師なのだった。


 新田先生以外の教師が担当の授業においても、さよは普通に受け入れられた。
 やはり超の技術力には妙な説得力があったようだ。窓際最前列の机の上に謎の機械がありながら、誰も彼も当然といった風に受け止めていた。
 理由はもうひとつある。自分の持つクラス名簿に相坂さよという名前がありながら、まったく意識していなかったという負い目があるためか、どの教師もさよに対しては優しかった。こればかりは意識できなかったのだろう、と思われるのだが、自分の落ち度であると教師陣は認識したらしい。まっとうな職業倫理を持っている教師であればこういう反応になるのは当然ではあった。
 さよが若干申し訳なさそうにしているのが打ち込まれた文章から伝わってきた。
 同情二割、好奇心四割、あとの四割は各自それぞれといったところか。
 基本的に気の良いクラスメイトばかりなので、わざと無視されるという可能性は皆無だろう。気づかないことはあるかもしれないが。
 千雨はちらりとエヴァを覗き見る。どこか遠くに視線をやっていた。
 もう一方、和美へと顔を向けた。こちらは難しい顔をしていた。
 そういえば、先ほどの騒ぎにも関わらなかった。どうしたのだろう。千雨が怪訝そうにしていると、和美が視線に気がついた。
 小さく目を逸らされた。
 授業は恙無く進む。しかし、和美の表情はあきらかに精彩を欠いていた。
 何か、あったらしい。


 さよはクラスの連中に捕まって身動きが取れないでいる。
 物理的に捕まえる手段が無いため、逃げようと思えばいくらでも逃げられるのだが、性格のせいか、あるいはこれまでの環境がそうさせてくれない。
 そんなわけで昼休みのあいだずっと誰かしらが機械に向かって話しかけていて、さよもそれに返事をし続けていた。楽しそうで何よりである。
 今のところ、釘宮円と柿崎美砂、ついでに椎名桜子の三名がおしゃべりに興じている。三人がすっかり会話に夢中になっていて、お昼ご飯を食べ損なうのが目に見えていた。
 タイムリミットが近づいているが、さよの場合、昼食が必要のないため三人がこれから向かう末路については気がついていない。
 教えてやるべきか。千雨が声を掛けようと立ち上がると、桜子がふと教室を見回した。目が会った。はっと気づいた。
「あ、お昼食べなきゃ!」
「話の途中だけど、ごめんねさよちゃん、ちょっと購買行ってくるよ!」
「間に合うかなー」
「近道する?」
「急がば回れだよ」
 桜子の言葉に、近道ルートは無しと即断したようだった。
 ドタバタと足音も高らかに、廊下を駆け出した。桜子がいるから途中で教師に見つかって叱責されることはなさそうだ。
 千雨はすでに買っておいたパンをかじりつつ、さよの席の前に座った。
「よっ」
『はせがわさん、こんにちは』
「ああ。機械越しだけど、気分はどうだ?」
『うれしいです』
「なら良かった。朝倉のヤツは来たか?」
『それが、ぜんぜんちかくにきてくれません。なんだかさけられているみたいで……』
「……ふうん」
 嫌な感じである。
『あさくらさんにも、おれい、いいたいです』
「そりゃ良い心がけだ」
『えう゛ぁんじぇりんさんとも、おともだちになりたいです』
「あー。まあ、頑張れ。ちょいと難しいが、不可能じゃないぜ。ただ、すぐは無理だな」
『? どうしてですか?』
「昨日の今日だからな。撤回しづらいだろ、あれ」
『なるほど!』
 乗せやすい性格であることは間違いなかった。
 その後の午後の授業も和気藹々としたものだった。
 新田先生の説得が思いの外上手くいったのだろう。
 高畑先生のみ、若干唖然としていたが、それでも表情をすぐに取り繕ったのは流石だった。
「事情は新田先生から聞いたよ。まいったなぁ、超君に頼めば良かったのか。……僕はそこまで気が回らなかった。すまなかったね、さよ君」
「気にすることは無いヨ。私も言われるまで気づかなかた。だからこれは、主に朝倉の手柄ネ」
 もっと生徒の事情を慮るべきだったと、少し肩を落として、高畑先生は真面目な顔で言った。
 さよが幽霊であることは知っているのかいないのか。何にせよ、排除しようという雰囲気ではないのが僥倖だった。
「そのようだね。僕からもお礼を言うよ。……和美君、ありがとう」
「いえ、たまたまです」
 普段ならまほら新聞の宣伝をするなり、何かしらのアピールをする和美だが、そんな気分ではないようである。
 毒気を抜かれたような表情で、高畑先生は授業を再開した。
「じゃあ、さよ君。この文章の和訳をお願いしてもいいかな」
『は、はいっ。がんばりますっ』


 完全に避けるのは気が引けたのか、和美がついにさよの席の前にやってきた。
「さよちゃん、お待たせ」
『あさくらさん、わたし、なにかしてしまったんでしょうか』
「そういうわけじゃないんだ。ちょっと、こっちに問題がね……」
 話しながら気分を切り替えるように、自分の顔をぱしんと両手で叩く。
「よし! で、どうだった?」
『はいっ。みなさんいいひとばかりで。ともだちになってくれるって!』
「ま、うちのクラスだしね。さよちゃんと気が合う子はけっこういるでしょ。エヴァちゃんは来た?」
『きてくれません。でも、だいじょうぶです』
「そっか」
 現状、さよは、エヴァとだけは機械越しではなく、そのまま対話出来るのだ。この席を離れて会いに行くのも容易い。
『あさくらさん。ありがとうございました』
「いいよ。友達だしさ」
『でも、あのときはまだともだちではありませんでした』
「友達になりたいって気持ちだけで充分じゃない?」
 少し、その言葉を心に収めるような間があった。
 次に表示されたのは、単なる文章でしかないのに、さよの喜色満面の笑みが伝わってくるような返事だった。
『はいっ』
「じゃ、今日はちょっと用があるから……あ、超りん!」
「朝倉さん、どしたネ。あ、肉まん食べるカナ?」
 手には湯気が出ている熱々の肉まん。超の背後には、美味しそうないくつもの肉まんを擁した五月が控えている。
「もらうよ。はい、料金」
「はい、ちょうどいただいたヨ。それで用件は?」
「さよちゃんのこれ、メールとかの機能付けられない?」
「ふむ」
 考え込んでしまった超に、和美はさらに続けた。
「チャット風のことが出来るとなお良いんだけど」
『ちゃっとですか?』
「そっちの方向性はアリだネ。まずは漢字を出しやすくするみたいなユーザーインターフェースを弄ろうと思てたが、今時の娘ならそれは確かに重要だヨ。ウム、連絡を取りやすくするという点でも優先的に付けるべきカナ」
「つーか、漢字出せたのかよ」
「下の方に切り替え用のパネルがあったはずネ」
『……あ、本当でした!』
「ひらがなばっかり使ってる時点で教えてやれよ」
「イヤ、あえての演出かと思たヨ」
「相坂の性格を考えろよ。お前じゃあるまいし、そんな演出わざわざしねぇよ」
「どういう意味カナ?」
「キャラ付けやりすぎ」
「……なんのことだか分からないアル」
「おい、古になってるぞ」
「アイヤー、間違えてしまたアルー」
「うぜぇ」
 AHAHAHAHA、と二人揃って外国人風の笑い方をして締めた。
「ヘンに仲良いね」
『うらやましいです』
「……さてと、帰るか」
「今言っていた機能については考えておくヨ。今日は少々用事があるが、なるべく早いうちに取り付ける予定ネ」
 和美の呆れた視線が切なかった。見えないが、おそらくはさよも似たような表情を浮かべていたかも知れない。
「相坂。じゃあ、またな」
「またね、さよちゃん」
「また明日ネ」
『……はいっ。みなさん、またあした!』


 随分と歩いた。学校周辺を過ぎて、さよの行動出来る範囲からさらに遠ざかって、寂れた様子の喫茶店に入る。
 メニューから適当に頼んで、ウェイトレスが去るのを待って話を始めた。
「で、こんなところまで連れてきたってことは、相坂に聞かれたくない話か」
「うん。胸にしまっておこうと思ったんだけどさ、そうもいかないかなって」
 和美が真顔に戻った。
 さよの席の近くでは表情を明るくしてはみたが、思い悩んでいる内容がそれなりに重いのだろう。
「エヴァじゃなくて私を選んだ理由は?」
「その前に。このあいだはエヴァちゃんの前だったし、さよちゃんもいたから直接聞けなかったけど……エヴァちゃんがあの対応をしたのは――さよちゃんと親しくすると、さよちゃんに何かしら不利益なことがある、ってことでいいの?」
「だいたい予想はついてたんだろ?」
「いや、だって私なりの予想でしかないし。そこんとこハッキリさせとかないと線引きが難しいんだ」
「詳しいことは言えねぇぞ」
「分かってる」
 和美は、日頃見せるものよりずっと真摯な表情で頷いた。おそらくはさよに関連する何かを調べて、厄介な情報でも見つけてしまったのだろう。
 昨日の今日でこれである。こうして千雨を相談相手に選んだということは、それの判断なり対処なりに困っているといったところか。
 大事な部分は全部ぼかして、エヴァがいま置かれている立場についてのみ簡単に説明した。過去の所業が祟って恐れられている点を。
「エヴァちゃんが悪だから、それに与すると悪と見なされるってこと?」
「極論だけどな。私は監視とかされてないっぽいし、普通の友達づきあいなら大丈夫じゃねぇか? 高畑先生とも古い知り合いらしいしな」
「ってことは、組織内の派閥対立みたいな感じかぁ。うわ、面倒なコトになってんね」
 千雨はエヴァから警備員みたいな真似もしていると聞いた。
 関係者として組み込まれているとすれば、派閥という理解はそう間違っていないのだろう。
 余所からの出向だから、遠巻きにされて他の関係者と親しくなることもなく、ただそのままの関係が続いていると。過去の来歴によって良く思われていないから、近寄ってくるものもいないし、危険視もされている。
「派閥に取り込もうとしてるって思われたら、さよちゃんが面倒ごとに巻き込まれるってワケね。そりゃエヴァちゃんのやり方しか無いわ」
 特に、さよの特性を理解してしまった場合、その危険性は跳ね上がっている。
 魔法使いにも、科学によってでも、決して容易くは発見できないおそろしいステルス能力である。学校周辺のみという制限はあるが、そこでの会話がすべて筒抜けになるかもしれないのだ。悪用しようとすれば、こんなに便利な能力はそうない。何の痕跡も残らないで透視盗聴がやり放題と言い換えても良い。
 たとえば今だって、学校周辺という縛りさえなければ、この会話を聞かれているかも知れない。
 その心配があるからこそ、あえてここまで遠ざかってからこんな話をしている。
 内緒話がいっさい意味を成さなくなるのだ。いま伝えるべきでない言葉、状況を、いつの間にかさよに知られているかもしれない。
「……参ったね」
「なんだ。朝倉、何を知った?」
「さよちゃんの死因。朝にさ、伝手使って資料請求しておいたのが届いたのよ。で、登校前に大急ぎで過去の記事さらったら……」
 ため息一つ。
「私がどう思うかは気にしなくて良い。言ってくれ」
「さよちゃんが亡くなったのは、他殺が原因だった」
 自然と視線が厳しくなる。和美は千雨の表情が不機嫌そうにしかめられたのを見届けて、静かに続けた。
「殺人事件か」
「うん。ただ、ヘンなんだよね」
「というと?」
「六十年近く前ってのは聞いてたし、だいたいの内容がデータベース化されてるから、夜通しネットでも調べてみたのよ。でも、それっぽい記事は一切見当たらなかった。まるで誰かが隠してしまったかのように。何よりヘンなのは、さよちゃんの死亡記事自体そのものはあったけど、そこには死因が書いてなかった。まるで事故死みたいな扱いにされてた」
「調べた内容には、先があるんだろ?」
「分かる?」
「あんまり言いたくない話だろうが、続けてくれ」
「うん。資料は持ってきたから、報道部の部室の古い記録とも付き合わせてみたんだ。そしたら、だいたい六十年前には、ひとつの事件があった」
「相坂が殺された事件か」
「たぶんそう。ただ、事件の内容がね」
 微妙に違うと言いたげである。胡散臭そうに口を尖らせて、和美は心底嫌そうに告げた。
「麻帆良の中で起きたのは……密室連続殺人事件。後にも先にも、麻帆良で殺人事件があったのはこの事件だけ。被害者の数は分からないけど、連続ってついてる以上、さよちゃんを含めて最低でも二人が亡くなってる。記録の内容からすると、最大で六人くらいが被害者になってるかもしれない」
「……なるほど」
「問題は、この犯人が捕まったって記録がないこと」
 和美は沸き上がる恐怖を隠さなかった。目に、確かな怯えを交えながら、それでも話を続けた。
 犯人は野放しになっているかもしれない。麻帆良にはそうしたことを許す闇が存在するのかもしれない。和美の知りえた情報からすれば、そう考えるのが自然である。
 自分で見定めたエヴァのような相手ではない。どんな秘密があるのかさえきちんと理解していないのだ。
 ネット上に置かれた情報を操作できる組織力があり、しかもその関係者は公然と活動しているわけではない。
 実体はともかく、話だけ聞けば悪の秘密組織にしか聞こえない。もう少し現実的なところではマフィアの隠れ蓑である。
 さらには年齢に見合わぬエヴァの恐ろしさを目の前にしてしまった以上、和美にとってはもはや冗談で済ませられる状況ではない。
 で、さよという幽霊の存在である。実在を疑ってはいない。自分の常識はどこにすっ飛んでいったのかと悩まない方がおかしい。
 昨日は案外表面上は平静に見えたのだが、その実パニックに陥ってたと考えるのが正しい。
 だからこそ、こうした情報を必死に集めてしまったのかも知れない。的確な情報ばかりがある。これは適当に集めて探し出せる量ではない。
 知るべきではないことを、知ってしまった。
 和美は、今まさにそれを実感している最中だった。
「さよちゃんを含めた被害者の方は……ネット上の記事みたいに、事故死や病死に差し替えられてる可能性が高いね。それでさ、千雨ちゃん」
「ああ」
「私、これからどうすればいいんだろう」
 エヴァに啖呵を切れたのは恐怖心が麻痺していたからだ。別の方向に気持ちを傾注して、恐怖を誤魔化していたからだ。
 和美の手が、震えていた。


 以前の経験もあって気持ちは分かる。分かるが、千雨は心底どうでも良さそうに告げた。
「ま、あんまり心配すんな」
「なんで!?」
 声を荒げた和美は、近くに座っていた別の客からの視線を受けて、顔を赤くして目を伏せた。
「エヴァが怖がらせすぎたな。……どちらかっていうと、正義の味方らしいぜ。ここの連中」
「へ?」
 間の抜けた声を挙げた。
「なんつーか……うーん。良い表現が思いつかねぇな。……ああ、アニメでよくある魔法少女モノだ。活動の方針はそれとそっくりだ」
「ど、どういう意味?」
「正体を隠して、世のため人のために動いてます、みたいな感じだ。危ないものが出て来たら退治して、爆弾みたいに危険なものを見つけたら解体して、でもそれを一般人に見られると普通の生活が送れなくなる。だから秘密にしててね、ってノリだな」
「そんなノリなの?」
「そんなもんだよ。エヴァはあれだ、一期で出て来た敵の女幹部が、二期で仲間になってる的な」
「ああ! ……本人は別に敵対する気はないけど、態度が態度なんで、まわりから信用されてないってことね!」
「そうそう。で、弟子的な立場の二期主人公のピンチに出て来て敵を一掃する、みたいな」
「ほう、私はそういう扱いか」
「いやー。よく分かったよ千雨ちゃん! じゃあ、ここの支払いはしておくから後は頼んでも良い?」
「ははは。一人だけ逃がすわけねーだろ」
「逃がさんぞ貴様ら」
「つーか……なんでいるんだよ!?」
 エヴァが、なぜか目の前にいた。
「あのな、貴様らがあとから来たんだ。いいか、私はあっちの奥の席にいた。騒がしい客がいるから顔を覗いたら、バカ二人だっただけだ」
 話の内容的にはさほど問題は無かったと思われるが、馬鹿な話だったことは事実である。さっと言い返せなかった。
「さておき、面白い話をしていたな。私にも聞かせてみろ」
 二人がいたのは四人がけのテーブルである。
 エヴァがウェイトレスに声をかけて、先ほどまで飲んでいた珈琲を千雨たちのテーブルに持ってこさせた。


「なるほどな。死因が掴めなかった原因はそれか」
「……理由は分かるか?」
「紙媒体は直接弄るしかない。改ざんしたくても、どうしても抜けが出るんだ。茶々丸に調べさせたときにはそこまで行き着かなかった」
「やっぱり改ざんなんだ」
「仕方あるまい。世に出るべきではない情報もあるからな。しかし、相坂さよの死因がそれだとすると……」
 エヴァは黙り込んだ。
「そもそもさ、密室連続殺人事件ってどういうこと?」
「名前の通りだろう。密室で連続殺人事件が起きたのか、あるいは連続で密室殺人事件が起きたのか、そこは分からん。分からんが、手段の方には想像が付く。記録が隠されていたことからも、当時の捜査班もそこに真相を見いだしたのだろうな」
 密室殺人。
 ミステリでは定番なこのネタも、実際に犯行に及ぼうとするとひとつの大きな問題が起こる。
 本当の意味での密室というのはそう容易くは作り得ないし、それが出来る犯人に全く見当も付かないということは、まずない。
 最大の問題は、そうした密室を作り上げることによって、犯人に相応の利益がなければならないのである。
 殺したいだけなら密室である必然性は皆無である。通り魔的に狙った方がよほど成功率は高い。
 犯行後に捕まりたくないのであれば、まず犯行そのものがバレないようにすべきである。完全犯罪とは逆方向に位置するものだ。
 密室殺人という形式を取ることによって得られる利益は、たいていの場合、他のアプローチによるそれよりずっと低い。
 すなわち、娯楽のための小説でもなければ、密室殺人なんてものはまず偶発的にしか起こりえない事象である。
 犯行後、犯人が出て行ったところたまたま何らかの要因が働いて鍵が閉まっただとか、地震によってドアが壊れて出入りが出来なくなっただとか。
 それでもなお、この地で、密室殺人なる愚行が過去にあったとするならば。
 普通の人間には不可能な手段を持って、それを為した場合でしかありえない。
 千雨は知っていた。エヴァは知り尽くしていた。それに関わりを持つものならば、すぐさま思い至る手段があった。
 すなわち『魔法』。
 杖一本と、短い呪文ひとつで、ひとを殺せる力である。
 和美は口を開かなかった。エヴァと千雨が言わなかった以上、それは知るべきではないことだと気づいたから。
「捕まったって記録がないけど、この犯人は?」
「ふん、野放しにはなってないはずだ。そこは安心しろ」
 警察機関によって捕縛されていないのであれば、然るべき組織が対処したのだろう。
 秘匿を破り秘密を漏らせばオコジョの刑。ならば、魔法を悪用して人を死に至らしめたなら?
「とはいえ、麻帆良に所属している人間がこれを為したとは思いがたいな。……外から入り込んできた何者かの仕業か。だが、それにしては奇妙か」
「儀式とか?」
「……朝倉和美。いま、何と言った?」
「いやほら、アレな宗教とかであるでしょ。生贄みたいな。……これって、そういう話なんじゃないの?」
「ありえない話ではないか。……まあ、犯人はすでにこの世にはいないだろうから、真相は闇の中だが」
 想定していたよりずっと物騒な話になってきた。
「……今の話は他言無用だ。特に相坂さよにはな」
「へ? どして?」
「私としてはな、あいつの性格からして、もう少し穏やかな死因だと思ってたんだよ。あれはどう見ても気弱でドジな田舎娘だぞ。病死でも事故死でも、それなりに言い様はある。多少の未練が残っていても、それほど大事になることはないと踏んでたんだ」
 実物を見たわけではないので、そう力説されても困るのだ。
「だが、実際はこれだ。恨み辛みで殺されたわけではないだろう。なら、あいつは完全な被害者だ。自分の死因すら覚えていないような有様だしな。そんなやつが今になって、自分が密室連続殺人事件の被害者でしたと教えられてみろ。事情が事情だけに、恨みに染まっていきなり悪霊化しかねん」
 突然、理不尽な目に遭うこと。それをありのまま受け入れられる人間がどれだけいるだろう。
 もはや取り返しがつかないことであれば、なおさらだ。
 エヴァの言葉を吟味していたらしく、和美は少し息を吐いて、しっかり頷いた。
「まあ、そうだね。友人が欲しいって望みは叶ったみたいだし、こっちは言わない方がいいか」
「それも未練のうちだったようだな。死後の孤独というか、寂しさから来るものだと思っていたが……超鈴音を頼るというのは上手い手だった。機械越しではあるが、対話ひとつであれだけ変わるとは予想外だったしな。相坂さよが土地に縛られている気配が薄れたのはこの目で見たし。これで行動範囲は多少なりとも広がったか?」
「へ?」
「む?」
「何の話?」
「いや、貴様らが用意したあの機械の前で、相坂さよが清冽な光に包まれたのを……ああそうか。見えないんだったな」
「ちょっと待って。行動範囲、広がってるの?」
 すごく嫌な予感がした。さっと振り返るが、何も見当たらない。よくよく考えてみれば、千雨や和美ではさよの姿は発見できない。
 二人の様子から、何を心配しているのかにようやく気がついて、エヴァが焦った顔を見せた。
「なあ、エヴァ。まさかとは思うが」
「今、目が合った。賢しい真似を」
 視線の方向には柱があった。それほど太くはない、だが一人が身を潜めるには充分である。
 あの柱の陰に隠れられてしまえば、こっそり様子を窺うさよを見つけるのは至難の業だった。
 舌打ちして、エヴァは立ち上がった。気づかれたことを理解して、さよが背を向けて逃げだそうとしているようだった。
「さっきの話、聞かれてたのか!?」
「分からん! とりあえず追いかけるぞ!」
「悪い朝倉、会計頼んだ!」
 咄嗟に千雨も続いた。和美の声を背中に聞きながら、先行するエヴァを追いかけた。
「しょうがないね。後でちょうだい……って、エヴァちゃん何頼んでんの!? ええええー!?」
 聞かなかったことにして、先を急いだ。



 幸い、というべきか。
 エヴァの足はさほど速くなかったが、さよは数十メートル先で転んだらしかった。
 呆れた目をして近づいていったエヴァは、さよの腕を掴んで逃げられないようにした。
「……あれ? 掴めたのか?」
 千雨の目からは、見えない誰かの手を握るパントマイムにしか見えなかった。
「超に倣って少々小細工をしてみた。あまり長くは保たんが……」
 さよが何か告げたらしい。
「とりあえず黙れ。文句があるならあとで聞いてやる」
 エヴァの声が思いの外冷たかったために、即座に黙ったようである。
 そのうちに支払いを終えた和美が店から出て来て、こちらへと駆け寄ってきた。
「あ、捕まえたんだ。これで一安心、でいいの?」
「手を離してもいいんだが、そうするとすぐ逃げそうでな。……なんだ、相坂さよ」
 しばらく無言でさよの声を聞いていたエヴァは、面倒そうに手を離した。
 鼻で笑いはしたものの、それでも鷹揚に頷いて、千雨たちに振り返った。
「いいだろう。……二人とも、教室へ行くぞ」


「相坂さよが貴様らに言いたいことがあるそうだ」
 少し離れた位置の机に腰掛けて、エヴァはどうでも良さそうにさよの机を眺めている。
 間が空いて、朝からと同じように機械が起動した。
『朝倉さん。長谷川さん。さっきは盗み聞きして、すみませんでした』
「まあ、さよちゃんに内緒の話のつもりだったけど……隠れて聞いてた理由を教えてくれる?」
『その……朝倉さんが、元気がなかったので、私に何か力になれることがあればって』
 千雨と和美は顔を見合わせた。
 本人としては隠れているつもりはなかったそうである。
 わざわざ隠れなくても、見えないし、聞こえない。存在を気づかれないのだから、いっそ堂々と側に寄り添っていたのかもしれない。
 そこにエヴァが現れたので、はっとして、慌てて柱の陰に隠れてしまったと。
『教室から出て行くとき、朝倉さんの顔がすごく強ばっていたので……』
「だってよ」
「あはは……心配してくれてありがと」
 気遣ってくれたゆえの行動と理解できた。理解できてしまったので、怒るに怒れない。
「行動範囲が広がってるってエヴァは言ってたが、自覚はあるのか?」
『ええとー、はい、あります。なんか、縛られてる感じがなくなってます!』
「そりゃ良かった」
「で、それだけじゃ無いんでしょ?」
『はい。私、思い出したんです!』
「何を?」
 和美が問いかけた。
 だが、視線はエヴァに向いていた。見えないのに、それが千雨には、もしかしたら和美にも、分かっていた。
 エヴァは素知らぬ顔をして、窓の外を静かに眺めている。
『……私を殺したひとのこと。そして、助けようとしてくれたひとのことを』


 さよはゆっくりと語る。肉声が聞こえないからこそ、そこに想いが籠もっていることが分かる。
『どこかの部屋に閉じ込められたわたしは、たぶん、何かで胸を突き刺されたんだと思います。
 よくは覚えてませんが、そのひとは手を翳して、何かの呪文を唱えました。日本語じゃなくて、不思議な響きの言葉でした。それが聞こえたあと、私の胸には何か鋭いものが突き刺さっていたんです。
 すごく痛くて、泣きたいくらい痛くて、ああ、私はここで死ぬんだなってそのとき思いました。
 そのひとは満足そうに頷いて、また別の呪文を唱えだしました。倒れている私を見下ろして、嬉しそうに笑っているんです。とても、とても嬉しそうに。
 長い長い呪文でした。もう死ぬはずの私はずいぶんと長いあいだ、その奇妙な響きの呪文をそのままで聞いていました。指一本動かせなくて、そのひとの顔も見られない状態なのに、声だけは聞こえてくるんです。
 ああ、これが魔法ってものなんだな、って私は思いました。その頃、学校でヘンな噂が流行っていたんです。
 麻帆良の街には魔法使いがいて、何かが起きると助けてくれるって。
 でも、魔法使いが助けてくれるなんてウソっぱちだった。そんなものに私は殺されるんだって、痛くて何にも考えられないのに、私はぷんぷん怒ってました。
 そんなときでした。私を殺したそのひとは、突然吹き飛んだんです。
 びっくりしました。流れていた涙も止まったかもしれません。そのとき、男の子の声が聞こえました。

 ――さよちゃん、ごめん。間に合わなかった、って。

 同い年くらいかなと思ったので、もしかしたら同級生の誰かだったのかもしれません。聞き覚えのある声だったけど、その声が誰のものなのかは、霞がかったみたいに分からなかった。ただ、私を殺したひとは、吹き飛ばされたのに、ぴんぴんしていて、すっくと立ち上がりました。
 立ち上がってすぐ、私を殺した魔法を、その子に向かって使おうとしました。
 心臓を何かで突き刺されているのに、私はまだ自分が死んでいないのが不思議だった。逃げて、って声を出そうとしました。でも、出なかった。
 たぶん、そのときにはもう、私は死んでいたんです。
 今みたいに幽霊になって、見ているだけのことしか出来なかったんです。
 槍のようなものでした。それがその子の身体に突き刺さりそうになったのを見ました。その男の子も何かの呪文を唱えていました。私はやっと気がついたんです。その子が、噂になっていた魔法使いなんだってことに。
 悪者を退治する、正義の味方。
 私が殺される前には間に合わなかったけど、それでもその子はちゃんと頑張っていたんです。
 それから、私を殺したひとと、男の子との長い戦いが始まりました。すごい派手な戦いでした。光がびゅんびゅん飛んで、部屋があっという間にぼろぼろになって、男の子も血を流して、私を殺したひとも血塗れになって、何度も何度も、ぶつかっていました。
 でも、そのあとのことは分かりません。
 なにも分からないんです。
 気がついたとき、私はひとりぼっちでした。ひとりで、この教室にいました。
 それから六十年近く、ずっとひとりで……ひとりぼっちで、どうしたらいいか分からなくて、誰かと話したくて、誰かに見てもらいたくて。
 私はここにいるよって。誰か、友達になってほしいって。……ずっと、ずっと思ってました』

『そんなときです。エヴァンジェリンさんが、声をかけてくれました。
 時々目が合った気がしていたので、もしかしたら見えてるのかなって、少しは思ってました。でも、本当に見えるなんて思ってなかった。
 だって見えていたなら、どうして今まで話しかけてくれなかったのかって、そう思ってしまうから。だからきっと見えてないんだって、こっちを見えているように思うのは気のせいなんだって、ずっと思うようにしてました。
 朝倉さんが、友達になるって言ってくれて。長谷川さんや超さんが私なんかのために色々考えてくれて……嬉しかった。
 クラスの皆さんも、友達になってくれるって、私とお話したいって言ってくれて、とても嬉しかったんです。
 すごく嬉しかった。嬉しかったのに、寂しかった。どうしてか考えました。私、そんなに頭良くないから、頑張って考えないと分からないんです。
 分かったことは、私はエヴァンジェリンさんとも、お友達になりたいってことでした。
 でも、嫌われてるんだって思いました。ずっと話しかけてくれなかったから。ここにいると邪魔だって言われたから。エヴァンジェリンさんにとって、私がここにいること。それがすごく困ることなんだってことは分かりました。
 友達になりたいのは私のワガママ。エヴァンジェリンさんが嫌がっているのに、それを押しつけるのはイヤだった。
 だけど……だけど、もしかしたらそうじゃないのかな、って思っちゃったんです。
 ずるをして、さっきの話を勝手に聞いてしまって、それで、分からなくなっちゃったんです。
 私はどうしたらいいんだろうって。
 だから、エヴァンジェリンさん。教えてください。
 ずっと私に話しかけてくれなかった。でも、私のことをちゃんと見守ってくれていた。そう思っても、いいんでしょうか』


「……さあな」
 エヴァの返事は、素っ気なかった。
「そんな、エヴァちゃん!」
 和美が批難するような声を発した。昨日の失敗を繰り返す気は無いようだが、それでもつい口を突いて出てしまったようだった。
「私に貴様らとなれ合うつもりはない」
「と、素直になれない選手権一位のエヴァが申しております。解説の朝倉さん、どうですかこのツンデレ」
「……千雨ちゃんてさ、時々すっごいよね」
 引きつり笑顔の和美だった。
「千雨。せめて空気を読め!」
「読んだ結果だぜ」
 苦笑を浮かべて、さよの席のモニタを指し示した。実のところ、エヴァの返事の時点で打ち込まれていた文章である。
『朝倉さんが言ってました。エヴァンジェリンさんは悪役ぶっているけれど、結果だけを見れば本心が分かるって』
 苦虫をかみつぶしたような表情で、エヴァが和美を睨んだ。
「朝倉和美、貴様!」
「昨日! 昨日の話だって!」
 慌てる和美をよそに、さよは話を続けていた。
『エヴァンジェリンさんがやってくれたことは、いっぱいあります。私を朝倉さんと引き合わせてくれた。長谷川さんや超さんに助けてもらった。クラスのみなさんとお友達になれた。全部エヴァンジェリンさんが話しかけてくれたから、今の結果があります。そして、エヴァンジェリンさんは今も目の前にいて、私の話をこうして聞いてくれている。もしかしたら、私が気づいていないだけで、知らないだけで、もっと色々なことをしてくれていたのかもしれない』
「で?」
 エヴァは先を促したが、それを否定しなかった。
 さよの言葉は的を射ていたのかもしれない。
『ありがとうございます。エヴァンジェリンさん』
「ふん。聞いていたんだろう? 不用意に私と親しくすれば、悪霊扱いで退治されるかもしれんぞ」
『かまいません』
 即答だった。
 エヴァですら、一瞬動きを止めた。和美が目を見張り、千雨はひゅう、と口笛を吹きたくなった。
『こんなに優しいエヴァンジェリンさんを悪者扱いするよーなひとたち、こっちからお断りです!』
「待て」
『でも、せっかくお友達になれるなら、末永く仲良くさせていただきたいですっ』
「だから待て」
 千雨は軽く笑った。
 昨日からのあれこれが、これで全部まとめて片付いたのである。これが笑わずにいられようか。
「なあ千雨。まさかとは思うが……こうなると思ってたのか?」
「いや、単純にエヴァがやりこめられてるのを見て楽しんでるだけ」
「クソ……あとで覚えてろよ」
「エヴァ」
「なんだ」
 不機嫌極まりないといった風に睨め付けられた。が、千雨は笑ったままだった。
 今更いいひとぶるなんてイヤだと、そうエヴァが口にしていたからこそ、こうして真正面から受け止めることには意味がある。
「がんばれよ」
「うるさい」


「相坂さよ」
『……? な、なんでしょう?』
 急にエヴァから畏まって声を掛けられたため、焦るさよの姿が目に浮かぶようだった。
「すまなかった」
『はい?』
 刹那の間。
『えっ!? あ、あの、どういう意味で……? あ、もしかして、友達になりたくないって……そういう』
「違う。お前の見立て通り、最初からお前のことに気づいていた。気づいていて何もしなかった。だからだ」
『なら、謝らないでください。謝られたら……どうしてって、問いかけてしまうから』
「……そうだな」
『分かってます。何もしてくれなかったことを責める権利なんて、本当は私には無いってこと。エヴァンジェリンさんには見えてるって、そう思ったときに、私から話しかければ良かった。無視されたかもしれない。見なかったことにされたのかもしれない。そう思っても、何度も、何度も、諦めないで話しかけ続ければ、きっとエヴァンジェリンさんはいつか返事してくれた。今こうして話していていると、それがよく分かります。私が何もしなかったのに、今になって自分のことばかり言うのは……すごくずるいことだって、分かってるんです』
「ああ」
『今こうして話していることだって、なけなしの勇気を出して話しているつもりだけど……朝倉さんや、長谷川さんや超さん、クラスの皆さんが、私のことを、私がいるってことをちゃんと知ってくれている。だから、ようやく前に踏み出せたんです。誰も私のことを知らなくて、誰も認めてくれなくて、それで、がんばるのは……すごく、難しいことなんだって、思います』
 エヴァは、頷いた。
『今だって怖いんです。エヴァンジェリンさんが、本当に私のことを嫌いだったらどうしようって。すごく、すごく怖いんです』
 さよは、きっと震えている。
 寒さを感じる身体を失っても、心がおそれを知っているから。
 得ることと、失うこと。
 それは表裏一体だ。持たざるものは失うことができない。ひとたび持てば、失うことを誰もが恐れる。
『もしかしたら……エヴァンジェリンさんと友達になれたら、私、満足してさくっと成仏しちゃうのかもしれません』
 さよは、微笑んだ。
 見えなくても分かる。そこにあるのは微笑みだった。
『こんなこと言っちゃうと、エヴァンジェリンさんは友達になってくれないかもしれません。でも。それでも』
 エヴァは何も言わなかった。
 そして、微笑みだけが残った。
『――私と、お友達になってくれませんか』




 その翌朝の話である。
 教室のざわめきは最高潮に達していた。一人のクラスメイトの所作にほぼ全員が注目していたからだ。
 だんだんと静まりかえっていく教室内の空気の中、我関せずといった風に、エヴァが窓際最前列、通称座らずの席の前に行く。
 首をかしげているもの数人。
 目を輝かせているのもいれば、おお、といった驚きの声を挙げているものもいる。
 茶々丸が後方ではらはらした様子で見守っていたりもする。
「おはよう、さよ」
『はい、おはようございます! 今日は良い天気ですね、エヴァさん!』
「そうだな……」
 おそらく自分で喋りつつ文章を打ち込むさよと、欠伸をしつつ、眠たげに相づちを打つエヴァ。
 さっと自分の席に向かったエヴァを中心に、周囲のどよめきは大きくなるばかりであった。

 やはりというべきか、さよは成仏しなかった。
 未練はすべて解消されたとは、本人の言である。
 さよが消えなかったことに、エヴァは驚かなかった。もしかしたら早い段階から予測していたのかもしれない。
 これが幽霊と魂の違い、ということなのだろう。
 結果だけを見れば、収まるべきところにすべて収まったと言える。さよの進退その他に対しては、エヴァが責任を持つことに決めたそうだ。あとで聞いた話によれば、さよを助けようとして間に合わなかった人物こそあの学園長なのではないか、ということだった。
 さよの話と言えば、和美はついに魔法について知ってしまったことになる。
 すっかり危機回避に目覚めてしまった和美は、魔法という言葉について、エヴァにも千雨にも一切聞こうとしなかった。下手に公表した場合のリスクもすでに承知しているようだった。さよの一件から麻帆良の情報操作能力にも気づいたのだろう。
 これで何も考えずに行動できるほど愚かではない。今回は聞かなかったことにしたようだ。これから少しずつ、知識を蓄えてゆくつもりなのだと思われた。
 エヴァに掛けられた登校地獄の解呪については、エヴァが焦るのを止めたためか、それほど急激な進展は見られなかった。
 さよの行動の距離制限が外れたために、まずは休日に麻帆良の外に出ることから試すつもりらしかった。
 とはいえ、修学旅行には間違いなく一緒に行けそうだ、との見立てである。これは素直に喜ばしいことだった。
 ようやく解決の糸口が見えた、といったところだろうか。
「どしたネ千雨サン。そんな黄昏れて」
「秋だなぁって思ってさ」
「うむ、まさしく食欲の秋ネ。切なくなったら、肉まん食べるといいヨ?」
「商売上手め」
「フフフ、お褒め戴き恐悦至極ネ」
 さよの言うとおり、窓の外は明るく、すっかり秋晴れの空だった。
 青く澄み渡った大空を、千雨はぼんやりと見上げ、この平穏な時間をただ噛みしめるのだった。

 
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